第1章 反董卓連合 第1回 南陽の旗揚げ(初平元年・西暦190年)
親の七光りの印象の強い袁術。
能力は高くはありませんが、人とのつながりのお陰で勢力を広げていきます。
平凡な力の袁術をぜひ応援してやってください。
袁術異聞伝
第1章 反董卓連合
第1回 南陽の旗揚げ(初平元年・西暦190年)
初平元年(西暦190年)はここまで実に目まぐるしい日々の連続だった。雑然とした日々を思い返すと頭の隅っこがズキズキと痛む。
中平六年(西暦189年)から運気が大きく変わってきている実感はあったが、ここ最近は驚くほど剣難に満ちている。
男は静かな済水の流れをぼんやりと眺めていた。
男の名は袁術、字は公路。
河の流れは留まる事を知らず、山頂の上流より発して下流へと逆らうことなく流れている。
人間の生も時代の変遷もまた似たようなものなのだということに、袁術は気づき始めていた。
ハッと我に返ってみても未だに荊州北部の南陽の畔にいる自分に今一つ現実味を感じられない。洛陽の都で宮勤めをしていたのがつい昨日の事のように思えて、俺は慌てて首を振った。
都に住んでいたのは半年も前の話。
世間は干ばつや賊の反乱で混迷していた。
そんな中でも「袁家」の権威と名声のお陰で、俺は何不自由の無い生活を送っていた。
長い年月の中で培ってきた袁家の人脈は、若輩だろうが出世の階段をスイスイと登らせてくれるのだ。
俺は虎賁中郎将の職にあり、将来は三公(司徒・司空・太尉)に就くことを約束されていた。
それが、皇室を揺り動かすような巨大な派閥争いに巻き込まれてから状況が一変したのだ。
そして初めて人を斬った。
三十四歳のこの日まで剣を脅しに使ったことはあったが、実際に人を殺めることに使ったことなど皆無だった。
それが一日で三人の宦官を斬った。
しかも宮中でだ。
男根を斬り取られている宦官たちが、狂ったような顔つきで不気味な雄叫びをあげながら襲い掛かってきたから止む無く斬ったのだ。
皆、青白い顔をしていた。
蛙を手の内で握りつぶすような感触だけが残っている。
ひとつ年上である兄の本初は、三十人の宦官を斬ったと自慢げに語っていた。丸い目を見開いて興奮気味に話す本初の顔はそれこそ蛙のように見えたことを覚えている。
人を斬る術に長けることが自慢とは一兵卒の思慮だ。
無論それで兄への尊敬の念が深まったわけもなく、むしろその卑しい性質をまざまざと見せつけられたような気がして吐き気がした。
虎賁中郎将として預かってきた兵士たちもまた血祭の饗宴に嬉々として参加しており、十常侍を含む宦官たちを斬りに斬ってその返り血で全身を真っ赤に染めていた。
そしてひとしきり虐殺が終わった後、兵士たちは呼吸を乱しながら俺からの褒美の言葉を待っていたのだ。
あいつらのあの目……人を殺めて意気揚々としているあの目は忘れられない。
異常者の群れ。
あれも人の性なのだろう。
人を殺した罪悪感など、これから訪れる絢爛豪華な日々への夢想の前に簡単に消し飛んでいた。
そうなのだ。
宦官の掃討に成功した俺たちは政治の全権を握るはずだった。
しかし土壇場で幸運の女神はそっぽを向いた。
董卓という西方の田舎者が混乱の中にあって奇跡的に帝を掌握し一連の騒ぎは鎮まった。
帝を連れて凱旋する董卓を横目に本初は歯ぎしりをしながら悔しがっていた。
数千という宦官を殺し尽したのはなんということもない、田舎者に舞台に上がるきっかけを作ったに過ぎなかったわけだ。
馬鹿らしい話である。
本初は第二の何進になることを望んでいた。
何進は霊帝の外戚として大将軍の位にあり軍権を一手に握っていたが、霊帝の崩御に際して宦官どもに誅殺された男だ。
本初は袁家が政の頂点に君臨し、帝を意のままに操ることを夢見ていた。
俺も袁家の行く末を思えばこそ、そんな野望に満ちた話に乗ってしまった。
人を殺めて新しい国作りなどできるはずもないもないのに……。
自分は血縁というあらがい難い流れに飲み込まれてしまっていたのだ。
そんな欲望にまみれた兄はもうここにはいない。
そして、兄と共にあろうとした自分ももうどこにもいない。
流れは分岐したのだ。
あの日、俺は洛陽を身ひとつで飛び出した。
互いの再起を期して俺は南へ向かい、兄の本初は北へ向かった。
洛陽を出奔する際に部下は全員置いてきている。特別付いて来たいと言う者もいなかった。連中にしてみても沈む船にいつまでも乗り続ける気はなかっただろう。
俺も本初も新しく後将軍に任じられた董卓によって追手をかけられたのだ。
兵たちに勝手な指示をし宮中を騒がせ、さらに帝にも危機が迫るような「乱」を起こした首謀者として。
部下はいなくなったが、若い頃から交わってきた侠の仲間が、ひとりまたひとりと俺のもとに駆けつけてくれた。
俺自身の官位は剥奪され、与えられる銭も無い状態だったが、それでもあいつらは俺の危機を救おうと全てを捨てて集まってくれたのだ。
集まったのは腕自慢の猛者たちがわずかに三十人ほどだったが、数万の兵を率いる以上に頼もしい気持ちになった。
人前で泣いたのは生まれて初めてだった。
悔し涙でも怒りの涙でもない、友情に感謝する嬉し涙だ。
追手は執拗で二ヶ月に渡る逃避行の間に仲間が二十六人死んだ。
仲間の中で一番の武勇を誇る紀霊と馬の扱いの巧みな張勲が殿を務め上げてくれなければ、この南陽の地に辿り着くことはできなかっただろう。
この二十六人は俺の身代わりで死んだのだ。
墓を建ててやることも、葬ることもできなかった。
仲間の遺体を見捨てていくことしかできないというやるせなさを痛切に感じながらも俺はひたすら逃げた。
張勲はこの時の戦いで右腕を失った。
先頭を勇敢に進んだ橋蕤は顔面を斬られ、左目を潰された。
立ち寄る村や街にも董卓に与し、俺たちをつけ狙う者たちで溢れていた。
この地、南陽の太守である張資も同類である。
ようやく生き残った五人で何ができよう。抗うことなどできやしない。俺たちはこの地で命を落とすはずだったのだ。
紙一重で救われることになったのは、孫堅という長沙出身の男が兵を率いて城を落とし張資を殺したからである。
会ったことも無い男に命を助けられた。
そしてその会ったことも無い男に無理やり主と仰がれた。
この孫堅が、長沙の地で起こった区星という賊の反乱を見事に鎮圧した男であることは知っていた。当時その報告を聞いて功績を認め烏程候に封じるようお上に嘆願したのも自分である。孫堅は俺と同じ歳で親しみを覚えたことも後押しした理由のひとつだった。
孫堅はその事を恩義としてずっと忘れずにいたようである。
奪った南陽の地を孫堅はあっさりと俺に譲った。
そこで知った。
兄の本初が北の渤海の地で「反董卓連合」なるものを組織し、董卓率いる中央に対抗しようとしていることを。
孫堅も連合軍に加わろうと荊州南部の長沙から北上し進軍している最中だった。そして北進の途中で幾つものの董卓に与する城を落としていた。
本初は勝手に俺の名を連合軍に連ねており、孫堅はその寄騎として参陣することを望んでいた。
俺はそのお陰で命を救われたのかもしれないが、代わりに本初の決断によって洛陽にいる袁家筆頭の兄をはじめ肉親すべてが処刑されていた。
董卓への憎しみと合わせて軽はずみな行動に出た本初を憎んだ。
俺は軍などの力で打開しようなどとは考えていなかったのだ。
袁家の人脈や名声を活用して政治の世界から董卓を遠ざける予定だった。
殺し合いで解決するなど愚策もいいところだ。
だから俺には私軍を組織する気など無かった。どこぞの馬の骨とも知れぬ輩を部下として迎えることなどあり得ない話だからだ。
しかし流れには逆らえない。
俺の名のもとに南陽にはすでに大勢の兵が集結していた。
孫堅は自らが要する二万の大軍を俺の先手として使ってほしいと云ってきたし、南陽の張資配下のうち生き残った雷薄という男が孫堅に降伏して敗残兵をよくまとめたので、南陽の軍はいつの間にか四万を超える数にのぼっていたのだ。
楽就というこの地で勇名を馳せていた男が、勝手に俺を祭り上げて募兵していたことも後でわかった。
俺の意図しないところで大きな力が生まれようとしていた。
やむを得ず洛陽から共に逃げて来た仲間たちを将として兵を率いさせることを決意した。
もちろんそれぞれが初めての経験である。
旗本指揮に陳紀を任じ、紀霊、張勲、橋蕤にそれぞれ千の兵を付けた。南陽で旗下となった雷薄、楽就にも千の兵。
また、千以上の義勇軍を率いて加わってきた李豊、梁剛、陳蘭、楊弘をそのまま将として迎えた。
孫堅には二万の兵で先鋒を任せた。
彼に報いるものが無かったが、代わりに洛陽を奪還した暁には豫州刺史に任じることを約束し、破虜将軍代行の名を与えた。
口約束に過ぎないものだったが、孫堅は大いに喜んだ。
南陽はこうして兵で溢れ、打倒董卓の声に満ちていった。
兵の士気は日ごとに増している。
静かな河の流れ。いずれ長江に注ぎ、大いなる流れとなって大海に至るのだろう。
この男、袁術公路もまた時代の流れに飲み込まれ、戦いの表舞台に立たされることとなった。
董卓軍十五万との死闘が近づきつつあった。