第3話 暗雲の下で
1
「ダチを置いてきて良かったのか?」
制服のポケットに両手を突っ込んだまま疑問を口にする黒髪少年。
彼の方に振り返りながら、春香は言葉を返す。
「大丈夫です、京ちゃん達も分かってくれてると思いますから」
春香はどうしてもこの少年と一対一で話がしたくて、彼と共にやや入り組んだ路地の奥の公園に足早に入り込み、現在に至る。幸いなことに、公園に他の人影は皆無だった。外で遊ばない子供達が増えてきている影響だろうか。ブランコ等の遊具だけが彼女達二人を見つめていた。
ここに来る途中、手を引いていたのは意外にも春香の方だった。小学生時代の自分にそこまでの行動力があっただろうか――恐らくノー。この数年間でそれだけ成長したんだろう、と春香は一人納得していた。
赤山学院高校の制服を着ている黒髪少年。赤山学院は矢島第一と同じく中高一貫の私立校であり、距離だけで言えば春香の家からだと矢島第一より近いのだが、男子校であるため女性である春香には入学出来なかった。
「そういう貴方は……?」
「そっちと似たようなもんだ」
何、気にすることは無い――とでもいうような口調で少年は言った。
「……あ、まだお互い名乗ってもいなかったですよね。私は、春香……鈴蘭春香です」
「春香、か……いい名前だな。俺は小野久、宜しくな」
「はい。宜しくお願いします、小野さん」
「小野さんだなんて背中がむず痒くなるような呼び方なんかしなくていい。久、で構わねぇよ。あと敬語も要らねぇ」
「はい……うん。宜しく、久」
向い合って握手。久の手に力強さ、そして温かさを春香は感じた。
「ところで、ここ……何処? この辺り、あんまり来たこと無くて……」
京子達と距離を離すことに必死でどの道を走ったのかさえ分かっていなかった。
「この近くに俺らの行きつけのゲーセンがあるな。……来るか?」
「うん。……訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「何でも受け付けるぞ」
歩き始めた久についていきながら、春香はその質問を口にした。
「久のクラスに……いじめってある?」
「いんや。そういう春香のクラスにはあるのか?」
「……ううん、無いよ」
嘘は言っていない。「今は」いじめは無いのだから。他愛ない話をするような春香の表情から、以前いじめに遭っていたと予想出来る人間が果たしてどれだけいるのか。少なくとも、この黒髪少年はそう察するに至らなかった。この時は。
春香の真意を覆い隠すかのように、空には暗雲が立ち込めていた。
2
その後も世間話が続き、やがてゲームセンターの前に辿り着いた。
「こんな所にこういうのがあったのね……」
「ああ。じゃあ入るか」
「うん」
中に入り、適当に見て回ることにした二人。
ゲームの筐体が奏でる大音量が春香達の聴覚を刺激し始める。慣れない人にとってはまさに騒音の類だ。春香もゲームセンターというものを知らない訳ではなかったが、嫌でも耳を啄いてくる騒音が小さく聞こえるようにはならない。
また、視覚においてもここは自重というものを知らない。クレーンゲーム、クイズゲーム、対戦格闘、シューティング……様々な筐体が発するエフェクトがこれでもかと存在を自己主張している。
そんな中を二人は歩いていく。
騒音と光源に飲み込まれそうになりながら、春香が思い出したように口を開く。
「あ、訊きたいこともう一つ……いい?」
春香の問いに久は首肯した。
「『闇が見える』……って言ってたよね? あれってどういうこと?」
「あー、それはな……」
久が説明を始めようとした……が、そこに春香と擦れ違おうとする一つの影。その影と春香が固まったように動かない。
「……って、春香? 聞いてるか?」
他所を見ていた久がそれにワンテンポ遅れて気付く。
そして春香は。
そ の 影 を 勢 い よ く 押 し 倒 し た 。
3
「うおぁっ!?」
「貴様は……森川健太……そうよね?」
すぐ近くで起きた突然の出来事に久は呆気に取られていた。
「お、お前……す、鈴蘭……なのか?」
春香が森川と呼んだ影――長髪の少年が怯えた瞳で春香を見上げる。森川が着用している制服はここから少し遠い工場島高校のものだ。矢島第一中学を中退した元同級生・綾小路がその中等部に通っていたと以前京子から聞いていたが、今の春香にとってそんなことはどうでも良くなっていた。
「よくも……よくも私を殺してくれた……今度は、私が……!」
森川の真上に握り拳を作り、それをそのまま振り下ろす。骨と骨のぶつかる気持ちいい音がした。
「ぐわぁぁっ!」
「春香、一体どうしたんだ!?」
そんな久の言葉は耳に入らない。今この世界に存在しているのは自分と森川だけ。そのまま拳の弾幕を浴びせ続ける。
「春香! やめろっ!」
聞こえていないと分かった上で、それでも呼びかける。
「ぐあ……うっ……」
「私は死んだ! 貴様らに殺されたっ!!」
その間にも続く森川の苦しそうな呻きと春香の憎悪に染まった叫び。暴力を齎し続ける彼女の両の腕は所々が森川の血で染まっていた。
いつの間にか何事かと聞きつけた野次馬達が周囲を囲っていた。少年二人と少女一人というこの状況を見て、三角関係の縺れだと思った人もいたかもしれない。店員の姿もちらほら見えるが、春香達に声をかけようとはしない。
「私がどれだけつらい思いをしたか……貴様らに分かる!?」
「…………」
森川の返事は無い。あまりの苦痛に一時的に失神しているのだろう。
「分かるって……聞いてるのよ!!」
森川の鳩尾に強力なボディブロー。
「う……ごぉっ!?」
意識を回復すると同時に腹部の衝撃で胃液を撒き散らす森川。
「お腹を強く殴られると本当にこうなるのね……あの頃の貴様らの楽しそうな顔は嘘じゃなかったってこと……なのよね!?」
そう言いながら同じ箇所にもう一度拳を突き入れる。ポンプを押すと中身の出てくるハンドソープと同じように、再び森川の胃は耳障りな音を立てながら内容物を吐き出した。
「やめろって言ってるだろうが!」
「最低……貴様らは本当に最低っ!」
春香は久の言葉を無視し、最早意識の薄れている森川の喉を掴み強制的に体を起き上がらせる。その体には最早殆ど力が入っていなかった。
「そんな貴様らに生きてる価値なんて……無い!」
そして、更に大きく拳を振りかぶった。
「これで……とどめぇぇっ!!」
「いい加減にしろっ!」
春香の頬に走る痛覚。
それが彼女を正気に引き戻した。
「…………私……何を……?」
「とどめ」が刺されないまま、春香の両腕から急激に力が抜けていく。首を解放された森川がドサッという音を立てて倒れ込んだ。
「全く、何やってんだ春香!?」
その言葉で漸く春香は久の方に振り向いた。彼の右の掌が開かれているのを見て、自分に平手を浴びせたのだと気付いた。
「ま、また……私が……?」
思い出していたのは2週間前に遭遇した瀬戸のことだ。あの時も見つけた瞬間から意識が遠のいていって――
「どうした、しっかりしろ!」
「やだ……私……私っ!」
春香はすぐさま立ち上がり、野次馬の輪を突き破ってゲームセンターから飛び出した。
「春香!!」
その後を追って久も駆けだしていった。
ひたすら走った。
何のあてもなく。
ただひたすら走っていた。
走る春香の頭に冷たい雫が落ちていく。雨だ。ゲームセンターに入る前から怪しい天気ではあったが、遂に水蒸気が空に浮かんだままでいられなくなったらしい。それらが矢島町一帯に豪雨を齎していた。
――そういえば「あの日」も雨だった気がする。
いや、今はそんなことはどうでもいい。とにかくこの場から逃げ出したい。
ひたすら、走った。
心の中から色々なものが止め処なく溢れてきて、いつの間にか雨に混じって涙が春香の頬を流れていた。
4
「んで、それでねー」
「……待て、あれは……」
近場の喫茶店に入っていた京子達3人。その中で葉月が、春香の走っている姿を窓越しに偶然発見したのだ。すぐさま他の二人の視線も葉月のそれに交わる。
「春ちゃん……む?」
後で集合する場所など決めていなかった。だから京子には春香がわざわざ合流するためにこの道を走ってきた訳ではないとすぐに分かった。そして、何より――
(泣い……てる?)
春香の目から流れている涙を京子の視界が捉えていた。先程の春香の顔見知りであろう黒髪少年との間に何かがあったことなど容易に予想がつく。その予想は、黒髪少年が春香を追って走っているのを見て確信へと変わった。
「……会計、アンタ達が払っといて。アタシちょっと出てくる」
「京ちゃん?」
奈枝美と葉月に一言断った後、京子は早足で喫茶店を後にした。
降りしきる雨の中、春香を追っている黒髪少年の前に姿を現した京子。彼は彼女を素通りしようとはせず足を止めた。雨に濡れることなど、互いにお構いなしだ。
「……確か、春香と一緒にいた……」
「花町京子」
両手を腰に当て仁王立ち。少年に名乗った京子は原因を問い詰めるべく訊いた。
「ねぇ、春ちゃんに何したの?」
「……」
「……答えられないようなことしたんだ?」
まさか春香をレイプでもしたんじゃないか――京子は勝手にそう予想していた。やがて少年はゆっくりと答えた。
「俺自身は何もして……いや、したか。けど……」
「けど?」
明らかに京子の表情は不機嫌だ。それもそのはず、何であれ大事な親友を泣かせたのだから。
「あいつは……春香は一体どんな『闇』を抱えてるんだ?」
少年の口から意外な言葉が飛び出た。つい先程初めてその姿を見た時に「かっこいい」と評しはしたが、中身についてはそこまで期待していなかった。しかし、春香の「闇」に関心があると知って、京子の中でその評価が変わりつつあった。
金髪の末端から雨の雫を垂らしながら京子は言う。
「『闇』……うん、凄くでっかい『闇』を抱えてるね、あの子は。誰しもがそういうもの持ってるって言うけど、やっぱりつらいよね、ああいうのは」
「教えてくれ、何があったんだ?」
こういう真摯な人間になら春香を任せてもいいかもしれない。京子はそう思った。
疑心が大雨によって洗い流されていく。
「うん、あの子はね――」
5
一体どんなルートを走っていたのだろうか。春香が辿り着いたのは、先程久と二人きりになった公園だった。今ここに久はいない。
走り疲れ、膝から崩れ落ちる。
「……うぅ……」
その間にも雨は降り続き、残り僅かな春香の体力をじわじわと奪っていく。もう春だというのに、その寒さが彼女の身体を震わせる。
否、彼女を震わせているのは寒さだけではなかったのかもしれない。
雨が彼女の髪を、服を、濡らしていく。白いセーラー服にブラジャーのラインがくっきりと映り出される。異性から見ればどんなに魅力的な光景に映るだろうか。それでも、そんなことを考慮している余裕など今の春香には無かった。
「私は……どうしたら……」
泣きながら口から割って出たそんな呟きを最後に、困惑に精神を蝕まれながら昏倒した――
6
「………………?」
次に目が覚めた時、そこは知らない部屋だった。
「あ、お気付きになりましたか」
覚醒したばかりの春香にかけられる優しい声。その声の主は寝ている自分を見下ろしている少女らしかった。京子と同じぐらいに伸ばした髪の左側だけを括ってサイドテール風にしてある。
「兄が公園で貴女を見つけた時には結構危ない状態でしたけど……これで一安心ですね」
そんな少女に見覚えは――全く無い。
「あの……?」
分からないことが多すぎた。まず、何故自分が見覚えの無い部屋のソファで毛布をかけられた状態で寝ているのか。何故知らぬ間に制服から私服に着替えてあるのか。そして……
「あ、自己紹介が遅れました。私、小野茜っていいます。その節は兄がお世話になりました」
丁寧な口調で名乗るサイドテール少女。
「小野? じゃあ『兄』って、もしかして……?」
春香が体を起こしながらその推測を口にしようとしたその時、ガチャリと音を立てて部屋のドアが開いた。
「茜ー、帰っ……おぅ、起きてたか」
そこに現れた少年の言葉の前半は茜と名乗った少女に、後半は春香に向けられていた。
「お帰り、お兄ちゃん」
「……久……」
ドアの向こうにいたのは紛れも無く小野久その人だった。その腕にかかっているのはレジ袋。茜に買い物でも頼まれていたのだろうか。
「ってことは、ここは……」
「俺ん家だ。……まぁ、別に俺が自腹で買った家って訳じゃねぇけどな」
変な補足を入れながら久が解説する。
「ごめん……勝手に逃げ出したりして。私、ちょっと気が動転してて……」
「気にすんな、俺だってよく分かってねぇ。逃げ出したお前を公園で見つけて、何とか助けようと思ってたら、いつの間にか自宅に運び込んでた」
「今、妹さんから聞いた所よ。これで2回目だよね、助けてくれたの……迷惑かけっぱなしで、ホントにごめん……」
病院の屋上で自殺を引き止められたのに続いて、だ。
「気にすんなってば」
「うん……。それで、この服は?」
今の春香は黒い長Tシャツに紺色のジャージズボンを穿かされている。
「それは私の服です、濡れたままだと体に悪いので勝手ながら着替えさせて頂きました」
その問いには茜が返した。
「そうなの? ありが……」
礼を言おうとして、或る一つの可能性に気付き、春香はハッとして久の方を見上げて頬を赤く染めた。
「大丈夫です、着替えさせたのは兄が買い出しに出掛けた後ですよ」
「よ、良かった……」
代わりに答えた茜のその言葉に、はぁ、と安堵の溜息を一つ吐いた。
「でも、ブラだけはどうしてもサイズが合わなくて……」
「……え?」
言われ、急いで自分の上半身を再度確認してみる。
「……!!」
Tシャツの下にあるべき乳房を覆う下着が、無い。
「兄に買わせる訳にもいきませんし……」
成程、この子は自分より多少小柄で胸に関しては比較的小さい方か――と、春香は茜の上半身を一瞥した上でそう分析した。分析しながらも、更に顔を紅潮させ、三角座りした自分の身体を被せられていた毛布でグルグルに巻いた。
「…………」
「…………」
そうして訪れる暫しの沈黙。
「……く、食うか?」
久は気不味そうにレジ袋から固形の栄養補助食品を取り出しながらそう言った。
7
「それにしても、久にあんな妹さんがいたなんて」
春香は毛布に包まったまま、茜の入れたホットコーヒーに口を付けながら切り出した。
「不出来な妹ですまねぇな」
「ううん、そんなこと無いよ」
コーヒーが少しばかり熱すぎて猫舌の春香には少々つらかったが、そんなことはどうでもいい。倒れてた自分を看病してくれていたことには違い無いのだから。気遣いそのものが今の春香には心地いいくらいに温かかった。その茜は久の部屋で布団を敷いている最中らしく、すぐ傍にはいない。
(さっきは微妙な空気になってしまった所為で言い逃したけど、後で改めてちゃんとお礼を言っておかなきゃ)
「そう言ってくれると助かる」
春香の隣にいる久が頬を軽く掻きながら言った。
そういえば、と春香はコーヒーをもう一口飲みながら話題を切り替えた。
「自腹で買った家じゃないって言ってたけど……ご両親は何処にいるの?」
自分が買ったんじゃないなら親なのだろう、常識的に考えればそうだ。そのはずなのだが。
「……親父もお袋ももういねぇ……10年以上前に死んだ。この家を貸してくれてるのは叔父さんだ」
コーヒーカップの水面に映る春香の顔に波紋が走った。
「ご、ごめん、そうとも知らずにこんなこと聞いちゃって……」
「つい2週間程前に初めて会った奴がそんなこと知ってる訳無ぇだろ」
「……それもそっか」
「それにな……」
久は言いながら右手の中指を自分の左目に近付けていく。
「……?」
左目に触れて離れたその指には黒いコンタクトレンズ。そしてその左目は、
翠 色 の 光 彩 を放っていた。
「久、それ……!」
「……この『闇を見る眼』になっちまったのもその頃からなんだ」
らしくない、静かな声で久はそう言った。
丁度その時、茜が久の部屋から出てきた。
「お兄ちゃん、春香さん、お布団の準備出来ました」
「あれ? 私の分も?」
茜の言葉に違和感を覚え、ふと問うてみた。
「お話しすることがたくさんあるでしょうし、時間も時間ですし、今晩は泊まっていきませんか?」
言われ、部屋の壁掛け時計を見遣ると、既に短針が10の部分を指していた。この部屋で目覚めた時点で陽が落ちていたことから考えても妥当だろう。雨はとっくに上がっていて、窓から見える夜の星空が綺麗だ。
「……」
家族以外の男女が一つ屋根の下で寝泊まりするのもどうかと一瞬思ったが、『闇を見る眼』とやらの話がまだ終わっていない。茜の言う通り、他にも話したいことがまだたくさんある。
「うん……何から何まで有難うね、茜ちゃん」
漸く言えた感謝の言葉。
「いえいえ。それではごゆっくり」
それで今日一日の家事が全て終わったのか、茜は自室に戻っていった。
「さて……話の続きは俺の部屋でやるか」
「うん。それじゃあ、お邪魔しまーす……」
春香は毛布をソファに置き、久に促されるまま彼の部屋に足を踏み入れた。