第3章終幕 第40話 袁術の志
袁術と荀彧のこれまでの問答につきましては、
第2章の第3回、第29回をご覧ください。
第3章終幕 第40回 袁術の志
<地図>
鄴(冀州)
_黄河________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽 潁川(豫州) 下邳(徐州)
汝南(豫州) 寿春(揚州)
豫州、潁川
この地で戦をするのは二度目だった。
拠点としていた南陽の城から撃って出た俺は、この潁川で李傕の軍と戦い、そして敗れた。
見事に最大勢力の袁術を撃退した李傕は、その武功とともに長安に凱旋し、亡き董卓の後釜に座ることとなった。
あの時、潁川で戦わなければならなかった理由はひとつ。
長安周辺にいる董卓の主力をここに引き寄せ、手薄になった長安の都で画策されていた「革命」を成功させることであった。
この革命には、三公のひとつである司徒の王允や、司空である楊彪、車騎将軍の朱儁、中郎将であった呂布などの面々が賛同していた。
革命の目標は、太師である董卓の暗殺と皇帝の奪還であった。
「連環の計」と呼ばれるこの用意周到な策謀には、俺の息子である耀や、呂布の娘なども刺客として利用された。
董卓の主力を遠く潁川に引き離すことには成功したものの、肝心の董卓暗殺は失敗に終わり、王允や耀は捕らえられ拷問にかけられた。
王允は死んだ。
王允は、皇帝が政治と権力を一手に握り、強固な専制を敷くことを夢見ていた。それが国を建て直し、民衆を救う術だと信じていたのだろう。
清廉潔白を売りとしていたが、志を遂げるためであれば何でもする男だった。
俺と呂布が父とも慕っていた男でもある。
王允が死に・・・俺の息子も、呂布の娘も生死もわからぬ状態だが、そんな犠牲のなかで、革命は皇帝の「逆賊董卓を成敗する」との勅が出て大きく動いた。董卓が病死したこともあり、革命軍は長安を占拠したのである。
だが、董卓の後継者たる李傕がその残党を率いて長安を落とし、また皇帝は幽閉されることとなった。
長安周辺を牛耳る李傕軍は、董卓が健在だった頃に比べると勢力も兵の質も劣っている。
それを未だにのさばらせているのは、東の諸侯の足並みが揃わないことが原因だった。
特に俺と冀州の牧である袁紹との家督争いが、近郊の勢力を巻き込み、事態をさらに悪化させている。
袁紹は、兗州の牧である曹操や荊州の牧である劉表と手を結び、俺は北の公孫瓚や徐州の牧である陶謙と対抗する盟を結んだ。
もし俺が本初(袁紹の字)と手を取り合って救国に尽していたら、李傕など滅ぼすのは容易であっただろう。
やがて曹操は自立の志を示すようになり、袁紹との関係は冷ややかなものとなってきた。
曹操に圧倒された徐州の陶謙は、戦上手の張飛に牧の座を譲った。
曹操に牙を剥いたのは陳留の張邈である。放浪を続ける呂布と結んで反乱を起こした。
こうして、東は収拾できぬほどに混乱を極めることとなったのだ。
古来より呪術には「蠱毒」という恐ろしい儀式がある。
猛毒をもつ毒虫、毒蛇などをひとつの器に入れて蓋をし、共食いさせる。最後に生き残ったものは強力な神力を有するようになるというものだ。
東国はまさにこの蠱毒の器の状態だった。
そして、乱世とも呼ぶべきこの東国の乱れを収められるほどに力をつけたものが、西におわす皇帝を救出し、これから先の漢の支配者となるだろう。
縄に付けられて坐する男は両目を閉じていた。
願いは叶わなかったが、この男に本初との仲介役を頼んだこともあった。
この潁川の名士である荀彧である。
才はあれど、帝以外のものには決して忠を誓わぬ男が、なぜか曹操に膝を屈した。
そして曹操と袁術の和睦を結ぶために俺の帷幄を訪れ、捕らえられたのである。
「文若(荀彧の字)よ、曹操は和睦の使者としてお主を立てながら、一方で我が陣の一角である韓浩に調略をかけた」
俺は側近の陳紀に縄をはずすよう命じてから、そう声をかけた。
荀彧は血の滲んだ手首を擦りながら、
「和睦については私の一存で行ったこと。曹操様には二心はありません」
と静かに答えた。
「潁川の軍は韓浩の離反に呼応して城から撃って出たという。君主たる曹操はおろか、潁川の太守である夏候惇すら、お主の意にそぐわないのではないか」
「孔子に曰く、己達せんと欲して、人を達せしむと。真の仁者は自他の区別などしません。夏候惇様は潁川の安堵を曹操様から一任されていますが、その経営手腕はまさに臨機応変。義によって他者を救い、また他者の目的を達成することで、己の目的である潁川の治政を盤石なものとしております」
「一介の武人である夏候惇が怜悧な政治家だと?およそ似つかわしくない表現だな。そもそも拠点である兗州の領地を侵されている状況で、なぜこの豫州に固執しているのだ。俺の長安への進軍を妨げる以外に目的などあるまい」
俺も極力冷静に話を進めた。
話の展開次第では斬らねばならない。
韓浩の離反は大きな損害であった。
「曹操様はこの地に帝をお招きになるつもりです」
そう云った荀彧の両目は開いていた。
「それは文若の希望であろう。遷都など、今の曹操にそのような真似ができると、本当に思っているのか」
「はい。この和睦が成れば必ずや」
和睦など、一時しのぎの外交交渉に過ぎない。
勢力を盛り返せばそんな約定は簡単に反故するだろう。
「曹操が誠に勤皇の臣であると信じているのか」
「民、信無くんば立たず。曹操様の政が領民に支持されていることからも、その言に信があるが故」
「お主は頻りに孔子の言葉を引用するが、俺が儒を嫌悪していることを忘れているのか?」
「いえ、袁将軍は形式ばったことがお嫌いなだけで、儒の本質は体現されているお方。戦による解決を求めないことが、何よりその証拠。また家格にとらわれず、何者とも対等な関係を築かれるのも儒が求める徳目、仁に他なりません」
「ハハハ・・・文若にかかれば俺も立派な儒家というわけか。で、俺と曹操が仲良く手を取り合って帝を盛りたて、漢を立て直すと?夢物語だな」
「夢は、己の幸福を追求するだけのもの。志は、国の幸せを追い求めるものです」
「俺と曹操に志を持てと云うのか。あの野心と策謀の塊のような男と」
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。政治の手腕は互いに切磋琢磨すればよい話です。志さえ共有できればいいのですよ」
荀彧は諭すようにそう云った。
志。
そんなものは綺麗ごとだ。
己の欲望を果たすためだけの詭弁に過ぎない。
本当に国のため、民のため、他人のために懸命になるものなど神話の中にしか存在しない。
では、目前にいるこの男は何者なのであろうか。
国を憂い、それを改善するのが己の使命だと信じ、あまつさえ単なる外交交渉に己の命をかけているこの荀彧という男は何者なのか。
確かめねば収まらぬ。
「文若よ、長安に囚われている献帝が崩御された場合は如何にするつもりだ。献帝はまだ幼少、御世継はいないぞ」
「無論、高祖の血を受け継ぐものが次の帝となりましょう。私が全身全霊をかけ、その政を補佐し奉る」
「劉家の血筋など、今の世に星の数ほど数多いる。どう決めるのだ。群雄が互いに新帝を担ぎ上げ、さらなる乱世の嵐が吹き荒れることになるぞ」
荀彧はしばらく俺の顔を見つめていた。
李傕が攻め寄せる軍勢に敵わぬと感じた場合、献帝を殺害することは、充分あり得る話だった。
「継承権には順がございます」
「先の霊帝も王族より擁立され、それが宦官台頭を招き、おおいに国を乱した」
「何をおっしゃりたいのです」
「お主の云う志を採るのか、漢皇室を守ることを採るのか、どちらか一方を採るとなればどうするのだと聞いている」
「臣の身で口を挟むべき事柄ではございますまい。ひたすら忠勤に励むことを臣は考えるべきです」
「文若の限界はそこか。それでは曹操につけこまれるぞ。臣の身であろうが、誰かが口を挟まねば決まらぬこと。そして挟むものが権力の座につくことになる。それが御輿を担いだものか、外戚か、宦官か・・・どちらにせよ同じことの繰り返しよ」
「それは政に携わるものたちの罪。それを断罪すれば済む話」
「お主の志はいささか形式じみているな。人の世はそれでは割り切れまい。曹操はよく人を見る。文若の話通りでは、いずれ曹操の専制を招くことになろう。その時になって曹操を断罪できるものなどおるまい。いや、言葉だけであれば儒家のものたちが挙って意見するであろうが、国を動かすほどの影響力のあるものはいない世界になっているだろう」
「仮にそうなれば、私がお止め致す。この命をかけて諌める所存」
「で、あろうな。しかしそれでは弱いとは思わぬか」
「・・・袁将軍がいらっしゃいます」
「ハハハ、天下を二分する戦をするのか。だったら今決めたほうがましだ」
「和睦はせぬと」
「和睦はしよう。お主の志、わからぬでもないからな。しかし、一点だけ条件がある」
「条件・・・なんでしょうか」
「献帝の身になにかあった場合、俺が帝となる」
「な、なんと」
「俺が帝となり曹操を押さえれば済む話だ。ついでに国を五つに分けよう。東西南北にそれぞれの王を置く」
「王・・・」
「そうだな、北は本初、東は曹操、西は韓遂、南は孫策に治めさせる。文治統治のもと、国同士が互いに切磋琢磨して富める国を作る。俺は寿春でのんびりさせてもらうことにするかな」
「本気、とは思えませぬが」
「あくまでも献帝がみまかられた場合のことよ」
「四百年に渡り続く漢帝国を滅ぼすとおっしゃられるのか」
「創造と破壊は表裏一体。志を遂げるためには古き慣習から脱皮し、新しい社会を創りあげねばなるまい。今こそその機会ではないのか」
「臣の身で皇帝の座を望まれるか」
「高祖劉邦とて生まれて後は一介の侠客。そもそも殷王朝とて王の継承は世襲ではなかったと聞くぞ」
「高貴な血統を守ることも国の安寧のため。非世襲ではいたずらにあらぬ紛争を招くことになります。長い年月をかけて侵しがたい権威の象徴を育むことが、揺るがぬ国の柱となるのです。高祖の血を絶やすことは許されぬことです」
荀彧は血の気のひいた青い顔をして必死に反論していた。
高祖の血にどれほどの価値があるというのか。
少なくとも現状の国の混乱ぶりはその血のせいである。
「戯言じゃ文若。本気にするな。少しお主をためしただけのことよ。わかった。曹操とは手打ちにしよう。我が軍はこのまま長安を攻める。だがお主の言葉だけを信じて進軍し、曹操に背腹を突かれるのも心外だ」
「私が人質としてここに残ります」
「そうか。ならば話は早いな。しかし、世間を納得させるにはそれでは足らぬ」
「何が必要でしょうか」
「曹操の長子、曹昴を俺に預けるように伝えよ」
「嫡子を人質に。それでは和睦ではなく、降伏となります」
「それは曹操が決めること。お主は早速、兗州へ行くのだ」
「わかりました」
荀彧はうつむいてそう答えた。
「袁将軍、注進が入りました。夏候惇が一万の兵を率いて城から撃って出たとのこと」
「何?一万の兵で。どこに向かった。東か」
「こちらに向かって猛進して参ります。先陣の梁剛様は抜かれました」
「一万で本陣を目指してくるのか。馬鹿な。死ににくるようなものではないか」
俺は驚いてそう叫んだ。
矢継ぎ早に伝令が到着する。
「第一陣の楽就様、抜かれました」
「不甲斐ない。第二陣はどうした。雷薄は」
「報告致します。第二陣、雷薄様も突破されたよしにございます」
「なんだと。第三陣は程普か・・・よもや程普が後れを取ることはなかろう。夏候惇を捕らえても殺すなと伝えよ」
「袁将軍、注進でございます!」
「次はなんだ。まさか程普まで抜かれたわけではあるまいな」
「ひ、飛蝗です。一面の空を飛蝗が覆い尽くしております」
「飛蝗だと・・・」
帷幄の幕を開いて外を見た。
夜の帳が下りたかのような暗闇がそこにはあった。
幾憶の羽が震える狂音がひしめいている。
もはや戦どころではない。
人の身では避けようもない天災が舞い降りたのだ。
古来より蝗害を止められるのは王の威のみ。
始皇帝の時代からは、それが皇帝の役割に変化している。
俺は歯ぎしりをして天を仰いだ。
荀彧は片目を瞑ったままでそんな俺を見つめていた。
第3章 蠱毒 終幕。
いよいよ最終章に突入です。
乞うご期待。




