表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/130

第39回 天意

果たして曹操はどこまで先を見ているのか。

第39回 天意


  <地図> 

         鄴(冀州)

_黄河________________

長安  洛陽  陳留(兗州) 東郡(兗州)   


   南陽  潁川(豫州)    下邳(徐州)

  

        汝南(豫州)  寿春(揚州)


 兗州えんしゅう陳留ちんりゅう


 州牧である曹操そうそう孟徳もうとくに反旗を翻した太守、張邈ちょうばく孟卓もうたくの城に、他郡の太守や県令、将校たちが続々と集まってきていた。

 

 「なぜじゃ陳宮ちんきゅう殿、なぜ東阿とうあの城を攻めぬ。今ならば力攻めで城は落とせる。後詰を期待できない孟徳は、落城を指を咥えて見ていることしかできぬ。それなのになぜ我が軍が城に籠って動かぬのじゃ」

張邈は上座から怒気を含んでそう尋ねた。

 軍議の場に集まった名のある者たちも賛同して頷いている。

 つい数日前までは呂布や陳宮に曹操撃退を託し、それでも曹操の威光を恐れてビクビクしていた者たちである。

 それが曹操の勢力が衰えた途端にこの手の平の返しようだ。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるとはまさにこのことであった。

 呂布がその気になれば、一刻のうちにここにいる全員の首を刎ねることができる。だが始めから烏合の衆の志などその程度のものだとわかっていた呂布は、苦笑いを浮かべるだけで気性を荒ぶらせなかった。


 「……張太守のおっしゃる通り。今こそ憎き曹操の首を討つとき。この機を逃すは愚か者の所業でござろう」

 「……そうじゃ。今ならば赤子の手をひねるようなもの。見す見す好機を逃す手はあるまい」

 「……いやいや、我が軍に敵の伏兵がいたら話が別じゃ。曹操の生命いのちを永らえさせようと誘導するやもしれぬ」

 「……なんと、埋伏された敵方がここにおるというのか。よもやそのようなことが」

 「……徐州じょしゅうより撤退し、疲労困憊の敵に情けをかけたはそのためかもしれぬぞ」

 「……おお、そうであれば話は通る。なかなか城に攻め込まぬのも曹操の気勢が興るのを待っているということか」

 「……ではなんじゃ。始めからこの反乱は曹操の手の者によって仕組まれていたということか」


 いつの間にやら一番の功労者である陳宮が曹操の密偵の疑いをかけられる始末であった。そもそも陳宮の緻密な戦略がなければ今日の情勢はない。

 呆れ返った顔をしながら陳宮がようやく口を開いた。

「曹操を滅ぼすために東阿の城を攻めよと」

「そうじゃ。よもや臆したわけではあるまいな、陳宮殿」

「曹操を滅ぼすどころか、張邈様が滅ぶことになりますぞ」

「なに。孟徳にこの危機を脱する策があるというのか」

「いえ。さすがの曹操も万策尽きたかと思います」

「では、なぜ我が軍が滅ぶのじゃ」

「曹操に策が無くとも、天意がそれを許しませぬ」

「天意じゃと……天が曹操を生かすというのか」

「天と地が許さないのです。ご覧ください」

 陳宮が懐から何かを取り出し、おもむろに軍議の机上に置いた。

 指二本ほどの大きさと長さがあった。炭のように黒い。

 「なんじゃ、それは」

張邈が目を細めて尋ねた。

 陳宮が答えるよりも早くその正体に気が付いた者が数名おり、どよめきが起こる。

 呂布にはそれが火で炙った虫のように見えた。

 

 「飛蝗ひこうにございます」


 陳宮がゆっくりとそう答えた。


 「ひ、飛蝗だと……お主、それをどこで手にしたのじゃ」


 張邈が驚いて立ち上がる。

 室内に悲鳴があがった。


 いにしえより民を大きく苦しめる災害は三つある。

 旱魃かんばつと洪水、そして蝗害だ。

それを防ぐのが代々の王の役目である。

 近年では熹平きへい六年(177年)に蝗害が発生し、時の皇帝は慌てて年号を光和こうわと改めた。実際に皇帝に蝗害を押さえる力など無く、時間の経過を以て鎮まるのを待つのみであった。鎮まった後に、これは祈祷の効果であると御触れを出す。

 なぜ蝗害が起こるのかは、後年、研究が進んでからの話になるのだが、陳宮はいち早く旱魃や水害との因果関係について仮説を打ち立てていた。

 蝗害は食料となる草が著しく不足した場合に発生する。

 ここ数年、黄河の氾濫によって、河川敷の草原が膨大な面積を消失していた。その地点がちょうど兗州にあたる。陳宮はつぶさに兗州の地を探索し、その事実に気が付いていた。

 飛蝗は食料が不足すると、体色を黒に変えるだけでなく、手足の長さすら変異する。そして群れを成す。「相変異」と呼ばれる特殊な現象だ。群れの数は実に億にのぼる。五百億匹という報告もあるほどで、群れの大きさは一州の面積を優に上回るというから恐ろしい。飛びながら餌場を移動し、なんでも喰う。草木だけでなく、肉食性が増し、家畜や人肉も食す。群れが過ぎ去った土地には何も残らないといわれていた。


 陳宮が机上に置いた飛蝗は、相変異で身体を黒色に変えていた。


 「これから飛蝗が来ます」


 それは誰もが恐れおののく死の告知であった。


 「い、いつじゃ。いつ来るのじゃ」

張邈は青い顔をして震えながら尋ねた。


 「明日」


 「あ、明日じゃと。な、なぜそんなことがわかるのじゃ」

「飛蝗は夜は休みます。日の出とともに動き出すのです。私は川沿いの村々に間者を放ち、飛蝗の兆しあればすぐに報告するよう命じておりました。この飛蝗、本日の昼間に捕らえたものです」

「な、なんと……」

張邈は言葉を続けられなかった。

 誰もが絶句している。

 こうなれば曹操と争っている場合ではない。

 蝗害は過ぎ去って後に二次災害をもたらすからだ。田畑からあらゆる植物が消える。そして今後、黄河以南の州や県は飢饉に苦しめられることになるだろう。飢饉は数年続くことになるかもしれない。

 事実に気が付かずに出陣していれば、蝗害に巻き込まれて張邈の軍は壊滅していたことであろう。

 百万を超える黄巾の賊徒に襲われたばかりだというのに、次は飛蝗の襲撃とは、兗州とはいかに凶事を招き寄せる呪われた地なのかと、集まった衆は嘆息して肩を落とした。


 もう誰も陳宮に反駁はんばくするものはいなかった。



 その数日後の豫州よしゅう潁川えいせん

 敵陣に捕縛された荀彧じゅんいくを救出すべく、潁川太守の夏候惇かこうとんは一万の兵を率いて城を出た。

 道案内は降って来たばかりの韓浩かんこうである。

 一万の兵のほとんどがこの韓浩の手兵であった。


 「太守様、梁剛りょうごうの陣です」

夏候惇の傍らで韓浩がそう告げた。

 「よし。敵兵に構うな。突破するのみ」

夏候惇はぎらつかせた両眼とは対称的に微笑みながら指示を下した。

 梁剛も寡兵の敵軍がよもや打って出てくることはないだろうと考えていたので、旗下の兵たちも備えていなかった。不意を突かれて陣は崩れ、夏候惇の一万の兵は容易に突破していった。

 しばらく進むと目前にまた別の陣が見えてきた。


 「一段目の備え、楽就がくしゅうです」

韓浩が告げる。夏候惇は頷いた。

 梁剛の陣が崩れたことは伝令役が楽就に伝えている。迎撃の備えも整っていた。

 それでも一万の兵は楽就の陣にまともにぶつかっていった。

 馬止めの柵を乗り越えると、楽就の兵が槍衾を作って待ち構えていた。

 「踏み越えよ」

夏候惇はそう叫ぶと、真っ先に槍衾に突っ込んでいく。大将の気迫は兵たちに伝わり、誰もが火の玉のように突撃していった。

 相手がまったく躊躇しないのを見て、楽就が狼狽えた。将が浮つくと、陣に綻びができる。

 夏候惇はその隙を見逃さず、我先にと飛び込んで敵陣を切り裂いた。


  「二段目は雷薄らいはくです」

そう告げた韓浩の息はあがっている。兵の進軍速度も落ちていた。すでに三千の兵が脱落している。未だに気力に満ち溢れているのは夏候惇とその旗本ぐらいなものであった。

 雷薄は弓隊である。

 夏候惇が近づくと、雨のように弓が降り注いできた。矢に当たって大勢の兵が倒れた。

 それでも夏候惇はひるまない。

 その姿を見て韓浩は感嘆した。猪突猛進もここまでくると鬼神の如くだ。

 次の射がきた。

 飛んでくる矢を槍で叩き落として夏候惇は進む。

 柵を槍で断ち割り、雷薄の陣に乗り込んだ。


 「誰かは知らぬが天晴な進撃。この曹性そうせいが相手じゃ」

雷薄の副将を務め、袁術えんじゅつ軍一の弓の使い手である曹性がそう叫んで夏候惇の前に躍り出た。名乗ると同時に矢を放つ。矢は夏候惇の顔面に突き刺さった。

 「よし、その首貰った」

曹性が喜び勇んで近寄ると、夏候惇は突き刺さった矢を自ら抜いた。矢じりの先には左の目玉が突き刺さっていた。

「父の精と母の血を棄てられるものか」

と云ってそれを飲み込むと、唖然として見つめていた曹性に向かって槍を突き出した。曹性は喉を突かれて地に倒れた。


 「太守様、ここは退きどきですぞ」

韓浩が慌てて駆け寄ったが、夏候惇は意にも介さず

「次は三段目だ」

と答えて前進する。

 雷薄の陣は乱れ、夏候惇の兵はさらに先に進むのだが、すでに従う兵の数は二千あまり。それも皆、満身創痍の状態であった。

 三段目は江東の虎と呼ばれた名将、孫堅そんけんの重臣、程普ていふである。

 見るからに腰の据わった重々しい陣を敷いている。

 夏候惇の背後では、陣を立て直した梁剛や楽就、雷薄が迫って来ていた。

 「太守様、この数では抜けませぬ」

韓浩がそう云って止めた。

 夏候惇は左目から流血し、甲冑を赤く濡らしながらも歩みを止めない。


 すると、敵陣から男がひとり進み出て来た。

 鉄脊蛇矛を右手に、するりと馬から下りた。

 「夏候惇殿とお見受けいたす」

 「おお、程普殿か」

二人は旧知の仲であった。ともに敵に立ち向かったこともある。

 「お相手致す」

程普がそう云って駆けた。

 夏候惇は「おう」と応えて構える。

 程普の蛇矛が一閃した。

 左目の見えない夏候惇からは死角であった。

 首元を打たれて夏候惇が倒れた。

 首はある。

 程普は柄で打っていた。夏候惇は意識を失い捕縛された。

 「韓浩よ、夏候惇も破れた。降参せよ」

程普がそう云うと、韓浩は

「我は夏候惇様の義心に殉じる。人質となった夏候惇様の屍を踏み越えても進むのみ」

と答えた。


 突如暗闇が天空を覆い尽くしたのはこの時である。


 三百億に及ぶ飛蝗が潁川の地に押し寄せた。


 刃をあわせる修羅の地が、狂気の地獄と化したのである。


袁術と荀彧、再び語り合います。

次回、乞うご期待。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ