第4回 興平二年(195年)の群雄割拠
またまた久しぶりの更新になってしまいました。
群雄割拠の情勢を改めてまとめてみました。
動きずらい状況なのは間違いないです!
第4回 興平二年(195年)の群雄割拠
<地図>
河北(冀州)
_____黄河____________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽(荊州) 潁川(豫州) 下邳(徐州)
襄陽(荊州) 汝南(豫州) 寿春(揚州)
---------------長江---------------------------
曲阿(揚州)
勢力が拮抗している状態での群雄割拠は大胆な行動がとりにくい。
思い切った決断が裏目に出る。そんな可能性があるからである。
慎重にならざるを得ない。そして隙ができる勢力をじっと待つのだ。
君主たるもの強い忍耐力を要求される。
現在、軍事力の頂点に君臨するのは都・長安の李傕派である。
が、四方を敵に囲まれていて思うような政治の匙がとれていない。
次に注目されているのが、黄河の北、河北の覇を競い合っている袁紹と公孫瓚だろう。
ともに勢力は拮抗しており、後背に憂いもなく、正面から互角に渡り合っている。
白馬義従を率いる公孫瓚は平野での戦いで抜きん出ており、対して袁紹は兵力と参謀ら人材の確保で均衡を保っていた。
黄河より南には、呂布と張邈の連合軍と曹操が兗州の覇を争っていた。状況は圧倒的に曹操が不利であったが、蝗害の襲来により戦線は膠着状態であった。
さらに南には左将軍である袁術がおり、後背で袁紹と組みする劉繇討伐に兵をあげていた。そちらの総大将は若き猛将、孫策が務めている。
曹操、袁術の領土に挟まれるように徐州があり、こちらは刺史である陶謙が不慮の死を遂げ、代わって劉備という皇室の一族が州をまとめていた。
陶謙はもともと袁術の派閥に属しており、徐州自体も袁紹派の曹操に攻め込まれたことから、世間では劉備は袁術寄りと噂されている。現に互いに何度も援軍を出しあっていた。
西には荊州牧の劉表が広大な領土を支配しており、さらに南には州牧を世襲した劉璋が益州を王の如く治めていた。
最果ての西の涼州は馬騰、韓遂の連合軍が李傕に対抗しているが、密かに精鋭を募り、長安に幽閉されている漢の第十四代皇帝・献帝奪還を企てていた。
軍閥や地方の豪族、野党の類まで巻き込み、時は乱世。
誰が一歩抜き出るのか、まったく予断を許さないような状況であったのである。
ここに一石を投じたのが、袁術であり、曹操であり、劉備であった。
「中原三国同盟」
これは兗州・徐州・揚州三国が同盟を結ぶという誰も予想しなかった事件だった。
それぞれに思惑がある。
兗州は蝗害の深刻な被害で食料難であったこと。とても戦争を続けられる状況ではない。
徐州は曹操の侵略と州牧の代替わりの動揺を未だに押さえきれていない。
そして揚州の袁術は、こんな僻地の勢力争いなどには興味がなかった。目的は都、長安の奪取。皇帝を抱えて、袁家の統領として国の政のかじ取りをすること。そのためには余計な争いは避けたかった。
ただ、袁術には中央集権国家の存続には疑念を抱いていた。
地方の活性化こそが国の発展に繋がると、今では信じている。
健全なる経済の競争で互いの国と人を高め合う。
長安を押さえた暁には、袁紹や公孫瓚、曹操、呂布や劉備や劉表、劉璋や馬騰・韓遂にはそれを求める算段であった。
袁術は莫大な兵糧を曹操に贈る見返りに、曹操の長子である曹昂を人質として迎え入れた。
長安進撃の準備は完全に整ったといってもいい。
ひとつだけ不安な材料があるとしたら、それは兗州の反乱に与した呂布の存在であった。
曹操反乱の旗印は陳留太守の張邈である。
曹操とは無二の親友であった。
故に曹操は張邈の裏切りを決して許さない。
呂布が係わっていなければ張邈など片手で捻りつぶせるのだが、騎馬隊を率いれば天下に敵なしと謳われる飛将・呂布の存在は大きい。またその朋友である陳宮もまた曹操に匹敵する知恵者でもあった。
曹操が決して自分を許さないとわかっている張邈は、降伏しない。
せめて呂布を引き離せれば話は簡単だが、呂布は信じるに足りる相手を裏切らない。
出世欲などに未練もなく、呂布は義のために戦い、死んでいくだろう。
袁術はそこを対処しない限り、本格的に長安攻めはできない状態だった。
さて、呂布の処遇を巡って袁術は苦悩することになります。
曲阿での戦いもいよいよ始まります。
次回、こうご期待。




