第10回 驚天動地
新帝・献帝からの密使の使命は?どこへ向かうのか。
第10回 驚天動地
袁術軍からの輜重隊を警護する格好で、騎兵二千を率いる紀霊と北から援軍に駆けつけてきた公孫瓚軍の趙雲以下二千の精鋭騎兵が、陽城に向かっている頃……。
魯陽では洛陽の都にいる新帝の使者を迎えていた。
使者は侍中という皇帝側近の役目を持つ劉和である。
父親は幽州の牧として異民族との諍いが絶えない漢帝国の北の要衝を守っている劉虞。
新帝である献帝は董卓の独断によって立てられた傀儡であり、その使者ということは董卓の使者と同義ということになる。
袁術は機密性を高めるべく側近を退け、一対一の面談形式をとった。
「まずは御使者の口上を拝聴しようか」
口調を柔らかくしようと意識をするものの、俺は内心は大いに焦っていた。
内容は充分に推測できていたからだ。
今は反董卓連合に対し、離間の計を張り巡らせる絶好の機会である。なぜなら董卓はここまで優位に戦を進めてきているからだ。
左将軍あたりの位を餌に釣ってくるのだろう。
劉和はじっと閉じていた目を開いた。
幾晩も眠っていないことが、その瞳の充血ぶりから窺えた。
表情はやつれているが、まだ若い。興奮を隠しきれず顔面が紅潮し始めていた。そしてはっきりとした口調で、
「反董卓連合が帝をお救いすることは叶いません」
挑戦的というよりも絶望的な響きがあった。
「ほお。我らが董卓軍に劣るとお考えか」
「……勝ち負けではございません。戦だけであれば、反董卓連合は汜水関を落とすでしょう」
「汜水関が落ちれば洛陽の都は目前。都は防衛するには適さぬ場所。董卓は洛陽を捨て、西へと逃げていくことは間違いないはずだが」
「洛陽は落ちますでしょう。しかし……」
「しかし?しかしなんなのです?」
「洛陽を攻略しても帝をお救いすることはできません」
そこまで話すと劉和の両目から涙が溢れた。
父子共に皇族の血筋であり、漢を思う気持ちは人一倍強い。
「劉和殿のおっしゃりたいことが理解できないのだが」
「こちらに司空である楊彪様からの書面がございます。ぜひご覧ください」
「何、文先からの?」
楊彪。字は文先。
先祖代々三公を歴任する家柄であり、文先はその楊家の総領である。
俺よりも十は歳上だが、俺の妹を娶っているので義弟という間柄になる。政略結婚の末、楊家と袁家は親戚という強い関係を築いていた。
董卓は洛陽に住む袁家の血筋を処刑して根絶やしにしたが、楊家に対しては歴代の功から袁家との関係を不問に処され、逆に敬われるように司空として政に携わる権限を得ていた。
俺は劉和の差し出した書面を食い入るように読んだ。
そんなにも長い文章ではなかったが、一語一句はっきりと脳裏に焼き付け、誤った受け取り方をせぬように何べんも繰り返し読んだ。
予想を超えた実に恐ろしい内容だった。
「こちらは……こちらは本当に新帝のお考えあそばされたことなのか」
「そうでございます」
「しかし、新帝はまだ幼少。誰かが焚き付けでもしない限りこのような前代未聞の決断など下すことはできないはず」
「司徒である王允様と話し合いを何度も持たれての末の決断でございます。幼いながらも皇帝としての自覚に優れ、このまま董卓の云うがままの政など漢のためにはならぬとお考えになったのでしょう。董卓が帝位の禅譲を強要してくるのも時間の問題です。並々ならぬ覚悟の上の決断とお察しくださいませ」
俺は喉の渇きを覚えて近くにあった杯を取ってぐびりと喉に水を流し込んだ。
水の味すらいつもと違って感じられる。
司空である楊彪文先が記した書面の内容は、ざっと以下の通りである。
① 董卓が新帝を連れて長安の地に遷都したこと。
② 新帝は漢皇帝を劉虞に譲る考えであること。
③ そのために皇帝の証である「玉璽」を劉和に託したこと。
どれもが信じられない。
俺の戸惑いを察した劉和は懐から包みを取り出し、うやうやしくその中身を取りだした。
眩いばかりの光を放つ手の平ほどの大きさの印。
玉璽だった。
実物を見るのは初めてである。
単なる印ではない。
簡単に云うと、それを手にした者が皇帝なのだ。皇帝を名乗ることが許される。
そしてこの印を押された書面の命令に背くことは何人たりとも許されない。
これを洛陽の新帝が所持していないということは、皇位を捨てたのに等しい。
いや、洛陽ではない、遥か西方の長安にいる新帝だ。
董卓がこのことに気づけば烈火の如く怒り狂い、帝の側近を皆殺しにするだろう。帝の命も危ぶまれる。
これ以上ない危険な決断だといえる。
絵図を描いている王允の意図もわからない。
王允は綺麗事や理想論だけで動く男ではないのだ。
自分の思惑通りに話を進めるため用意周到な準備をする。
王允は奇行とも暴勇とも取れるこの決断と行動の先に何を求めているのか……。
それを見つけない限り迂闊に動くことは許されない。
下手をするとこちらが踏み台にされる危険もあった。
文先は元来頭が固く、融通の利かない性分で、陰謀めいたことや私欲に走る行為を嫌悪していた。文先が何か俺に伝えたい真意があるとすればこの書面に隠されているはずだ。
どのような理由があれ文先が、帝の禅譲など認めるはずもない。
「文先は遷都に対して同意したのか?」
するはずもないことは火を見るよりも明らかであったが、確認は必要だった。
「いえ。強く反対し、董卓に罷免される寸前でございました。今頃ははたしてどうか……」
董卓が洛陽を中心に全土を支配するという野望を諦めた以上、名家に対する遠慮も自ずと薄れていくことだろう。反対する者は処刑していくような実力行使も考えられる。罷免で済めばもうけものだ。
「袁術殿、どうか袁紹殿にお取次ぎいただきたい。父がこの大任を受けるかどうかはさて置き、まずはお伝えするのが先決でございます。父は袁紹殿ととても懇意にお付き合いさせていただいております。袁紹殿からも強くこのお話を勧めていただければ、帝の意向に沿った展開になるやもしれません」
今度は俺が瞼を閉じ、深い瞑想に入る番であった。




