第1話 二つの邂逅
1
「いやああああああぁぁぁぁっ!!」
甲高い悲鳴。先程まで夢に魘されていた少女があげたものだ。……否、それがもしただの「夢」であったならどんなに良かったことか。
勢い良く布団から身を起こし、激しく肩で息をしている少女。全身が汗で濡れ、一走りしてきたアスリートのようにも見える。
「なんで……今更……」
今にも泣きそうな声色で発せられる独り言。
「私……は……」
「夢」の中で蘇った過去のいじめの記憶。それが彼女に先刻の産声――悲鳴をあげさせた。
少女の呟きを遮るかのように部屋のカーテンの隙間から降り注いでくる陽光。同時に鳥の鳴き声も響いてくる。
壁にかけてある可愛らしいデザインの時計に目を遣ると、短針が9と10の間を指していた。
「あ、今日は……」
夢のことは一旦さておいて前日にした約束を思い出す。友人達との買い物の約束だ。最早頭はすっかり切り替わっていた。
まずは体にへばりついている汗を流すためにシャワーに入ることにした。
脱衣所ですっかりベトベトになってしまっている寝間着と下着を脱ぐと、穢れを一切知らない綺麗な裸体が露わになる。
整った白い肌、平均的なサイズを僅かに上回る背丈と乳房。その割にかなり細く括れたウエストに、大きく張り出したヒップ。そしてその美しい乳房まで届く艶やかなストレートの黒髪。歳の程は17ぐらいだろうか。
シャワーを浴びた後、外行きの服に着替え一人で朝食を摂り始めた。彼女が着用しているのは髪の黒が映える桜色のワンピース。袖口と襟刳のレース装飾が印象的だ。
少女の両親は仕事で今は家にいない。一人っ子の彼女に、他に食事に同席する者は皆無だった。
リビングの一角で主張している3月のカレンダー。3月24日……高校生の彼女にとって、今日は俗に言う春休みの初日だ。
(待ち合わせは11時だっけ……ちょっと急がなきゃ)
少し恥じらいながらも――尤も、一人きりのリビングでわざわざ淑女らしく振る舞う必要など無いのだが――トーストとミルクティーをいつもより速めに胃の中に流し込んでいく。
朝食も終え、出掛ける準備のすっかり整った少女。
「行ってきまーす」
誰もいない家に出発の挨拶の言葉をかけ、最寄り駅に駆け出した。
こうして黒髪少女・鈴蘭春香の運命の一日が始まった。
2
最寄り駅である中山橋駅まで徒歩で15分。そこから目的地の最寄り駅である神木商店街駅まで更に15分。
(これなら何とか5分前には着きそうね)
下車し、待ち合わせのセンタービルに向かって歩いていく春香。これから訪れるであろう、友人達との楽しい買い物の時間に胸を膨らませながら。
その期待は、全く予想しない形で呆気無く粉々に砕かれた。
「…………!!」
車道を挟んで春香の反対側の歩道の向こう側から歩いてくる小柄な少年。その背丈は女である春香にすら及ばないように見えた。目的地を目前に控えながら、春香は息を呑むと同時にその歩みを唐突に止めた。
何故なら。
「あれは、まさか……瀬戸……?」
自らを苦しめていた者の一人の名前をそっと口にした。
忘れもしない。忘れるものか。その少年は紛れもなく春香の「敵」だった。
沸き上がってくる 殺 意 。
円な黒瞳が憎悪と怒りで細められる。憎悪と怒り。心が負の感情で満たされていく。
それを知ってか知らずか、春香が瀬戸と呼んだ少年が目の前の横断歩道をゆっくりと渡ってくる。血が滲みそうなぐらいの力が春香の右の拳に込められる。
「貴様らが……私を殺した……。だから、私は……貴様らを……殺す……!」
勝手に春香の口を割って出ていく物騒な言葉。彼女は普段は決してそんな言葉遣いをする人間ではないのだが。
こっちに、ゆっくりと、やって来る。
こっち に ゆっ くりと やっ てくる。
だから コ ロ ス 。
横断歩道の中程にいる瀬戸に、春香は一気に駆けた。
「……ッ!?」
果たして春香のことを憶えていたか。そんなことを考える暇すら与えず、春香は瀬戸を道路の真ん中で押し倒した。
騒然となる周りの通行人達。しかし彼女にとってそれはどうでもいいことだった。
大事なのは。
瀬戸を殺せるか殺せないか。
……違う。
殺 す 以 外 の 選 択 肢 な ど 、 有 り 得 な い 。
「うあああああぁぁぁぁーーーー!!」
叫びながら、馬乗りの体勢になった春香の拳が瀬戸の顔面を何度も叩く。何度も何度も。何度も何度も何度も。どんなに殴っても足りやしない。降り注がれる拳の弾幕。その度に春香の綺麗な黒髪が撥ねる。
死ぬまで殴らなきゃ気が済まない。
だから。死ぬまで殴らせろ。死んで。死んで、理解しろ。私が受けた痛みを。
訳の分からないまま殴られ続ける瀬戸。事実、目の前にいる少女がかつて自分がいじめていた相手だったことなど、すっかり忘れていた。無数の青痣を体中に刻まれ、絶えない痛みに苦しそうに喘ぐ。
青だった信号が赤に変わる。春香は気付かない。トラックが猛スピードで走ってくる。春香は気付かない。トラックに全く止まる気配が無い。春香はそれでも気付かない。瀬戸を殺すのが第一。だから、春香は気付かない。
猛スピードのままトラックが二人に突っ込む。
その瞬間、春香は完全に意識を手放していた。
3
それは、春香が中学校に入学してまだ半月ぐらいしか経っていない頃の話。
「鈴蘭さん」
昼休み。特に親しい同級生のいなかった春香が一人で昼食を取摂ろうとしていた所に突然声がかかった。
孤独な小学生時代を過ごしてきた彼女には女子同士のグループに属するとかそういった考えが全く無く、結局ここでも彼女は独りだった。対して、声をかけてきたこの少女の周りには取り巻きと思しき同級生の男女が数人。
「君は……えっと……」
春香にその先の言葉は言えない。その理由は、
「何、入学して半月は経ってるのにまだクラスメートの名前も覚えられないわけ? 信じらんない」
過去の経験から、同級生に必要以上に関わることに対して非常に消極的だった。威圧的な相手の物言いに、
「ご、ごめん……」
つい震えた声でそう謝ってしまった春香の黒い髪は肩にも届いていなかった。しかも美容院で整えてもらったとは到底思えない雑なカット。
「私は綾小路……綾小路海! いい加減覚えて頂戴!」
そう名乗った同級生は、鉄色のカチューシャが印象的なウェーブロングの髪の持ち主だった。中学生ながら、立派に髪を茶色に染めている。誰が見ても生真面目な生徒には見えない。背は春香より一回り以上は小さい。態度はその数倍大きいが。
「まぁ、名前を覚えてもらうのはいいとして……鈴蘭さん、私の分のジュースを食堂の購買部まで買いに行ってくれないかしら?」
春香の机には弁当箱。それに気付いた上での注文だった。母の作ってくれた弁当を食べようとしていた春香は当然そんな気にはならず、
「そ、そんなの……他の友達に頼めばいいじゃない」
その一言が綾小路の逆鱗に触れた。
パァンという音と、それに一瞬遅れて頬に走る痛覚。このお嬢様然とした同級生に頬をぶたれたのだと理解するのに数秒を要した。
そういえば似たような雰囲気の同級生がつい先月までいたなぁ、などと感慨に耽る暇も無く、綾小路が怒気に満ちた声を浴びせてくる。
「この私に逆らう気? これ以上口答えするなら……分かるわよね?」
未だに状況を把握しきれていない春香への容赦無い口撃。
「ほら、さっさと行きなさい! 10秒以内!」
最早、恐怖で春香は全く身動きが出来ないでいた。それがトラウマによるものだとその時の彼女は解っていなかった。腰が抜け、足はガタガタ震えるだけで「歩く」という機能を果たせない。
「ほら! 早く行かないと今度は本気で殴るわよ! あと5秒! 4……3……」
「あ、あのっ……待って……!」
勿論、その程度で待ってくれるなら最初からこんな事態になどならなかった。寧ろ動けないことに気付いた上で、まるで殴ることを楽しみにしているような表情だった。無常なカウントダウンは続く。
「2……1……」
出来ることといえば、目を瞑ること。目を瞑り、この嫌な現実を視界に入れないこと。
カウントがゼロになる。……が、暴力は飛んでこない。
タイムアップから数秒経っても一向にその時は訪れない。
何が起こったのかと、春香はゆっくりと目を開いていく。
どうやら「本気で殴る」というのは本当だったらしい。その証拠に、綾小路の右腕が実際に春香の目の前まで伸びていた。しかしその拳が春香に当たることは無かった。
「アンタ……いい加減にしときな。人としてカッコ悪いよ、そういうの」
綾小路とは別の低めの女声。苛立ちの滲み出ている声だが、その苛立ちは決して春香に向けられているものではなかった。
「花町さん……!? ……くっ、この親の七光りめ!」
殴ろうと突き出した腕を掴んで阻んでいた女生徒の名前を呼びながら忌々しく呻く綾小路。どうやら力では花町と呼ばれたこの同級生には勝てないらしい。
「ふ、ふんっ! 今日はこれぐらいにしといてあげるわ!」
綾小路は負け惜しみの言葉を吐き出すと、春香を殴るのを諦め、取り巻きと一緒に教室を出ていった。
「大丈夫? 怪我、無い?」
脅威の去った所で春香に声をかける救世主。
「う、うん……有難う。君は……」
日本人離れしたセミロングの金髪と青い瞳が印象的な少女だった。
「ああ、アタシは……」
花町京子、と。その少女はそう名乗った。
回想はそこで途切れた。
4
「へ?」
意識を取り戻した春香の視界に素っ頓狂な声を出す金髪碧眼少女が映った。しかも春香がそのまま体を起こそうとしたので――
ゴツンッ!
「きゃあっ!」
「あだっ!」
そこに女声のハーモニーが生まれた。
「……あー……春ちゃん。気が付いたんだ、良かったねぇ……」
ぶつかった額を摩りながら半ば棒読み気味に口を開く金髪。
「うぅ……って……きょ、京ちゃん?」
今しがたの回想に出てきていた少女がそこにいた。
あの一件以来、春香と京子は無二の親友として学校でもそれ以外でも仲良く過ごしている。「春ちゃん」「京ちゃん」と呼び合うようになったのもそれからだ。今日の「約束」で会うことになっていた中の一人でもある。
「京ちゃんがなんでここに? ……あれ……ここ、何処?」
「春香……」
京子に続いて今度は成人男性の声。
「お父さん……?」
春香の父・和哉が京子の横で同じように春香の顔を覗き込んでいた。歳の割に黒々とした髪に、僅かに髭の生えた口元。一般的な紳士の佇まい。
春香が足元の方に視線を向けると、泣き疲れたのか、母の裕美が突っ伏して寝息を立てていた。
「ここはね、びょーいん」
備え付けの椅子に腰を降ろした京子が春香の問いに返す。
「病院?」
言われ、周囲を見回してみる。
白い天井に淡く輝く電球、少し薄汚れた床。自室より僅かに狭いこの空間にあるベッドで寝ていたらしいことは分かった。成程、確かにここは病院の個室らしい。
服装もいつの間にかスカート型の真っ白い病人服に着替えさせられていた。
窓の外はすっかり陽が落ち夜の光景が映し出されていた。立てかけてある時計は7時を示している。
「約束の時間になっても中々来ないと思ってた所に急に救急車が近くを通っていったから、まさかと思って様子を見に行ったら……アンタが……」
「約束……あ、奈枝ちゃんと月ちゃんは?」
約束という言葉に、春香は他に同席するはずだった二人の親友の存在を思い出し、京子に尋ねた。
「あの二人には先に帰ってもらったよ。『後はアタシに任せとけ!』って言っておいたから大丈夫」
「そう、なんだ……」
「全く、心配かけさせやがって……」
京子の解説に混じって、和哉が愚痴を零す。
「それにしても、一体何があったの? 私、全然覚えてない……」
「……長々と説明するよりテレビ付けた方が早いな」
和哉がそう言いながら病室のテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
「お、丁度やってたか」
ニュース番組の映像が映し出され、女性キャスターが原稿を読み上げていく。
『本日午前11時頃、神木商店街の交差点で大型トラックによる交通事故が発生し、この事故で高校生の瀬戸幸一(16)さんが死亡、女子高校生1人が意識不明の重体となっています。殺人及び殺人未遂の罪で逮捕されたのは運送業者・満田太(37)容疑者です。口内のアルコール度数を検査した所、基準値以上のアルコールが検出されたことから――』
キャスターの言葉で春香はその時の状況をハッキリと思い出した。
「あいつを……私が……殺した……?」
「春香?」
「う、ううん、何でもない」
春香は冷静を装い和哉の心配を往なした。
事実上私が殺したようなもの、などとは口が裂けても言えやしなかった。
そこで春香はふとした疑問に突き当たる。
「ニュースで取り上げられてる割に……周り、静かだよね」
「あー、それは……」
京子はそれに応えながら、親指と人差し指で輪を作った。彼女の父――出身はアメリカ大合衆国だが日本国籍を取っており、現在は日本の国会議員をやっている――による根回しだ、と言いたいのだろう。
春香が二人に礼を言うと、京子は、
「んじゃ、春ちゃんも目覚めたことだし、アタシはそろそろお暇するよん。後は親子水入らず、ね。おじさん、お先に失礼します」
と言いながら椅子から立ち上がり、病室を後にした。
「春香……もう少し寝ていなくて大丈夫か?」
「大丈夫、問題無いよ」
水入らずとは言われたが、結局の所親子で交わされる会話はそんな程度だった。
「そうか。お父さんはもう寝るから、お前も早めに寝ておけよ」
今夜は一晩中ついていてやろうという和哉なりの優しさだった。
「……うん」
5
裕美の横で和哉も寝息を立て始めた頃、しかし春香は一睡も出来ないでいた。病室で覚醒するまでずっと寝ていたのもあるが、何より(間接的とはいえ)人一人を殺してしまったことへの罪悪感に苛まれていた。
(ニュースでは交通事故って言ってたけど……私が殺したようなもの、よね……)
春香は心の中で悩ましげに呟きながら両手で頭を抱える。昔から両親に生命の大切さを教え込まれてきた春香にとって、誰かを殺すことは、イスラム教徒が豚肉を食するのと同等の禁忌だった。
(誰かを殺した罪は、死んで償わなきゃ……)
そう思った後の行動は早かった。ベッドからそっと抜け出し、寝ている二人に無言で深く頭を下げ、早足で病室を抜け出した。
その足が目指したのは……病院の屋上。そんな春香の姿を見つけた者がいなかったのは果たして幸なのか不幸なのか。
幾つかの階段を上っていくと屋上に通じる扉があった。春香はその扉を両手でゆっくりと開く。美しい夜景が視界に広がっていくと同時に、春宵の冷たい風が頬と足元を撫でていった。
(お父さん、お母さん……先立つ不幸を許して下さい。京ちゃん、奈枝ちゃん、月ちゃん……今まで仲良くしてくれて有難う。罪を償うために私は今日ここで死にます。……ごめんなさい、さようなら)
心の中で懺悔しながら、一歩、また一歩、屋上の手摺へと近付いていく。その外側にあるのは、10メートルを超える深さの闇。そこへ飛び込めば、今度こそ命は助からない。
片足が所々が錆びているその手摺を跨いだ、その時だった。
「待てっ!!」
他に誰もいないはずの屋上に突如叫び声が聞こえ、春香はビクッと一瞬体を震わせた。全く聞き覚えの無い声だったが、何故か声の主の方に振り向いてしまう。しかし、影に包まれてその全容は把握出来ない。
「待て……早まるな……っ!」
コツコツと春香の方に向かってくる足音。やがて、その声の主が月光の当たる場所に現れた。
「……誰……?」
スラッとした背の高い少年だった。175cm……いや、それ以上か。男にしては少し長めの黒髪が目についた。長袖のパーカーに青のジーンズ。ここに入院している病人ではなさそうだ。歳は春香と同じか少し上ぐらいに見える。
「安易に死のうとなんてするもんじゃねぇぞ」
春香の質問には答えず、少年は忠告を続けた。そんな少年の言葉に春香が従うはずも無く、
「何よ……私の何を知ってるっていうの……!?」
不機嫌そうにそんな言葉を吐き出す。春香の片足は既に手摺の外側に出ている。もう片方も同様にして後は腕を離せば、それでもう彼女の死はほぼ確定する。
「勿論、詳しいことは分からねぇ。……けど、俺には見えるんだ……お前の『闇』が」
「『闇』が……見える……? そんなこと、ある訳無いじゃない……」
「そして……そんな『闇』を抱えたまま死んだ奴は碌な末路を辿らねぇ!」
春香には少年の言葉が全く理解出来なかった。自殺するために脳が昂っていたというのもあるが、恐らく普段の状態でもそう変わらないだろう。
「……やっぱり信じられねぇってか」
「…………」
死にたいと思っていることに変わりは無かったが、自殺志願者を引き止めるアプローチとしては非一般的な言葉を投げかけるこの少年に、春香は少し興味を抱いた。冥土への土産にこの少年の言葉を持って行ってもいいとさえ思った。別に冥土の存在など信じていなかったが。
ふと、二人の間に冷たい空気が吹く。それを合図に、春香は両の手を手摺から外した。左足はまだ手摺の内側だ。それでもその体が自由落下を始めるには十分な条件ではあった……のだが。
「待てって言ってるだろうがっ!」
闇に消えていこうとしていた春香の左足を、少年の腕が掴んでいた。信じられないことに、二人の距離を少年は一気に詰めていたのだ。
「お願い……離してっ!」
春香は必死に訴えるが、
「信じられないのは分かるが……これだけは言っておく! 今お前が死んだとしても、お前の死を望む者が喜ぶだけだ。暫くはお前のことを語る奴もいるとは思うが、いずれみんなの記憶から消え去ってしまう。そんな自分の末路に……お前自身は満足出来るのかっ!?」
そう言った少年の切れ長の目が、春香をじっと見据えていた。
「……! そ、それは……」
少年の視界で、彼女の表情がみるみる変わっていく。
「それは……嫌……絶対に嫌ぁッ!!」
泣き叫ぶような声で。春香は確かにそう言った。今の今まで死ぬつもりだった少女が、生にしがみつこうとしていた。
自分が死ねば自分を知っている者が全員悲しむものだと、春香はずっと信じてきた。しかし、思い返してみれば「奴ら」がそんな優しい心の持ち主とは到底思えない。……ならば。
ならば――そんな「奴ら」を喜ばせるために死んでやる義理なんか無い!
春香の人生の中から、自殺という選択肢が、消えた。
やがて、少年の手によって春香の体が手摺の内側に引き戻されていく。その間にスカートの中が少年に丸見えだったのを恥ずかしいと思えるのも、今生きているからこその感情だった。
「ふぅ……ちょっとは……落ち着いたか?」
疲労困憊の二人。屋上の床に座り込んでいるので、その冷たさが全身に染みる。
「う、うん……はぁ……」
少年の言葉に、春香は辛うじて頷いた。息を吐くごとに「死にたい」という気持ちも飛んでいく。
乱れた息が整った頃、少年はふと立ち上がった。
「お前を助けられて良かった……じゃ、俺はこれで」
春香に背を向けて階段を降りていこうとする少年。その背中に春香は、
「あの……有難うございました!」
少年は階段に向かいながらそれに言葉では返さず、代わりに右手を軽く掲げた。「どういたしまして」というサインのつもりなのだろう。
やがて少年の姿が完全に消え、屋上には再び静寂が訪れた。
春香の頬を、一筋の涙が伝う。
「ホントに……有難う。私は生きるよ、これからもずっと」
春香は涙を拭いながらそう呟いて、病室に戻るためにゆっくりと立ち上がる。そして、少年に続いて階段の方へとゆっくりと歩いていった。
こうして黒髪少女・鈴蘭春香の運命の一日が終わりを告げた。