挿話 奈枝美の事情
春香の友人の一人、奈枝ちゃんこと横山奈枝美についてのエピソードです。
1
春香がそうだったように、横山奈枝美もまた嘗ていじめられっ子だった。
「おいチビ、さっさとそこどけよっ」
「お前、その髪見ててイライラするんだよ」
同級生の男子達から浴びせられる暴言。小学校6年生にして140cmにギリギリ届く程度の身長と、どうやっても整いようの無い天然パーマの髪が、奈枝美にとって最大のコンプレックスだった。
反論など出来る訳がない。もししようものなら――その先を考えようとしてやめた。やめてしまうぐらい、数々の嫌がらせを受けてきた。
とにかく、我慢する。クラスメート全員から無視されても、酷い暴力を受けても、上履きに画鋲を入れられても、我慢する。奈枝美はそれ以外の抵抗手段を持たなかった。知らなかった。
(チビで癖毛でこんな分厚い眼鏡かけてたらいじめられて当然だよね……)
我慢するための理由を勝手に作って一人で納得していた。
奈枝美が付け狙われる理由はもう一つあった。
「うわっ、また男同士でキスしてる漫画描いてる。キモッ」
傍を通りがかった女子からの一言だ。小学校入学前に、年上の親戚が読んでいる漫画を見せてもらって衝撃を受けて以来、こうして奈枝美自身もその手の漫画を描くようになった。それは俗に「BL」と呼ばれる物。それに対して「キモイ」という評価を下されることは、そんな自分の価値観を傷付けられていることに等しかった。
「チビ」「癖毛」に並ぶ暴言。
体が痛い。心が痛い。それでも、我慢する。
春香が遭遇したような一大事件には遭遇すること無く、奈枝美の小学生時代はいつの間にか終わっていた。
奈枝美もまた、周囲の環境を変えたくて私立である矢島第一中学校を受験した一人だった。
それでも、他人との付き合い方を今一つ理解しきれていない奈枝美は、入学したその翌日から空き時間を図書室で過ごすことが多かった。間もなく創立100周年を迎える中学校舎より20年程若い建物だ。一般の漫画は置いてあったものの、彼女の嗜好に合うものはあまり無かった。その所為か、図書室に足繁く通っていてさえ彼女の欲望は満たされなかった。
(私をいじめていた子はいじめで満たされてたのに……私は……いつまで経っても満たされない)
始まる、いつもの自虐。頭の中でネガティブな感情がどんどん渦巻いていく。
こうして、中学生になっても満たされない日々が続く。
2
そんなある日の昼休み。この日もまた図書室に来ていた。室内をゆっくりと歩いていく。その両隣には高く聳える本棚。ふと、その本棚の最上段を見上げる。
(あ……これ、まだ読んでない巻だ……)
ボーイズラブではないが愛読している漫画の、在庫切れで読めなかった巻。それが目に付いた瞬間、奈枝美はその歩みを止めていた。いつもそうしているように脚立を探し、その頂に立って手を伸ばす。それでも最上段にある本には手が届くかどうかという所だ。
(チビ……かぁ)
そう言われて罵られていた過去がつい脳内に蘇る。
(なんであたしはこんな体で生まれてきたんだろう……)
その過去を振り払うように一生懸命に手を伸ばしていく。利き腕である左手がそれを辛うじて掴み、それを抜き取ろうとした瞬間。
「……わ、わわっ……!」
気付けば脚立の上で奈枝美は相当前のめりになっていたようだった。バランスを完全に崩し、転げ落ちそうになる。否、既に奈枝美の体は落下を始めていた。
「危ないっ!」
(……あれ、あたし……生きてる?)
自身の生存を認識したのに続いて、何者かに抱えられている感覚。しっかりと筋肉のついた中に女性特有の柔らかさ。
「ふぅ、間一髪だったな。……大丈夫か、横山?」
奈枝美を抱える者からの声。男性的な言葉遣いではあるが、その声は明らかに男性のそれとは違うアルトボイス。短く切られた黒髪にすらっと背の高い体格。女物の制服とその胸部で存在を主張している膨らみが無ければ男性と間違えられても仕方ないだろう。
だが、奈枝美の疑問は違う部分に向けられていた。
「あたしのこと、知ってるの……?」
助けられたことへの感謝よりも、何故自分のことを知っているのかというある種の恐怖が勝っていた。それが命の恩人に対して失礼なことになっているとも気付かず。
「知ってるも何も、同じクラスじゃないか。まぁ、あまり話はしないから印象に残ってないのも無理は無いか。私は木幡葉月。改めて宜しくな」
――所詮、自分と同級生は相容れないもの。
小学校で自分と仲良くしてくれた友人のいなかった奈枝美は、相手を突っ撥ねることが当然のようになっていた。
「あ、あたしに優しくしないでっ!」
葉月の腕の中から離れ、借りるつもりだった漫画すらその場に置いたまま、奈枝美は逃げるようにして図書室から走り去っていった。
3
翌朝。
(あ、ホントだ……ちゃんとうちのクラスにいた。背高くてあんなに目立つのに、なんで今まで気付かなかったんだろう……)
教室に入った奈枝美はまず教室の中央にいる葉月の姿を認めた。彼女と親しげに話している複数のクラスメート達。男女の別は無い。自分と同じく昔いじめられていたかもしれない肥満体型の男子までもがそこに混ざっている。集団の中央にいながら、葉月から感じられるのはガキ大将のような雰囲気ではなく、どちらかというと所謂「頼れるリーダー」に近いものだった。
(あたしもあの中に混ざれたら……)
一瞬奈枝美の中に浮かんだ素敵な考えを、しかし一瞬にして消し去った。まるで蝋燭に灯った火に息を吹き掛けたように。
(だってあたしは、こんなにもチビで癖毛で、しかもBL漫画なんて描いてるんだから)
そうやって心を閉ざしたまま、自分は下らない大人になっていくんだろう。社会に出たら嫌な同僚や上司にも無理矢理笑顔を振り撒いて過ごしていかなきゃいけない。そうなった時に、果たして自分は生き続けていられるのだろうか。そんな問いに首を縦に振れる自信など微塵も無かった。
(こんな駄目なあたしに関わる人なんて、一人でも少ない方がいいに決まってる)
葉月を中心とした話の輪に入ることをあっさり断念し、1時限目の授業までの空き時間をBL漫画を描くことに費やした。幸いにも席は教室の窓際の隅。誰の目にも見つからず趣味に走るには都合のいい席だった。
そんな奈枝美の心中を知ってか知らずか、葉月はクラスメートとの談話を続けていた。
4
そうして、その日の放課後がやって来た。机の中の大量の荷物を鞄に何とか仕舞ってそのままさっさと帰ろうとした、まさにその時だった。
「横山」
奈枝美にとって一番聞きたくなかった声が彼女を引き止めた。
「木幡……さん?」
昨日の今日では流石にその名前を忘れようが無かった。それでも所詮、高校卒業までの6年間の付き合いだと思うと、どうせいつかは忘れるのだろうと考えていた。
「やっと二人きりになれたな」
そんな葉月の言葉に、奈枝美は視線を周囲に向けてみた。確かに他のクラスメートは帰路につくなり部活に向かうなりして教室には残っていなかった。もう暫く沈みそうにない太陽が二人のいる教室を無言で照らす。
(二人きり……かぁ)
奈枝美にとって二人きりの状況というものにはあまりいいイメージが無かった。
小学生時代、体格の大きい男子と偶然教室で二人きりになった時に激しい暴力を加えられたことがあったからだ。
今すぐこの場を離れたい。先日図書室でそうしたようにさっさと走って逃げればいい。そうしたいと思っているのに……何故か足は脳の命令に従わなかった。
「朝は他のみんなと話してて声をかけられなかったんだが……一体何を書いてたんだ?」
(見られてた……!)
この世の終末を見せられたかの如く奈枝美の顔が青ざめていく。
「なっ、なな何でもないよ! 何も描いてない!」
必死に言葉を紡ぐ奈枝美。あまりにも簡単に読めてしまう先の展開に、体の震えが止まらなくなる。
自分の描いたBL漫画がこの同級生によって白日の下に晒され、ここでもまたいじめが始まる――。
(……ああ……またしても環境は変えられなかった、か。情けないな、あたし)
「ちょっと見せてもらっていいか? ……この机の中か?」
奈枝美は葉月の質問には答えず、抵抗すら諦めてただ俯いているだけだった。あまりの恐怖に、その瞳から勝手に涙が溢れてくる。
(「キモイ」ってさっさと言ってくれればそれでいい。あとはあたしが我慢するだけだから)
描いた漫画を収納しているファイルを取り出す音が奈枝美の耳に入る。続いて、そのファイルを捲っていく音。
(早く「キモイ」って言って! そして……これ以上あたしに深く関わらないで!)
何処までも悲痛な奈枝美の心の悲鳴。
しかし、自分とは何もかもが真逆なこの同級生はそんなネガティブなリクエストには応えなかった。
「……上手いな」
「…………え?」
漫画家として絵を褒められることはこの上無い喜びのはずだ。だが奈枝美はその言葉を素直に受け止められないでいた。
違うんだよ。自分が欲しいのは、そんな言葉じゃない。
「ほ、他に……言うことは……無いの?」
震える声で必死に訴える奈枝美。だが葉月にはそんな彼女の意図など解る由も無く、
「他? ……ああ、登場人物の性格も分かりやすくて中々に読みやすいな」
ただ褒めるばかりだった。
耐え切れなくなった奈枝美は、遂にその言葉を直接口にした。
「ねぇ……キモイとか、そういう風には思わない?」
「キモイ? 私はそこまで漫画っていうものに聡くないからよくは分からないが……」
「……が?」
「確かに男同士の恋愛がテーマのようだからどうしても合わないって人もいるだろうが、私はそれ以前にこの絵や話の上手さに感心したな」
どんなに言葉を交わしても、葉月の口から奈枝美を否定する言葉は出てこない。
「それ、本心? ホントはあたしのこと……心の中で馬鹿にしたりしてない?」
その言葉に葉月は額に掌を押し付けながら「はぁ」と溜息を一つ吐き、
「……逆に訊きたい。横山、なんでお前はそこまで自分のことを蔑めるんだ? 私は今まで全く知りもしなかったお前の趣味とか才能とかに驚いているんだぞ」
「……ホントにホント? ……あたしのこと、認めてくれるの……?」
「さっきからそう言ってるじゃないか。お前は認めて欲しくもないのに教室でこういうの描いてたのか?」
奈枝美の心の底から沸き上がってくる感情。それが「歓喜」という名前だったことを彼女は忘れかけていた。
認めてくれた。認めてくれた。たったそれだけのことが、奈枝美の心を歓喜で満たしていく。
「……う……あ……」
「横山?」
「うわああああぁぁぁぁぁん!」
大声で泣きながら、奈枝美は自分より一回り以上は大きい体に抱きついた。嬉しくて、涙が止まらない。どんなにネガティブな言葉を吐き続けていても、心の底では誰かに認めて欲しかった。それに気付いてしまって、涙が止まらない。
「な、何だ? 私、泣かせるようなこと言ったか?」
その言葉通り、葉月にとっては何でもないことだったのかもしれない。しかし――
「……ひぐっ……い、今まで親戚以外であたしの漫画褒めてくれた人いなくて……それが、何だか嬉しくて……グスッ……」
言う間にも、大量の涙が奈枝美の頬を流れていく。
「そうだったのか。……涙拭いたらどうだ、可愛い顔が台無しだぞ。ほら」
葉月はそう言ってスカートのポケットからハンカチを取り出し、奈枝美に手渡した。
「有難う……有難うっ……」
一つ目の「有難う」は、ハンカチを渡してくれたことと「可愛い」と言ってくれたことに。
二つ目の「有難う」は、自分の趣味を、ひいては自分自身を認めてくれたことに。
同時にこの日、奈枝美は二つのことを学習した。自分に素直になること、そして、自分に自信を持つこと。
後日知ったことだが、葉月は幼い頃から剣道を学んでおり(学校では一貫して剣道部に入っている)、相手を受け入れ認めることが、礼儀であると同時に、敵と己に打ち克つための思考でもあった。それを親から教えられてずっと実践してきた葉月にとって、奈枝美の漫画を認めるのは息をするのと同じぐらい簡単なことだった。
そして、この思考は以後奈枝美と――そして後々知り合うことになる春香や京子とも――共有していくことになる。
ともあれ、奈枝美はその翌日以降、葉月達の話の輪に入ることになった。その輪の中で、クラスメート達は奈枝美にいつも優しかった。少なくとも「キモイ」という言葉は、その存在が忘れられたのかと思えるぐらい出て来なかった。
5
「やー、皆の衆。待たせたね!」
そう言って待ち合わせのセンタービルに現れる京子。
「珍しいな、お前が約束の時間に間に合うように来るなんて」
それまで奈枝美と話していた葉月がそれに対して若干茶化すように言い放った。
高校2年生になる年の3月24日。この日の昼前に神木市の繁華街で買い物をしようと提案したのは、何を隠そう奈枝美だった。自分の中で予定のルートに同人ショップを組み込んでいたのは彼女にとって当然だったが、勿論他の色々な店を見て回ることになったとしても、彼女はそれに喜んで付き合うつもりだった。
他の誰かを認めることが大事だって分かってしまったから。
「間に合っても間に合わなくても、京ちゃんは京ちゃんなんだけどね」
だから、そんな言葉が自然と奈枝美の口から出てくる。
「ん? うちのお姫様がいないね。まだ来てないのん?」
「ああ、まだだな。もうすぐ来るといいんだがな、春香」
「そっちの方が珍しいんじゃないかなぁ……」
確かに、春香は約束の時間に対して遅刻したことは一度も無かった。いつも5分前には着いていて、先に来ていた人にも後から来た人にも分け隔てなく笑顔を振り撒いていた春香。そんな彼女が、間もなく約束の11時というこのタイミングでまだ姿を現していなかった。
誘った張本人である奈枝美が春香の携帯に電話をかけようとしたその時、大音量のサイレンを鳴らしながら一台の救急車がすぐ傍の道路を走り抜けていった。その瞬間に巻き起こった風が、今は茶色に染めている奈枝美の癖毛を僅かに揺らす。
「救急車……? アタシ、なーんかやな予感するんだけど」と京子。
「私も同感だ。……奈枝美、お前はどう思う?」
続けて葉月がそう言った。
「……うん、あたしも」
言いながら奈枝美もそれに首肯した。
「そうと決まれば早速追いかけよっか」
「だな。行くぞ、奈枝美」
救急車の去った方向に走りだす京子と葉月。
その二つの大きな背中を追うようにして、未だ150cmにも満たない奈枝美も走り始めた。
この後、第1話-4に繋がります。