第7回 張繍と賈詡
袁術軍が目指す先には、かつて本拠地としていた南陽が待ち受けています。
ここには騎馬隊の強さに定評のある張繍と、董卓にその才を見込まれた賈詡が待ち構えています。
第7回 張繍と賈詡
<地図>
河北(冀州)
_____黄河____________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽(荊州) 潁川(豫州) 下邳(徐州)
襄陽(荊州) 汝南(豫州) 寿春(揚州)
---------- 長江 -------------------------
曲阿(揚州)
南陽は当時、地方のなかでは最も人口の多い郡であり、六十万戸に及んでいた。
南陽や潁川、汝南はもともと袁家の影響の強い地域である。
以前、南陽を拠点にしていた袁術が、潁川に進出してきた李傕討伐の兵をあげた際に、長安より軽騎兵を率いて南陽の城・宛を落としたのが董卓の娘婿の牛輔であり、先陣は張繍であった。
牛輔は生来残虐な男で、占領後、袁家に係わる者を徹底的に虐殺した経緯がある。
袁術や重臣の家族は事前に報を知らされて、城を脱出していたが、それでも張繍率いる騎馬隊の馬蹄にかけられて命を落としたものは数知れない。
牛輔が戦死した今、南陽を守る総大将は張繍であった。
張繍は牛輔とは違い、善悪の判断のつく性質であったので、南陽は以前の活気を取り戻してきている。
しかし、都を占領し政を独占する大司馬の李傕や、後将軍の郭汜に刃向う東方の勢力の最前線にあたるのがこの南陽だ。
張繍に与えられた使命は大きく、日々、緊迫したなかで欝々と生活をしていた。
「文和(賈詡の字)よ、袁術の軍は二十万にのぼると聞く。南陽の軍は五万ばかり。急ぎ、大司馬に援軍を求めなければならぬ」
心の落ち着かない張繍に対して、年かさの賈詡はなんでもないような顔をして、
「二十万は誇大告知。後背の劉繇の動きや兵站のことを考慮すると、まあよくて十万というところでしょうか」
「しかし、袁術は曹操と同盟を結んだと聞く。潁川に在住する曹操の兵も援軍として従うだろう」
「確かに曹操と袁術は手を結んだようです。ですが、それは我らも同じ。大司馬である李傕様と左将軍である袁術はそれ以前に和議を結んでおります」
「うむ。それはそうだが、現に袁術の軍は潁川を抜けてこの南陽に迫りつつある。南陽を落とし、長安を攻めるのは明白」
「そうですな。所詮は和議も同盟もその場しのぎの口約束。誰も本気で守ろうとはしておりません。だからこそ、袁術も全軍を率いて長安を攻めることができない。そして曹操はわずかばかりの援軍を送るのです。どちらもこの同盟がひと時だけ咲き誇る花のようだと理解しているからでしょう。散った花よりも散った後の土地の使い方に頭を悩ませているのです」
「両軍が力を併せて攻めてくることはないと云うことか。文和はいつも楽天的に物事を考えるが、状況は緊迫しているのだ。長安にいる大司馬と後将軍の不仲説はお主も聞き及んでいよう。宮中の官僚らも巻き込みながら都を二分する勢力争いを繰り広げているというのだ」
「こちらに回す援軍の余裕がないと?」
「大将たるもの、最悪の状況も考えねばならぬ」
「それでは、南陽など捨てればよろしい。張繍様がここに執着する必要性はありますまい」
「何を云う。私がここを放棄して大司馬がそれを許すものか。即刻断首に処せられるに決まっておろう。この期に及んでそのような戯言は聞きたくはない」
「戯言……はて、国の将来など頭の片隅にもないような連中の内輪揉めに巻き込まれて犬死するほうが遥かにくだらないことかと」
「文和よ、口が過ぎるぞ」
「董卓様の暴には志がありました。力によって宮中の腐敗を一掃した。そして将来、国を支えていくであろう若き人材を積極的に登用されました。李傕様は董卓様の真似をしているようで、その実、心がありません。国を思う心、国家の成長を望む志がないのです。徳もなく仁もない君主は必ず滅びます」
「う、うむ……しかし、袁術に降伏して許されるものであろうか」
「それは無理でしょう。袁家の人間を殺しすぎましたからな。市中引き回しのうえに断首となりましょう」
「随分と簡単に云うが、そのような惨めな最期を遂げるのであれば、私は戦って死ぬぞ」
「その選択肢もございましょう。しかし別にもございます」
「何であろうか」
「ひとつは劉表に援軍を求めることです。こちらは必ず大軍を送ってくれます」
「そうであろうか。劉表とはその後、疎遠になっている。正式には劉表は荊州の牧であり、私の上官にあたるからな。これまでしばらく礼を欠いている。今更協力してくれるだろうか」
「私が交渉に向かいましょう。必ず説き伏せます」
「おお、それは心強い」
「いまひとつ。こちらの選択肢もお忘れないよう」
「なんだ、落城の前に自害せよと云うことか」
「いえいえ、張繍様はひとつひとつを深刻に受け止めすぎです。もうひとつというのは、完全降伏です」
「袁術は許さぬと文和が云ったのではないか」
「袁術に降るのではなく、曹操に降伏するのです」
「何?なぜ曹操に降らねばならぬのじゃ。曹操など張邈の反乱にあって、兗州の一部と、豫州の潁川にしか領土がないではないか。しかも嫡子の曹昂を人質として袁術に差し出したと聞いた。曹操こそ真っ先に滅ぶのではないのか」
「その可能性も否めませぬ。しかし、ここで南陽が曹操に組みすれば曹操の勢力は袁術に並ぶものになりましょう。その状況で遥か西方の長安まで袁術が進軍できましょうか。我らに背後を突かれる恐れもあります。この南陽を落とすとなると、曹操との同盟は破られることとなり、袁術は南陽と潁川の挟撃にあって滅ぶことになるかもしれません」
「そうも簡単に話が進むものだろうか」
「私の見たところ曹操という男、天下を狙える逸材。徳と勇もさることながら、その知略の奥深さは私の比ではありません」
「簡単に兗州全域を張邈に奪われたがな」
「それがまたあの男を強きものに成長させましょう。将来を見据えて恩を売っておくならば今が一番かと」
「勝ち馬に乗れということか。文和の予想が外れたことがない故、私の決心も難しいところだが、戦わずに降伏はない。ここは劉表からの援軍を待とう」
「承知しました。して、外交交渉の場に鄒氏様を伴いたいと思います」
賈詡の口上に張繍は絶句した。
鄒氏とは今は亡き張繍の叔父の正妻である。
絶世の美女と名高いが、未亡人となって城の奥に籠っている。
「よもや人質に出す思案ではあるまいな」
憤怒の相で張繍が腰の剣の柄に手をかけた。
張繍自身が鄒氏に心を惹かれていることは、賈詡も重々承知していた。
劉表だけを動かすならば賈詡だけでも事は足りる。しかし、同時に張繍を動かし、曹操を動かすとなると、それ相応の布石が必要になってくるのだ。
「事と次第によりますな。対等の同盟を結ぶ。そのためには鄒氏様のお力も必要になるかもしれません。ここでの戦に勝利すれば、張繍様の株はうなぎのぼり。袁術、曹操はおろか、大司馬様とて無視できぬ存在になります。ここの身の振り方はまさに正念場ですぞ」
「叔父の妻を売って、武将の誉れが高まると云うのか!」
「このそっ首なら、いつでもご献上いたす所存。しかし、私はこのようなところで張繍様が犬死なさるのを見過ごせませぬ。最大限の努力をし、献策するのが軍師の役目と心得ております」
「黙れ文和。交渉にはお前がひとりで行くのだ。我が誇りにかけて鄒氏は城から出さぬ」
張繍の怒りは本物であった。
これ以上はさすがに強要できない。
それがわかっただけでも賈詡には充分満足であった。
先の布石が賈詡の頭の中で組み上がっていった……。
長安の状況はどうなっているのでしょうか。
潜り込んでいる馬超らは?
曹操にも出会っているのでしょうか。
次回、こうご期待。




