第5回 荀彧と程昱
拮抗した勢力状態で、思い切った動きをするのは誰なのか。
曹操の決断は。
第5回 荀彧と程昱
<地図>
河北(冀州)
_____黄河____________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽(荊州) 潁川(豫州) 下邳(徐州)
襄陽(荊州) 汝南(豫州) 寿春(揚州)
-------------長江 --------------------------
曲阿(揚州)
この日、荀彧は久しぶりに主君である曹操の帷幕を訪れていた。荀彧は潁川太守である夏候惇付の参謀長である。
長安へ進撃する袁術に対して、自らの意思で和議を結ぶ交渉に出向き、捕縛されていたが、袁術と曹操との間に同盟定立が成って、曹操の軍営に戻されていた。
代わりに曹操の長子である曹昂がなかば人質同様の扱いで袁術預かりとなっている。
「どうだ、袁術は、お前の志に副う漢であったか」
開口一番、曹操は笑顔でそう荀彧に尋ねた。
独断専行の外交交渉に対して責めを受けるつもりだった荀彧は驚いたが、表情には出さなかった。
「国を思う心はありました」
と、一言だけで答えた。
捕縛されて直接袁術と話をした限りでは、袁術に献帝を盛りたてて国の政治を立て直していこうという意思は感じられなかった。
むしろ漢が滅んだ後のことを考えている節がある。
国を五つに分けると云っていた。
戯言だと笑っていたが、目の奥の不気味な光はただ事ではない。
己が皇帝となるとまで宣言していたのだ。
「お前の存念通りに袁術とは和を結んだ」
「はい。ありがとうございます。皇室の復興も現実のものとなりましょう」
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せずか……。文若(荀彧の字)、お前の口癖であったな」
「はい。儒家の教えでございます」
そう答えながら、荀彧は額から流れ落ちる汗を止めることができずにいた。
曹操はどこまで把握をしているのだろうか。
恐らく、袁術が本気で献帝救出など考えていないことも御見通しなのかもしれない。
「現状、動きやすいのは袁術だ。後背の劉繇は孫策が対峙しているからな」
曹操はそう云って右手に持った杯を口にした。
いくら酒を口にしても酔ったところを見せたことがない男だった。
無邪気に本音を見せているようで、実は一片の隙も見せたことがない。そして相手の隙を窺うのだ。つられて本音を話せばたちまち斬り捨てられる。
荀彧はそう考えて油断なく曹操に接してきた。
利用価値があると判断している間はどんな失敗を犯しても責められることはない。しかしその失態を曹操は忘れることがない。相手に利用価値がなくなった時、初めてその責任を取らされることとなる。
陳留太守の張邈は、それを見据えて裏切ったのではないだろうか。見限られる前に見限った。
自分もその時がきたら同じ行動をとるかもしれない。
それは、あくまでその時がきてからのことだ。
皇室の権威は、今の曹操にとって喉から手が出るほどほしい宝である。
袁術にとっては廃れた瓦礫同様に見えるのかもしれないが、曹操は上手くこの権威を利用するだろう。そして曹操は天下に最も近い男となる。
「潁川を通過させますか」
片目を瞑って荀彧がそう尋ねた。
「無論だ。袁術とは同盟の関係だからな。邪魔立てする必要は無い」
「では、護衛の兵を五千ばかり伴わせましょう」
「必要ない。それ以上に価値あるものを袁術には渡してある」
「嫡子様ですね」
「そうだ。あれには典韋という兵を付けた」
「典韋……聞かぬ名ですが。何者でしょうか」
「呂布や張邈に恨みをもつものよ。盲目だが腕はたつ。両目の代わりに同乗していた李典というものは引き離したがな」
「盲目で戦えるのですか?」
「戦うのがあれの使命ではない。一度剣を振るえればそれで充分だ」
「まさか、袁術様のお命を」
「ははは、本気で云っているのか文若。あれが刃を向けるのは別よ」
「別……はて、袁術軍にあって戦上手は紀霊殿、張勲殿といったあたりですが」
「フン、文若といえどもそこまでしか頭はまわらぬか。ならば構わん。潁川に戻り、袁術軍を通過させよ」
腑に落ちない荀彧であったが、その命令を聞いて渋々帷幄を後にした。
「荀彧様、ご無沙汰しておりますな」
帷幄を出てしばらく歩くと、ふと、老人に声をかけられた。
「おお、これは程立殿。いや、今は名を変えられて程昱殿でしたか。失礼いたした」
「陳留攻めの算段がつきましてな、明日にも張邈を攻めまする」
「ほお」
軍事秘密をこうも簡単に軒先で話されて荀彧は驚いた。
敵の密偵がどこで耳をそばだてているかもしれないのだ。
「問題は呂布将軍。あの方を何とかせねばなりません。なんとかして両者を離間させたいと考えております」
「なるほど。それができれば陳留の攻略は容易い」
「張邈と呂布将軍の間にはそれほど友情があるわけでもなく、呂布将軍と曹操様が戦う義もありません」
「強いて云えば、呂布将軍は袁術様の援護をしたいのかもしれませんな。曹操様を東郡に釘付けできれば、袁術様も悠々と長安を目指すことができますからな」
「その曹操様ですが、あれほど張邈に敵意を剥き出しにしながら、陳留攻めには加わらぬとおっしゃられる」
「三国同盟がなって、目下の敵は張邈のみ。その敵を倒さずに、曹操様は何をしようと云うのですか」
「それがですな。実に馬鹿げた話ですが、長安の献帝をお救いになると云いだされた」
「ほう。長安との間には陳留がありますから、そこを落としてからのお話では?」
「いえ、陳留は夏侯淵様に一任し、少数精鋭で長安に潜るようなのです」
「な、なんと。そんな斥候のような役、君主たるものの行いではない。お諫めはしたのですか、程昱殿」
「お諫めして聞くような方ではない。それは荀彧様もご存じのはず」
確かにそうである。
曹操は一端決めたことは、よほどのことがない限り諦めない。
しかし、仮にも君主たるものが、敵陣真っ只中に密かに乗り込むなど正気の沙汰ではない。見つかったら殺されるのは当然のこと、この兗州の地はあっと間に張邈に占領されるだろう。
「それで、少数とはどれほどの兵なのだ。一万以下ということもあるまいが……」
程昱はため息をつきながら荀彧を見つめ、吐き出すように
「供は二名です」
「に、二名……では、曹操様を含めて三名で長安に侵入するというのか。間には陳留があり、洛陽があり、野党の群れも跋扈しているというのに。無事につけること自体が奇跡ではないか」
「はい。しかし東面軍の参謀長の荀彧様には知っていただかなければと、こうしてまかりこしました」
「むむむ……」
荀彧もさすがに唸った。
呂布相手に戦で勝てる可能性は半分ほど。
それはもちろん曹操が陣頭に立っての話だ。曹操がいなければ勝ち目などない。
兗州一帯を失っても、曹操には豫洲の一部である潁川がある。
曹操はかつて荀彧にこの地に皇帝を連れ、遷都すると云い放っていた。
兗州を棄てて献帝を奪取することに力を注ぐつもりなのだろうか。
それにしても数が少なすぎる。成功の見通しなどゼロと云っても過言ではない。
しかし、そんな無謀な冒険を曹操がするのだろうか。
勝算のないことは決して無理しない男のはずだ。
荀彧には曹操と云う男がわからなくなってきた。
「程昱殿、嫡子曹昂様に付けられた典韋という盲目の士は何者なのでしょうか」
「……聞かれましたか。そうですが、荀彧様にはお伝えしておきましょう。典韋は介錯役です」
「介錯?相手は?」
「……嫡子様です」
「な、なんと……ご自分の長子を殺すと云うのですが」
「荀彧様、声が大きすぎます」
「し、しかし」
「曹操様は今、四面楚歌の状態。袁術とて長安を奪えば、たちまちこちらに牙を剥いてきましょう。徐州の劉備とて同じ事。先日の徐州の民虐殺の恨みを忘れてはおりますまい。北の袁紹も公孫瓚を討ち滅ぼせば、次はこの兗州の番です。動くならばここしかありますまい。そして動くならば徹底的にやらねばなりません。我が子といえども利用できるものは利用しつくす。嫡子様も当然その腹づもりで袁術の陣に赴いております」
「袁術を油断させておいて、曹操様が献帝を救出するという筋書きですか」
「だけではありません。同時に兗州一帯を押さえ、豫洲も完全に支配下に治める。あわよくば徐州、揚州もすべて平らげる戦略」
「可能なのでしょうか、そんな神算」
「曹操様であれば、もしかすると」
「かつて曹操様は荀彧様を月に例えられました。長安に幽閉されている献帝を救い出した後、その心を癒すのは荀彧様のお力かと」
「私が月……」
「曹操様のことです。どこまでも慎重に策を練っているはず。私はなんとしても陳留を攻略しなければなりません。お知恵を拝借したい」
程昱は夏侯淵付きの参謀長であった。
「曹操様本陣の旗印を上手く活かせるかが鍵かと。後は城ひとつ、県ひとつ捨てる覚悟が必要です」
「捨てる覚悟ですか……なるほど。さすがは曹操様の子房(張良の字で漢建国の功臣)と呼ばれていらっしゃるお方。参考にさせていただきます」
「いえ。私もすぐに潁川に戻り、袁術様を迎える支度をいたします」
「くれぐれもご無理はなさらぬように」
程昱は荀彧が独断専行で袁術と交渉を進めたことを暗に責めているのだろう。
「ご忠告痛み入ります」
そう答えた荀彧の片目はやはり瞑られたままであった。
曹操の供二名は誰でしょう??
長安には馬超たちも潜ってますからね。
果たしてどうなるのか。
次回、こうご期待。




