第2回 白波
馬超、魯粛、王耀、ついに長安で献帝奪取の大作戦が始まります。
第2回 白波
<地図>
_____黄河____________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽 潁川(豫州) 下邳(徐州)
汝南(豫州) 寿春(揚州)
かつて都として栄えていた洛陽と遷都後の首都、長安は、約六百里(300㎞)離れている。
洛陽と長安のちょうど中間地点に弘農郡という地があり、現在は董卓の遺臣である撫軍中郎将の李蒙が治めていた。
弘農の北にはすぐに黄河の流れがあり、その先には河東郡がある。
長安、洛陽、弘農、河東を含めた一帯を司州と定め、漢帝国の中心地とされているのだが、董卓らの横暴によって廃れ、特に河東は「白波」という賊徒の支配地に成り下がっていた。
白波の賊は黄巾の残党が白波谷に拠ったところからそう呼ばれているが、頭領の楊奉は武勇に優れ、兵も死を恐れずに戦うことから他国の群雄に匹敵する勢力とされている。
その楊奉のもとにひとりの商人風の男が訪ねて来ていた。
「今、お話した話が正式なものである証がこちらにございます」
小太りで愛嬌のある男が商品を宣伝するかのように懐から書面を取り出し、得意げに開いて見せた。
目前には偉丈夫が二人、やや離れて壁に背をつけて腕を組んでいる女が一人、奥には虎の毛皮をかけた椅子に座っている男が一人。
誰ひとり書面に注目する者はいない。
「いやいや、こちらに押してあるのが帝の玉璽の印ですぞ。いわばこれは勅命。勅に従い功をたてればお望みの官位を得ることもできます」
小太りの男が汗をかきながら必死に強調する。帝の勅を携えて来たにも係わらず反応があまりにも弱かったことで焦っている様子だ。
「官位?そんなもの糞くらえだ」
太い槍を右手に持った男が乱暴にそう云い放って唾を吐いた。平気で人を殺せるような冷たい目をしている。
「そういきり立つな李楽。失礼、私の名は胡才。お使者の方は、魯粛殿といったか、我らには玉璽の真偽はわからぬ。白波には本物の玉璽の印を見たことのあるものが誰もおらぬのだ」
槍をちらつかせる李楽の隣に立つ胡才は柔らかくそう云った。右目が刀傷で潰れている。茶色の髪は肩まであった。腰には長剣。
「勅も官位も玉璽も俺たちにはどうでもいい話。それよりも金だ。話をまとめたくば幾ら払えるのかを云え」
二人の男の背後にいる女の声。
魯粛の見たところこの女は武器らしいものは携帯していない。頭領の愛妾といったところだろうか。李楽や胡才といった部将よりも発言権はあるようだった。
「いやいや、これは参りました。勅命よりも金とは・・・」
「払えぬと?」
「もちろん払いますよ。金を馬五頭、銀を馬十頭に引かせてお渡しいたします」
「金を馬五頭だと」
李楽が目の前で唸った。胡才の目も輝く。
女が大きな目を見開いて魯粛を見た。
「偽りを云うと容赦せぬ。その首を刎ねて街に晒す」
「自慢ではありませんが、生まれてこのかた嘘というものをついたことがありませぬ」
魯粛がそう云ってニコリと笑った。笑顔には疑心を削ぐ効果があることを魯粛は知っている。
「どこにそんな金がある」
女は魯粛に近づいてそう尋ねた。
腰まである紅い髪。腰は細い。唇も血のように真紅で、鷹の羽のような睫毛をしている。猫のように大きな瞳は深い緑。異国の血が流れている証拠だった。
「成功した暁の話でございますれば、ここには用意しておりませぬ」
魯粛はさらに笑顔を濃くしてそう答えた。
すると女がさらに一歩近寄り、魯粛の顔に手を近づけた。いつの間にか女の両手からは鋭く研がれた鉄の爪が飛び出していた。それを魯粛の頬にピタリとつける。
「そんな話を本気で信じるとでも?」
「この魯粛、嘘は申しませぬ」
「その耳を落としてもその戯言をまだ云い続けられるか試してやろう」
女が真顔で魯粛の左耳に爪をかけた。
「ご無礼」
声と共に影が魯粛の背後から現れ、女の首元に刃を突き付けた。
魯粛の従者のひとりである。
「下郎・・・」
女が鬼の形相でその従者を睨んだ。
従者の面影は青年というよりも子どもに近い。
みなぎる殺気とともに剣の刃を当てている。
「韓暹、そこまでだ」
と、女の背後から低音に響く威厳ある声。虎皮の椅子に深く腰をかけていた男のものであった。
筋骨隆々の上半身に三つの髑髏を結びつけた首飾りをつけ、耳には幾つもの輪の耳飾り、頭にはまったく毛がなく、眉毛も剃られていた。彫りの深い顔つきに無精髭。狼のような眼光。
頭領の楊奉である。
「耀殿、剣を収められよ」
韓暹と呼ばれた女が爪を退いたので、魯粛は従者にもそう命じた。
耀と呼ばれた少年は音もたれずに剣を下ろして鞘にしまった。
端に立っていた少女がすかさず耀のもとに駆けつける。耀は笑顔で少女に応えた。
「魯粛よ、白波はお前の言葉を信じよう。約束の刻までに弘農の李蒙を攻め、洛陽までの路を拓こう」
楊奉は静かにそう云った。
「いやいや、これで献帝は長安の牢から羽ばたけまする」
魯粛は笑顔で何度も頷きながらそう呟くのだった。
一方、長安。
董卓の暗殺に加担していた楊脩を息子にもつ楊彪は、太尉として官位を与えられ復職していた。
楊彪の妻は左将軍の袁術の妹であり、袁術の義弟である。
朝廷を牛耳っていた李傕は袁術との和睦の証として楊彪を再度取り立てたのだ。
条件は生死不明の楊脩が仮に生きていたとしても楊家から追放するというものである。
条件を飲んで楊彪は嫡子を失った。
太尉は三公のひとつであり、官位のなかでは最上級に位置する。本来であれば献帝の代わりに政を指揮する立場だ。
しかし、今の政治全般は李傕の独壇場であり、太尉として口を挟める余地はなかった。よって閑職といっても過言ではない。
「で、太尉様、いつになったらおっぱじめるんだ?」
全身から湯気のような覇気をみなぎらせる青年。
高い鼻に太い眉。爛々と輝く瞳。着ているものこそみすぼらしかったが、体躯は頑健で、それでいて気品が漂っていた。
西国で知らぬ者はいないといわれる「錦馬超」こと馬超孟起そのひとであった。
十四歳の初陣にして敵将五人の首を獲り、十九の今では西国に馬超と真っ向から打ち合える者はいない。最強の称号を得ていた。
「若殿、急いても始まりませぬ。事が事ですので慎重を期さねばなりませぬぞ」
そう声をかけたのは馬超の傅役、西涼の虎と呼ばれる龐徳令明。
武芸に優れ、冷静沈着。馬超の父である馬騰から特に信認厚かった男である。
「令明は口を開けば慎重、慎重。漢たるもの危ない橋を渡らねば大事は成せまい」
馬超がそう云い返すと龐徳はため息をついた。
馬超が血に飢えていることは随分と前から気が付いていた。
長安に潜入してはや半年の月日が流れている。
楊彪に仕える奴隷の身分に扮している以上は目立つ行動はとれなかった。
この半年、馬超は剣を振っていないし、人も斬っていない。戦えぬことで馬超は強烈な精神的損害を受けているのだ。その苛立ちは限界に達している。
この機会が馬超を大人に成長させてくれないかと龐徳は願っていた。
馬超の気質が君主、大将としてはあまりに自由奔放すぎるからだ。
「孟起殿、今しばらくお待ちくだされ。内部と外部の準備がもう少しで整うのです」
館の主である楊彪である。
これまでの心労がたたり、髪は雪のように真っ白だ。目を閉じてそう馬超に告げた。
片や政界の頂点を極めた楊家の当主であるのに対し、馬超は名こそ知れ渡っているものの辺境の無頼漢に過ぎない。それでも楊彪は礼を欠くことをしなかった。
「孟起の兄貴、やるときは李傕の相手は俺にさせてくれよ」
懇願してきたのは長身で痩せ型の偉丈夫、涼州の名家の次子、楊秋。槍をよく遣う。
「ふん。李傕など野犬同然。獣の首に興味などない。お前にくれてやる」
「おお。ありがたい」
「では兄上は誰との打ち合いをお望みか」
そう問うのは馬超の三つ年下の弟、馬鉄。馬上での弓をよく遣う。
「そうだな。呂布だな」
「兄上、呂布殿は今は東の兗州です。長安にはおりませんし、李傕の部下でも同盟者でもありません。戦うことはできませんよ」
「お、そうなのか。では誰か名のある武将はいるのか」
馬超が問うと、今度は同朋の成公英が口を開き、
「李傕の旗本を率いる徐晃という男、戦斧を操り向かうところ敵なしとか」
「ほう。向かうところ敵なしか、面白い。俺と向き合いその大口叩けるのか試してみよう。どこにいる」
「・・・兄上、まだ動けません。時が満ちるまで我慢しましょう」
馬鉄が必死になだめるのであった。
献帝奪取の大作戦がこうして秘密裏に進められていく。
年は興平二年(西暦195年)、後漢第十四代皇帝である献帝は、齢十四を迎え元服した。
孫策、周瑜、それぞれの志を胸に曲阿攻めへ。
名士、劉繇はいかに防ぐのか。
こうご期待。




