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第5話 「大人」の意味

結構酷な表現があります。念のためご注意を。

1


 夜が明けて――


「ん……」

 覚醒する。

(あれ……? 昨日はどんな状態で寝たんだっけ?)

 久と互いの「過去」を語り、『君だから』を一緒に読み、それを乱雑に破り捨てて。

(あー……久の胸の中で泣きながらそのまま寝ちゃってたんだ……)

 ハッキリと状況を思い出した。

 だが、今の春香は自分の分の布団の中にいた。寝付いた後に久が態々(わざわざ)こちらの布団に寝かせてくれたのだろうか。そんな光景を想像しながら、春香は頬を赤く染めていた。

(……そういえば久はもう起きてるのかな?)

 自分の恥ずかしい表情を見られなかったことに複雑な気分を抱きつつ、体をゆっくり起こす。隣の布団に目を向けると、久は既にいなかった。

(リビング、行ってみよう)


「おう。おはよう、寝坊助(ねぼすけ)さん」

「おはようございます、春香さん」

 リビングに入るなり春香にかけられる兄妹からの挨拶。

「二人とも、おはよう」

 春香もそれに笑顔で返す。奥の調理場で作業している茜は「あの……」と切り出し、

「兄の部屋が昨日1日でかなり散らかってたようなので兄と2人で片付けておきました」

「え……そうなの?」

 言われてみれば確かに、朝目覚めた時点で部屋に残ってるはずの紙片は何処にも無かった。茜の言葉に当惑した春香は、テーブルで席につきトーストを食している久に確認を取った。

「ああ。何ページあったんだっけな、あの『小説(ゴミ)』」

「あ、う、えーっと……有難う」

 アルコールが入っていた訳でもないのに、昨晩の自分はかなりの狼藉(ろうぜき)をしでかしてしまっていたようだ。春香はその点についてこっそり内省した。

「それにしても……いい匂いね」

 鼻孔を(くすぐ)るものが気になって春香はそう呟いた。

「卵焼きを焼いてます。ベーコンと一緒にそっちに持っていきますね」

 茜の回答。耳をすますと、油で卵を焼いている音がテレビの音声に混じって聞こえてくる。

 春香は自分の分の朝食が用意されている席に座った。皿に乗ったトーストの隣には薫り立つホットティー。カップの傍にはスティックシュガーとフレッシュ。春香の味の好みを知らない茜ならではの配慮だった。

 2つの付属物を紅茶に入れてティースプーンで掻き混ぜる。人の心が悪意に染まっていくかのように、紅茶とミルクが混ざっていく。

 傍のテレビから聞こえてくるのは、つい先日起きたいじめ自殺事件の報道。

「昨日の春香の話、一つだけどうも解せねぇ点があるんだよな」

 久がふと言った言葉に、春香はスプーンを離し顔を上げた。

「っていうと?」

「なんでその歳になってからだったんだ?」

「……どういうこと?」

「おっと、言葉が足りてなかったな。何故今になって自殺しようなんて思った? 小学校卒業した頃にそうしなかったのはどういうことなんだ?」

 久としては当然の疑問だった。今日当たり前のように起こっている、いじめを苦にしての自殺。春香がその例に漏れていなくても何ら不思議ではなかった。

「確かに私は勉強はよく出来た。私立の中学校に入れるぐらいにはね。でも……根本的に私は馬鹿なの。学力と素直さを取ったら何も残らない」

「『自殺』っていう手段を思いつかなかった程にか?」

 半ば冗談で言ったつもりの久の言葉に春香は頷き、

「それと、お母さんが『なるべく忘れるようにして生き続けなさい』って言うから、それに従ってたっていうのもあるかな。あの時の私にはもう親ぐらいしか信じられる人間がいなかったから」

「全く、ホントに酷ぇ話だ。誰かの人間性を破壊しなきゃ生きてられねぇのかてめーらは……ってな」

「でもね、普段からこうも言ってた。『誰かを殺した人間は死を以て償うべき』って。それで、2週間前。『奴ら』の一員とはいえ、私は人1人を事実上殺しちゃった。だから殺した罪を償わなくちゃ、って……」

「瀬戸、っていったっけか……そういやアレは飲酒運転が引き起こした事故じゃなかったのか?」

 久は2週間前にひっそりと流れていたニュースを思い出してそう訊いた。

「……その事故の被害者でもう1人、女子高生がいたって言われてなかった? それが、私」

「それであの病院に……OK、大体把握したぜ」

 納得した、という表情を浮かべる久。

「そういえば……あそこに久がいたのはなんで?」

 次は春香が質問する番だった。

「俺らを引き取ってくれた叔父さんが癌で倒れたって聞いてな。それで見舞いに行ってた。なぁ、茜?」

 久が丁度ベーコン入り卵焼きの皿を持ってきた妹に視線を送る。

「うん。そんなに進行してないっぽくて安心したけど。……そんな所です」

 美味しそうな香りが一つ増えたはずなのだが、シリアスな話が災いしてか、今の春香にはあまり気にならなくなっていた。

「まぁ、あの夜屋上に来たのは全くの偶然だったんだけどな。5歳の時に発症したこの変な能力が役に立ったみたいで俺は正直嬉しい」

 口元を緩めて久はそう言った。黒コンタクトで周りに隠せてはいても本人の中ではずっと何かしら引っかかっていたんだろうなぁ――と春香は勝手に想像した。

「話を戻すが」

 言って、久はストレートなままの紅茶を一気に飲み干す。春香はそれを見て自分がまだ紅茶に一口もつけていないことを思い出した。とうに冷めているだろうとは思ったが、今は久の言葉の方が栄養になるような気がしていた。

「誰かを殺す度に自殺してたら日本人は……いや、人類そのものはとっくに絶滅してる。やっぱり、自分の命が一番可愛いってのが人間の本質だと俺は思うぜ?」

「……」

「だから、それ以上自分を責めるのはもうやめろ。自分が殺したい程憎んでる奴が死んだんだ、司法で裁かれる裁かれないはひとまず置いといて、もっと堂々としてていいはずだ」

 こんなに真剣な表情を見たのは2週間前以来だろうか、と春香は感じた。

「自殺なんてのは一番愚かな行為だと俺は思ってる。何しろ、この世界では死んだ奴より生きてる奴の方が圧倒的に正しいからな」


『霧人君が亡くなったこの事件、貴方はどうお考えですか?』

『非常に痛ましい事件だとは思いますが、聞いた話によると、一部週刊誌でいじめに加担していた生徒達の実名を報道しています。年齢が年齢だけにまだまだ人格改善の余地があるというのに、何と心無いことを――』


 テレビから流れてくるキャスターとゲストの教授らしき識者との対話を聞き、春香は溜息を吐きながら一言、「(もっと)もな話ね」と久に同意した。


 春香は死後の世界や輪廻転生といったものを心から信じていなかった。そもそも彼女は『3月24日』以来、完全な無神論者になっていた。

(もし神様なんていうのがいたら……あの時私は救われていたはずだから)

 心を殺されたのを放置されたからなのか、死んで白紙に戻された心が神を存在しないものだと言い張っているのか。

 ともあれ、そんなことを考えながら、春香は(ぬる)くなったミルクティーに初めて口を付けた。


『――彼らにだって人権はあるんですよ。それを平気で侵すのはどうかと私は考えております』

『……有難うございました。以上、本日のニュースでした』



2


 朝食を済ませた後、各自制服に着替え登校の準備をした。茜が昨晩アイロン掛けをしてくれていたらしく、春香の制服は糊の利いた新品同然の着心地だった。

 それ程に献身的な茜の制服姿を見て春香が驚いたように言う。

「茜ちゃん……その制服、もしかして……」

「はい。私、工場島高校に通ってるんです」

(よりによって森川や綾小路と同じ学校に……)

 最悪だ。春香は一瞬そう思ったが。

(……これは考えようによってはチャンスかもしれない)

 綾小路はそれ程でないにしろ、森川はまさしく「殺したい程憎んでる奴」の一員だ。茜を通じて彼の情報が入ってくることも予想出来る。何なら今すぐにでも……

(いやいやいや、幾ら何でもそれは早すぎるって。いきなり「2年の森川のこと何か知ってる?」って訊く方が不自然――)

「あの……私の顔に何か付いてますか?」

 凝視(ぎょうし)されていたことを不審に思ったであろう茜の声に、春香は現実に引き戻された。

「あっ、ううん、何でもない」

 取り敢えず笑って誤魔化してみる。流石に出会ってまだ2日目の茜は春香が隠し事をしていることに気付かなかったようだった。


「それではこの辺で。私達は駅の方に向かいますので」

 3人揃って家を出発し、大きな交差点に出た所で茜が別れを切り出した。

「工場島って矢神(やがみ)天宮(てんぐう)の方だもんね」

「ああ。俺らここから全く反対方向の電車に乗るんだぜ、兄妹なのに」

 皮肉っぽく笑いながら言う久。兄妹だからといって必ず同じ方面の電車に乗らなければならないのかどうか、一人っ子の春香は想像に少し労力を要した。

「まぁ、また何かあったらうちに来いよ。今朝みたいに紅茶出すぐらいはしてやるからさ」

(……出してたのは茜ちゃんの方じゃないの?)



3


 春香は小野兄妹と別れたその足で矢島第一高校に登校した。


「おは――」

「おはよう春ちゃん、昨晩はお楽しみでしたね!」

 教室に入ってきた春香を、奈枝美や葉月と談笑していた京子が出迎えそのまま抱きつく。高校生にあるまじき豊満な乳房が春香の顔面に押し付けられる。

 春香は京子の腕の中で「何故に敬語?」と一言ツッコミを入れた上で、

「えっと……京ちゃん、ごめん」

 まずは京子には詫びなければならなかった。何故なら――

「うわーん、春ちゃんにフラれたー!」

「そうじゃないだろ、ちゃんと春香の言ってることを聞いてやれ」

 葉月も春香が何を言いたいのか理解したらしく、そっと京子を宥めた。

「昨日貸してくれた『君だから』だけど……あれ、ビリビリに破いて捨てちゃった」

 そう、昨晩読んでいたあの携帯小説は元々は京子が金を払って買ったものだ。だからしっかり謝っておくのが筋だと春香は思っていた。春香の謝罪に対し、

「そっかー。それぐらいぜーんぜん構わないんだけどね」

「京ちゃん……」

「アタシだってさ、次に貸す相手がいなかったら同じことしてたもん。勉強代だと思えば痛くも痒くも無いってね」

 しれっとした顔と声で京子はそう言った。

「あたしは……教室で授業中で他の生徒の目もあったし」とは奈枝美の弁。葉月も「右に同じく」と同意見のようだ。

(みんな……しっかりしてるなぁ。もし授業中に読んでたのが私だったら……授業関係無く破いてたと思うよ)

 春香は3人の回答を受けてひっそりと自分の未熟さを痛感していた。

「で……」

 京子の目が何やら微妙に怖い。綾小路などに比べれば全然可愛い怖さだが。

「久君、だっけ? 彼とは何処まで行ったのかなー?」

「だからそんなんじゃないってば」

 春香は必死に否定するが、

「大人の階段、どうだった?」

「こんな(なり)だが私も一応女だしな、その辺り気にならないといえば嘘になる」

「ちょっとぉ……奈枝ちゃんと月ちゃんまで……」

 他の2人も同様の目をしていた。例えるならば、それは子羊を前にした狼達のようだった。


 ――「過去」を乗り越えられてさえいないのに……「大人の階段」なんてまだまだ先。



4


 この日の授業が終わり、自宅に戻ってきた春香。1日帰らなかっただけだというのに、昨日の長すぎる夜のこともあってか酷く懐かしい感じがした。

「ただいま」

「あら、おかえり」

 春香の母・裕美が今日は珍しく家にいた。裕美の仕事が偶然休みだったらしく、玄関周りの掃除をしていた所だった。春香にとっては都合が良かった。丁度、訊きたいことがあったからだ。

「ねぇ、お母さん……」

 自分の部屋に戻る間際、春香が言う。

「4年前……小学校の卒業前日の夜に校長と駿河(するが)を解放したのはなんで?」

 駿河。昨晩の久との会話に出てきた、春香の小学校6年の時の担任のことだ。

「またいきなりねぇ。京ちゃんと何かあった?」

 裕美にとってもあまり思い出したくないことのようで、一瞬暗い顔になる。しかし、それも本当に一瞬のことで、あまり深く考えた風も無く、彼女はこう言った。

「……あのままずっと拘束してたら、いつまで経っても春香は卒業出来ないでしょ。それだと色々と困るじゃない? 『負けるが勝ち』って言葉もあるし、ね」

(相変わらずそんなものなのね……)

「とにかく、もうそんな時のことはさっさと忘れて前向きに笑って生きていけばいいと思うよ」


 ――そんなものなのね、貴女の認識は。


 全ての穢れを洗い流してくれる聖母のような母の笑顔が、今の春香にはとても苦しかった。途轍も無く息苦しい。もし父である和哉にも同じことを言われたら、きっと暫く立ち直れない。

 春香は一言「そう」とだけ言い残して自室に戻り、ドアを閉めた。


 鞄を机に置いてベッドに仰向けで寝転がり、思う。

(「大人」って……何なのかな? 「大人の階段」を上った先がアレだっていうんなら――)


 ――私は一生「大人」になんてならなくていい。なりたくない。


「親子っていっても所詮は他人事……よね」

 いじめられていたのは春香。裕美は彼女の母親であるに過ぎない。自分がいじめられた記憶を忘れるなど、出来るはずも無かった。


『ホント、到底誰かに勧められる代物じゃないよ、これ……。特に春ちゃん、奈枝ちゃん……アンタ達にはきつい内容かもね』

『ふんっ、あんな胸糞悪い作品に期待した私が馬鹿だった』

『お、お前……す、鈴蘭……なのか?』


『今お前が死んだとしても、お前の死を望む者が喜ぶだけだ。暫くはお前のことを語る奴もいるとは思うが、いずれみんなの記憶から消え去ってしまう。そんな自分の末路に……お前自身は満足出来るのかっ!?』


 色々な人の言葉が脳内で縦横無尽に駆け巡る。勉強になど全く身が入らない。自分が自分であるために、人が人であるために。それこそ脳味噌がパンクする程に考え詰めた。


 すぐに結論が出るとは思っていない。それでも、考え続けなければいけない――春香はそう思った。



5


 それから1週間程が過ぎた或る日の放課後。春香は京子達と別れ、一人帰路についていた。

 もう森川を殴った感触などすっかり忘れかけていたそんな時、その女は突然現れた。


「待ってたわ」

 他に人がいないのでその声が自分に掛けられたものだと春香は気付く。

「鈴蘭……久しぶりね」

 京子のそれとは違い意図的に金色に染めたであろうパーマのかかった髪。耳には銀色に輝くピアス。着用しているのは……工場島高校の女子制服。

「貴女は……?」

 春香の記憶にそのような人物はいない。或いは、最後に会って以来外見を弄ったのだとしたら――


「覚えてない? 東岡(ひがしおか)だよ」

「東岡……美弥子(みやこ)……!」


 その名前を聞いた途端、全てを思い出した。化粧と染髪の所為か外見はすっかり変わっているが、名前だけは変えようが無い。

 東岡美弥子。彼女は春香の「敵」――瀬戸や森川と共に、春香をいじめていた「奴ら」の代表格だった女だ。


「突然なんだけど、あんたにプレゼントがあるんだ。ほらっ」

 東岡が後ろに隠していた右腕を前方に突き出す。

「ひゃっ!?」

 と同時に、春香の顔面から胸部にかけて粘性の高い液体のようなものが付着する。液体からは酷い生臭さが漂い、しかも簡単には流れ落ちていかない。どうやら東岡の右腕に持っていた透明な瓶に今春香にぶち撒けた中身が入っていたようだ。

「臭っ……な、何これ……っ!?」

「やっぱりブスな魔女は男の臭いなんて知らないわよねぇ、パパと近親相姦でもしてない限り」

 ニヤニヤと笑いながら嬉しそうに語る東岡。その様が何処か4年前の光景と重なり、更に春香の精神を(えぐ)っていく。全身から力が抜け、膝がアスファルトの地面につく。

 とどめと言わんばかりに東岡は言った。


「これは健太の……森川健太の精液。しかも一度あたしの膣内(なか)に入ったものよ」


「…………ッ!!」


 一気に頭の中が真っ白になる。最早、臭いがどうとかそういう問題ではない。

「これは……健太があんたから受けた仕打ちへの復讐なのよ!」

 春香は辛うじて東岡の言葉を聞き取った。「復讐」。彼女は確かにそう言った。

(私への……「復讐」……? 何を言ってるの……?)

 「復讐」されるべきは、貴様らの方だというのに。


 胃の中身が勝手に逆流してくる。耐え切れずに春香は吐いた。


 両手をついて四つん這いになっていた「魔女」を勝ち誇った顔で上から見下ろす東岡。

「じゃあね、魔女」

 彼女はそう言ってその場を去っていった。


「う……おぇ……っ」

 その後も春香の嘔吐は止まらなかった。その日の昼食も朝食も纏めて吐き出した。手で口を塞いでも、その隙間から勝手に溢れてくる。

 胃液だけではない。涙も鼻水も、それらを排出する(あな)から大量に流れ出ていた。


(『人格改善の余地がある』? 一体何処に? ……識者って結局どれ程のことを()ってるの?)


 果てしない絶望が春香の影を射止めていた。



6


 それ以降、春香はずっと無気力な状態だった。


 学校にも行かず、自室に篭り続ける毎日。仕事を暫く休むことになった裕美とは部屋で食事を受け取る以外の接触が無く、和哉に至っては森川と同じ男性ということもあって入室した時点で激しい拒絶反応を引き起こす。

 恐らくそれが久であっても同じ反応をするだろう――あれから一度も会っていないが。

 「会っていない」といえば、京子達3人とも、一度電話越しに東岡とのことを話したきり全く顔を合わせてすらいない。

 そんな春香に「逃げるな」と言える人間がいるはずもなかった。

 布団を被り、ひたすら目を閉じる。どんなに陽が明るく照らしていても、排泄の時以外に自室の外に出ることは全く無かった。

 裕美が食事を持ってくる。それを口内に運ぶ。しかし折角彼女が作ったそれの味が全く分からない。苦いのか、()いのか、辛いのか。そもそも、食べるにしても殆ど喉を通らない。

 明らかな(うつ)症状だった。


 そんな日々が2ヶ月近く続いた。



7


 6月9日。


 春香は自身の携帯の着信メロディで目を覚ました。ディスプレイには「花町京子」の文字。布団を被ったまま、春香は電話に出ることにした。

「おはよう、春ちゃん」

「おは……よう……」

 京子が明るく挨拶をするも、それに返す春香の声には欠片程の生気も感じられない。

「今日は何の日か覚えてる?」

「…………」

「アンタの誕生日だよ、春ちゃん。おめでとう!」

「……うん」

 辛うじて返事をする。引き篭っている間に時間の感覚も失っていた春香は自分の誕生日のことさえ忘れていた。

「嬉しいよ……ありがと……それじゃ」

 あまり嬉しそうな気のしない声色を発しながら春香は電話を切ろうとする。

「ちょ、ちょっと待った!」

「……?」

「大したプレゼントじゃないんだけどさ」

「……そんなの……要らない……」

 『プレゼント』と称して森川の精液を掛けられた2ヶ月前の記憶が脳裏に蘇る。反射的に拒絶しようとして、しかし京子の声に遮られた。

「テレビ、つけてみて。今何処のチャンネルでもやってるはずだから。それ見たら多分分かるよ」

 テレビなどもう2ヶ月弱は見ていない。今どんな事件が起こっていて何がトレンドなのか、見当すら付かない。

「確かに伝えたから。じゃあね……次は学校で話したいな」

 その言葉を最後に通話が終了する。

(テレビ……今更そんなものを見て何になるんだろう……)

 それが親友の言葉でなければ無視を決め込んでいた所だった。しかし。

(……見て……みようかな)

 京子の言葉が、春香の重い足を動かした。


 掛け布団を足元にどかし、部屋の床に立つ。この2ヶ月で元々細かった体は更に痩せ、京子が褒めた美しい乳房も少し萎んだように見える。黒い髪は2ヶ月前よりそこそこ伸びていた。美容院にすら行っていないので不細工な伸び方ではあったが。筋力も相当落ちており、テレビのあるリビングに向かうだけでも一苦労だった。


「春香……どうしたの!?」

 裕美が驚くのも無理は無いだろう。2ヶ月ぶりに自室と便所以外の場所に自力で足を踏み入れたのだから。

 春香は裕美の質問には答えず、何かを映し出しているらしいテレビの方を向いた。生命力を失った春香の両の瞳がテレビ画面を捉える。


『続いて、速報です。参院で審議中だったいじめ被害者救済法ですが、賛成票が半数を越え可決されました。この法律は、過去5年以内に起きたいじめへの報復による犯罪の刑罰を軽減するものであり、今から2ヶ月後、8月9日から施行されます』


「……何、これ……」

「春香……?」

 これが京子からの『プレゼント』なのだろうか。だとしたら。

(京ちゃんに謝らなきゃ……)

 法律の概要を耳にした所で自室に急いで引き返そうとする春香。それに体が追いついてこないのが何とももどかしい。


 自分の携帯の下に辿り着いた春香は早速京子に電話を掛ける。

「も、もしもしっ!」

 つい京子に呼びかける声に力が入る。

「おっ、春ちゃんか。……どう? 私の『プレゼント』、気に入ってもらえた?」

「うん、さっきは冷たくあしらっちゃってごめん。それと、遅くなったけど有難う。……でも、これが『プレゼント』っていうのは……?」

 まるで京子が春香のためにこの法律を作ったかのように聞こえる発言。

「多分春ちゃんが考えてる通りだよ。親父と協力して国会に提出してみたら、国のお偉いさん方には思いの外ウケが良かったみたいでね。まぁ、春ちゃん以外にも同じ理由で苦しんでる子は多いと思うし、そっちへのアピールにもなるからね」

 京子がこの2ヶ月間でそんなことをしていたとは夢にも思っていなかった。

「京……ちゃん……」

「んー?」

「ホントに……有難う…………私、京ちゃんには助けられてばっかり……ぐすっ」

「いやいや、普段から元気貰ってたしそのお返……ってか……春ちゃん、泣いてる?」

「うん、嬉しくて……うぅ……」

 2ヶ月前とは全く意味の違う涙が春香の頬を濡らしていた。

「ともかく、気に入ってくれたんだったらこっちも嬉しいよん」

 この時、春香を欝という名の監獄に縛っていたものは完全に消え去った。

「京ちゃん……私、明日から学校行くよ」

「無理しなくていいんだよ?」

「ううん……今の私、凄くやる気が戻ってる」

 もう大丈夫――春香は完全に立ち直っていた。

「おっけー、じゃあ明日学校で!」

「うん、それじゃ!」

 京子と話す声にも十分な覇気が戻っていた。


 『いじめ被害者救済法』は決して復讐者を完全に無罪にするものではない。しかし、春香にとってはこの内容で十分だった。「大人の階段」などクソ食らえだ。


 ――その前に人として正しいことをするよ、私は。


 こうして、法律施行までの2ヶ月間、春香は復讐心の再燃と情報の収集に費すことになった。

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