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最終話 復讐の刻

第5話以上の残酷描写があります。

が、春香の立場で読むときっとカタルシスを得られるであろうことを宣言します。

……って書くとネタバレになりますかね?w


7/2 後半で雨の描写が少なかったので追記しました。

1


 その日の夕方――


 2ヶ月前の記憶を辿りながら、春香は久の住んでいる家に辿り着いた。

 壁に接着してあるインターホンを鳴らす。初夏の空が暮れかかっているこの時間だ、兄妹どちらかは帰っているだろう。

「はーい」

 ドアの前で待っていると、ゆっくりとそのドアが開かれ、その奥から夕陽に照らされたサイドテールが姿を現した。

「茜ちゃん、お久しぶり」

「……春香さんっ!?」

 事前にアポイントメントは取っていなかった。突然の訪問に茜は目を丸くしていた。

「おうちにいてくれてて良かった、丁度訊きたいことがあって……」

「ここで立ち話も何ですし、まずは上がっていって下さい」

「そう? 有難う。じゃあ、お邪魔するよ」

 茜の気遣いに感謝しつつ、久の家に上がる。

「邪魔するんだったら帰ってくれ」

「はいはーい……って――」

 ついいつもの教室でのノリで何処ぞの芸人みたいな遣り取りをしようとしたが、それでは来た意味が無い。

「久も帰ってたんだ。久しぶりね」

 テレビの傍の席で春香を見ている少年――久が春香の方を見て手を上げている。もう男性を前にしても怯えることは無かった。

「おう、久しぶりだな、久なだけに」

 再会の感動は久が放った一言のおかげですっかり冷え込んでしまった。



 最後に会った時の宣言通り、春香の前には1杯の紅茶。季節が季節なだけに、茜は冷たいものを用意していた。

 久は自分の紅茶を一口(すす)り、春香に尋ねた。

「あれから少し痩せたか?」

「……色々あってね」

 詳しい事情は後で嫌でも話さなければならないかもしれない。だから、今は黙っておくことにした。

「それで、私に訊きたいことって何ですか?」

 それを皮切りに、それまで穏やかだった春香の表情に影が差した。

「茜ちゃん、工場島高校に通ってるって言ってたよね?」

「はい」

 偶々リビングに干してあった茜の制服に3人の視線が一瞬集中する。

「2年に東岡っていう女がいるはずなんだけど。知ってる?」

「東岡先輩、ですか」

 春香の問いに茜は何とか記憶の糸を手繰り寄せようとしていた。

「そういえば……」

 天井に向けていた視線を春香の方に戻しながら茜は言った。

「さゆりちゃん――私の友達が、同じ部の先輩である東岡先輩のことを時々話してた気がします。確か、よく森川先輩っていう同い年の彼氏さんと一緒に帰ってるとか」

 茜のその言葉に、春香と久の表情が同時に強張る。

「森川……!? 春香、まさかそれって……」

「うん……」

 春香の考えていた通り、森川と東岡は付き合っていた。自分を地獄の淵に陥れた2人が愛情を育んでいるという現実に、春香は反吐(へど)が出そうになる。

「春香さん……?」

「大丈夫……続けて」

「はい。それで、その東岡先輩なんですけど……」

「……うん」

 この後衝撃的な内容が語られることを予感し、春香はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「最近、体調不良で学校を休みがちらしいんです。部活に至っては全く顔を出してないようで、友達も『ここ2ヶ月ぐらいまともに話せてない』って言ってました」

(体調不良……2ヶ月……?)

 茜の言ったことを脳内で反芻(はんすう)する。そこに東岡が言ったことを混ぜ込んでみる。


『これは健太の……森川健太の精液。しかも一度あたしの膣内に入ったものよ』


 ま さ か 。


 春香は紅茶の両隣に左右の手を勢い良くつき、唐突に立ち上がった。

「……っふ、あはは……!」

 自然と笑いが零れてくる。

「あははははははははははっ!!」

 笑い声がリビングで反響する。

「あの、春香さん……私、変なこと言いましたか?」

 この世にあらざるものを見るような怯えた瞳で春香を見上げる茜。久も今一つ状況が分からず、呆然としていた。春香は一頻(ひとしき)哄笑(こうしょう)した後、大真面目な顔に戻りながら、

「……久、茜ちゃん……あんた達にだったら先に予告しといてもいいかも」

「何だ?」

 久が訝しげに春香を見る。茜も春香の次の言葉を待っているようだ。

 立ったまま窓越しに夕焼け空を仰ぐ。

「2人とも、再来月から『いじめ被害者救済法』が施行されることは知ってるよね?」

「はい、9日からでしたよね」

「春香、もしかしてお前っ……!?」


「……私、鈴蘭春香は……8月9日に東岡美弥子を殺します」


 刹那、静けさが室内を支配する。そして。

「……えぇっ!?」

 久と茜が同時に驚愕した。

「お前、恨んでるのは森川なんだろ? なんでその彼女の方なんだ?」

「……一応京ちゃんには話したんだけど、久にまではそれが回ってなかったみたいね」

 どうやら説明が必要らしかった。

「東岡もね……あの頃の同級生」


 『2ヶ月前』のことを含め、春香は東岡のことについて兄妹に語った。


「酷い……」

「まさか2ヶ月前にそんなことがあったとはな。そりゃ痩せもするか」

 事情を聞いた2人が正直な感想を漏らす。茜の方は今にも泣き出しそうな表情だ。

「うん。だから私には東岡を殺すだけの理由がある」

「でもやっぱり殺すのは……」

 茜は春香に思い留まらせようとするが、

「茜。人間にはな、いつか『やらなきゃならない』って時がある。少し早いかもしれねぇが、春香はそれが今なんだ」

 久がそれを諭した。

「それを逃してるようじゃ、この国からいじめが減るはずも無ぇ……そうだろ、春香?」

「私もそう思ってる。ふふっ、久は何でもお見通しかぁ」

 殺害予告を終えたばかりとは思えない、春香の穏やかな笑顔がそこにはあった。殺人者が狂気に塗れた人間ばかりではない――いじめに対する復讐を「狂気」と評する者がいれば話は別だが――という好例か。

 立ったまま、目の前のカップの中のアイスティーを一気に煽る。冷えきった心には心地いい美味しさだった。

「ご馳走様。じゃあ、話すべきことも話したし、私はそろそろ帰るね」

 流石に今回は終電までまだまだ時間があった。

「そうか。じゃあ駅まで送ろうか」

「有難う」

 春香はそれに静かに頷いた。



2


 夜の涼風に包まれる中、春香と久は矢島北口駅への道を並んで歩いていた。途中までは順調に駅に近付いていたのだが。

「ねぇ、久……寄りたい所があるんだけど」

「時間は大丈夫なのか?」

「うん。……ちょっと、話があるの」

 春香が上目遣いに久を見る。彼でなくてもその顔に美しさと可愛さの両立を感じざるを得ないだろう。「魔女」と罵った者達が激しく後悔するような可憐な表情。

 久は「話すべきことは話したんじゃなかったのか」という野暮な反論を飲み込み、春香の歩に追従した。



「おいおい、ここは……」

「相変わらず人いないね。時間の所為もあるかもしれないけど」

 2人が来たのは近所の公園だった。

「この近くで、久と再会したんだよね。いきなり前の方から歩いてきた時には吃驚(びっくり)したよ」

「ああ、俺も正直驚いてた」

 お互い名乗り合った、思い出の場所。今もまた2人きりだった。久に背を向けたまま春香が語る。

「ホント、久には色々と感謝してる。学んだことも多かった。久はとても素晴らしい人間、心からそう思うよ」

「ははっ、過大評価だろ?」

「ううん……久がいなかったら……あの日私の自殺を止めてくれなかったら、今ここに私は生きてなかった」


 ――何も知らないままあの時死んでたら、「奴ら」が喜んでただけだったんだから。


「春香……」

「だからね、こんな一言で纏めるのも悪いかもしれないけど……ホントに有難う」

「……」

 満更でもないのか、恥ずかしそうに頭を掻く久。

「そして……」

 久の方に振り返り深く頭を垂れながら、


「私に生きる希望を与えてくれた久のことが、私は大好きです。私と……付き合って下さい」


 好きな異性がいたことが無かった訳ではない。だが、こうして実際にその想いを伝えることが出来たのは彼女にとって初めてのことだった。

 男性だからと久との交流を一切絶っていた2ヶ月間だったが、ひょっとしたら久に対しては拒絶反応は出なかったのかもしれない。今となっては確認する術は無いが。


「2ヶ月後に暫く引き離されるかもしれないって分かってて、か?」

 恐らく東岡を殺した春香はその場で現行犯逮捕されるだろう。久にとってはそこが気懸かりだった。

「引き離されたって、手紙の遣り取りぐらいは出来るんじゃない?」

「そう……だな」

 懸念が払拭されたことを受け、久も頭を下げた。


「改めて宜しくな……春香」


 初めてここで向かい合った日と同じように行われる握手。久の手の温もりを感じながら、ゆっくりとその距離を更に縮めていく。

 そのまま静かに目を閉じ――交わされる、誓いの口付け。

 春香にとって生まれて初めてのキスは、久の家で飲んでいた紅茶の味がした。


 こうして、2人は晴れて恋仲となった。



3


 翌朝の教室で、春香は京子達3人にも自分の殺意を表明した。他の者には聞こえないよう、ひっそりと。

「やりたいようにやっちゃえばいいさね。そのための法なんだし」

「春香の方が先に殺されかけたんだ、遠慮は要らないと私は思うが」

「春ちゃんの行動力、羨ましいなぁ。あたしにはそこまで出来ないもん」

 その決意に賛同こそすれ、反対する者はいなかった。


 ――親に言ったって、「そんな連中のことは放っといて普通に生きればいい」とか言われるに決まってる。


 思春期特有の「とにかく親に反抗したい」という気持ちも無きにしも非ずだったが、元々自分の本心が親と真っ向から反している以上、仕方の無いことだった。それならば、自分の意見を尊重してくれる親友達の方がまだ好感が持てた。

「少年院とかに行っちゃったらその間は中々会えないだろうけど、手紙ぐらいは送るからね」

 昨晩久に言ったこととほぼ同じことを京子に言われ、自然と春香の頬が緩む。

「うん、そうしてくれると嬉しいかな。みんなのこと、ずっと大好きだから」

「おほっ、じゃあやっとアタシの彼女になってくれるってこと――」

「いやいやいや、そんな訳無いでしょ。旧オランダじゃあるまいし……」

 いつもの如き京子と春香のボケツッコミの応酬。否、京子の方は割と本気だったかもしれないが。春香は春香で、「自分にはもう久という恋人がいるし」という言葉を喉奥で抑え込んでいた。

「今更だけど……あたし、春ちゃんと京ちゃんのおかげでGLにも目覚めちゃったみたい」

「じ、じーえる……?」

「あっ、勿論見る専で」

 眼鏡の奥で少女漫画の絵面のようにキラキラと瞳を輝かせてそう口走る奈枝美に、葉月はいつも通りに額に手を当てながら大きな溜息を吐いた。


 2ヶ月後に元同級生を殺す予定の少女は、今笑顔に満ち溢れていた。



4


 それから約1ヶ月半が経った。

 矢島第一高校のグラウンドでは終業式が行われている。

「えー、くれぐれも全校生徒諸君には、学生としての節度ある言動・行動を取ってもらいたいと――」

 そんな校長からの有難い訓示は、しかし春香の耳には微塵たりとも入って来なかった。聞く余裕があるとすれば、親友達から掛けられる言葉ぐらいか。

 今、春香の心では深淵たる憎悪と漆黒の殺意が渦巻いていた。それこそ、久の「左目」に頼らずとも自覚出来る程に。



 その後、あっという間にホームルームも終わり、クラスメートの皆が帰宅や部活の準備を始める。

「今日は……」

 いつもの4人組の中央で、京子が腰元で握り拳を作る。

「今日は?」

「いつも以上に派手に遊ぶぞおおぉぉ!」

 叫びながら、その拳を真っ直ぐ上に突き出した。

「何その瞬間移動するビームでも撃ちそうなポーズ?」

 憎悪と殺意に塗れていながら、春香は親友にはいつもの態度を崩さなかった。

「春ちゃんとは8月9日以降は暫く会えないだろうし、今の内にパーっと遊んどこうと思って、ね」


 こうしてこの日、4人で繁華街を出歩くことになった。


 「いつも以上に派手に」の言葉通り、「節度ある行動」とは程遠い派手な散財。金遣いが激しい方が経済が回り易くなるのは事実だが、春香は遊びながらそんなことは特に考えていなかった。とにかく派手に遊ぶ。それ以外の思考は持ち合わせていなかった。

 途中寄った本屋であの『君だから』がコミカライズされていたことを知り遣る瀬無い気分になりもしたが、それを除けば春香の、そして他の3人にとっても素晴らしい思い出の1日となった。



「じゃあねー!」

「うん、バイバーイ!」

 神木商店街での派手な遊びが終わり、4人は現地で解散した。


 中山橋駅で下車し、独り自宅への道を歩く。その途中で、工場島高校の制服を来た生徒2人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。双方とも女子だ。それは東岡ではなく――

(ひょっとして……綾小路!?)

 女子の片方は鉄色のカチューシャを頭に乗せたウェーブロングの髪の小柄少女。問題行動が絶えなかったことが原因で2年次に矢島第一中学校を中退させられ、そのまま工場島に転校した、綾小路海その人だった。彼女は隣で歩く友人との話に夢中なのか、春香の存在には気付いていない。

(今会うとややこしいことになりそうね。うぅ、折角思い切り遊んだのに気分台無しよ……)

 心の中で不満を垂れながら、2人の目につかない、建物の隙間に姿を隠すことにした。

 やがて距離がかなり縮まったのか、彼女達の話す声がハッキリと聞こえてくる。

「それにしても、あの東岡さんが妊娠なんてねぇ」

「今、3……いえ、4ヶ月目だとか何とか」

 図らずも、話題は東岡についてのことだった。少なくとも同学年の生徒達にはすっかり広まっているようだ。

「相手はやっぱり森川君、なんだよね?」

「ええ。堕ろす気は無いみたいだけど、大丈夫なのかしらね」

(子供、産むつもりなんだ……そんなこと……)


 ――そんなこと、絶対にさせるもんか。


 更に沸き上がってくるどす黒い感情達。勝手に双眸(そうぼう)が鋭くなる。「奴ら」の遺伝子を後世に遺すことが、春香にはたまらなく許せなかった。



 そして、真夏の太陽が矢島町に8月9日の朝を告げた。



5


 春香は朝食もそこそこに、自室に戻ると携帯を手に取った。電話を掛けた相手は――

「おはよう、茜ちゃん」

「春香さん、おはようございます。……8月9日、今日ですね……」

「東岡って茜ちゃんの友達と一緒の部なんだよね? 今日も部活で登校してるってこと、あったりする?」

 要するに、春香は東岡の居場所を知りたかったのだ。

「そうですね、さゆりちゃんが今日学校行ってるみたいなので、東岡先輩も恐らく行ってると思います。この所体調が安定してきたようで、元気に活動してるらしいですよ」

「そう、学校に……有難う、茜ちゃん」

「いえいえ。……本当に、殺すんですか?」

「勿論。『奴ら』には一度殺されたようなものだし。次は『奴ら』が死ぬ番よ」

「そうですか……」

 茜としても春香に人殺しになって欲しくないのだろう。

 平穏無事に暮らしていけるなら越したことは無い。だが、平穏を壊そうとする者に立ち向かわないのは生存本能に反していると言ってもいい。

「……春香さん、ご武運を。兄も応援してくれてます。それではまた」

「うん、色々訊いてばっかりでごめん。……またね」


 通話を終えた春香は外行きの服に着替え始めた。袖を通したのは、お気に入りの桜色のレース付きワンピース。やや薄手なので夏に着ても季節外れな感はあまり無い。姿見の中で、春香の綺麗な長い黒髪が揺れる。

 両親は朝早くから仕事で家にいなかった。これはまるで――

(……まるで4ヶ月半前の再現ね)

 『3月24日』から丁度4年が経ったあの日、瀬戸幸一を死に追い遣ったあの日と似た光景だった。ただ、一つ違うのは。

(おっと、忘れる所だった)

 春香は台所に足を踏み入れた。幾つかある引き出しの内の一つを開けると、そこから包丁を一丁拝借した。筋引(スライサー)と呼ばれるタイプのものだ。15cm程度ある刃部分をタオルで包み、愛用しているトートバッグの中に常備品と共に仕舞い込んだ。

 夏休みの宿題には一切手を付けていなかった。


 ――どうせ暫く娑婆には帰ってこれないだろうし。


 眩しい陽光を右手で遮りながら玄関先から自宅を見上げる。

「……行ってきます」

 当分この家を見ることも無いのだろうと思うと途端に感慨深くなってきたが、そんな想いを振り切り、春香は中山橋駅への道のりを歩き始めた。



 電車に揺られる春香。暫くすると、鬱陶しい程に大地を照らしていた太陽を分厚い雲が覆い隠し、やがて一帯に大雨を齎し始めた。春香の中から湧き上がる負の感情に呼応するかのように。


 ――何か大きなことが起こる日って大抵雨だった、よね……。


 やがて春香を乗せた車両は矢神天宮駅に到着した。



(駅前で、っていうのは流石に駄目ね。せめてもう少し学校に近い所で……)

 改札を出ながら、春香はずっと東岡を殺すことしか考えていなかった。


 こんなにも美しく育った少女が、嘗て「魔女」などと呼ばれいじめられていたことに何人が気付くだろうか。

 こんなにも美しく育った少女が、今からそのいじめていた「奴ら」を殺しに行こうとしていることに何人が気付くだろうか。


 恐ろしく冷静に憎悪と殺意を練り上げながら、春香は駅と工場島高校の中間地点で待つことにした。市街の中心地から少し外れているからか、人通りは然程多くはない。この大雨もその人気の無さに一役買っていた。



6


 夏の暑さも打ち付ける雨も気にすることもなく待ち始めてから数時間。


(…………来た)


 前方から相合傘をしながら春香のいる方に歩いてくる工場島高校の男女2人組。

 金色に染めた髪にピアスを付けた女子、顔に似合わない長い後ろ髪を揺らす男子。東岡美弥子、森川健太。彼らの姿を認めると同時に、春香は包丁に巻いていたタオルを外した。


「ホント大きくなってきたよな、お腹」

 森川が東岡の腹部を(さす)りながら言う。

「健太とあたしの愛の結晶だもん、元気に生まれてくれるに決まってるって」

「今の内に名前、決めとくか?」

「いいね、それ」

 上機嫌な声でかわされる父母の会話。


「悪いけど……そうはいかない」

 その会話に、春香が割り込んだ。


「『魔女』っ! どうしてあんたがここに――」

 東岡の言葉は最後まで続かなかった。春香が制服の上からでも分かる腹の膨らみ目掛けて一直線に包丁を突き刺したからだ。人間の皮を被った悪魔を貫く感触。

「あがっ、ぎゃああああああああああ!!」

 痛みに思い切り叫ぶ東岡。

「東岡……貴様なんて、ここで死んでしまえばいい……死になさい、お腹の子供と一緒にッ!」

 言いながら春香は包丁に更に力を込め、傷口を掻き回した。そこに静かに息づいていたまだ名も無き赤子など、あっさりとその命を散らせているだろう。

 そのまま更に下部を目指して包丁を押しこむように下ろしていく。膣ごと東岡の外性器が切り裂かれた。大量の血が吹き出し、その飛沫が工場島高校の制服、そして春香の顔とワンピースを紅く染めていく。

「げあああああぁぁぁぁあああ、あっああああああっ!!」

「私の心が受けた痛みは……こんなものじゃなかった!」

 3年以上もの間受け続けてきたいじめ。それを1日で返した結果がこれなのだ。そんな説明をした所で東岡の耳に届いているかどうかは甚だ疑問ではあるが。その体は立っていられるだけの力すら失い、仰向けに倒れ込む。

「じ……()にだぐない……お(なが)(あが)ぢゃん、産むまで……は……」

 東岡は血を吐き涙と鼻水を流しながらも、膨れた子宮の外側に必死に腕を伸ばしその生に(すが)り付こうとしていた。

「貴様みたいな女にも流す涙があったのね……」

 呆れるように春香はそう吐き捨てた。

 皮肉にも、4ヶ月近く前とは全く形勢が逆転してしまっている。今は苦痛に悶えている東岡を春香が見下ろしていた。

 右手に握られた包丁から、雨の(しずく)と共に東岡と胎児の鮮血が滴り落ちる。

「死に……だぐ…………」

 それが東岡の遺言となった。大きく開かれた瞳から急速に光が失われていく。

「私の仕打ちへの『復讐』? 寝言は寝て言って欲しいよ。『復讐』されるべきは貴様らの方なのに……そうよね、森川?」

 真の復讐鬼の両眼が森川を捕捉する。森川は東岡が刺された時点で腰が抜けていて、臀部(でんぶ)を地面につけながら体をブルブルと震わせていた。

 集団で1人をいじめるような連中など、所詮その程度の精神力の持ち主でしかないのだ。

 東岡と共に入っていた傘も既に森川の手を離れており、強風で何処かに飛ばされていた。

「ひっ……す、鈴蘭……っ!」

 震えているのは声も同じだった。一度はゲームセンターで叩きのめされた相手だ、その反応は当然だった。尿を漏らしたのか、ズボンの股間部分周辺に大きな染みを作っていた。

「た、助けっ……」

 5年前にいじめていた相手に情けなくも許しを乞おうとする森川だったが、

「こんなことになるって分かってたら……初めからこうしてたのに!」

 勢いをつけ、染みの発生源を全力で蹴りつけた。

「ぐっ、うああああぁぁぁぁっ!!」

 森川は聞くに堪えない大声でその痛覚に応えた。春香の爪先が森川の睾丸を破裂させたのだ、無理は無い。

「いっ……ぎぅっ、あ………」

 最早自分の意志で言葉を発することすら不可能だろう。

「森川……貴様の方は生かしといてあげる。だって、貴様には証言台で喋ってもらうっていう仕事が残ってるんだから」

 (くれない)に染まりきった復讐鬼は生殖機能を失った森川の(うずくま)る姿を見下げながらそう言った。


 ――そこまで終わって、初めて私の「復讐」は達成される。



 近くにいた通行人が通報したのか、それから間もなくして春香は殺人等の容疑で現行犯逮捕された。

 特に抵抗はしなかった。『いじめ被害者救済法』は復讐者を完全に無罪にするものではない。



 森川の回復を待って、家庭裁判所で公判が開かれた。

 春香は迷いの無い面持ちで、今回の事件について特に悪いとは思っていないこと、しかしこのようなことを今後は一切しないつもりであることを裁判所側に伝えた。事前に精神鑑定で正常な判断能力があることは立証されている。

「では証人、前へ」

 裁判長がそう言うと、森川が証人台に立った。その顔は春香とは対照的に酷くやつれ、痩せこけているのが一目で分かる。(よわい)17にして禿()げかけている頭から伸びている髪も、長らく洗っていないのか不潔感が漂っている。『いじめ被害者救済法』施行前によくあった凶悪犯罪者はどちらかというと今の森川のようなイメージだろう。

「証人とその恋人だった東岡美弥子はこの5年以内に、被告・鈴蘭春香に対していじめを行なっていた。それに間違いはありませんか?」

「…………はい……4年半程前に小学校を卒業するまで……ずっといじめていました……」

 裁判長の尋問に、森川はそれはもう消え入りそうな弱々しい声で答えた。この言葉とその後の裏付けにより、春香は日本で初めて『いじめ被害者救済法』が適用される人物となった。



 最終的に春香に下された判決は、懲役3年(執行猶予5年)だった。控訴は……されなかった。



 解放された春香は、その夜、テーブルを挟んで両親と向き合っていた。家の外では秋口の心地良さそうな風が吹いている。

「それにしても、春香……まさか昔のことでそこまで思い詰めてたとはな」

 父・和哉が複雑な表情を浮かべる。少なくとも春香の行動を(とが)めようという雰囲気ではなかった。

「ごめんなさい……気付いてあげられなくて、ごめんなさいね」

 母の裕美に至っては涙を流しながら何度も謝っていた。

「…………」

 そんな2人に、春香は特に返す言葉が思いつかなかった。自分がやったことを、想いを、理解してくれればそれで良かった。両親はもう二度と「殺した人間は死を以て償うべき」などとは言わなくなるだろう。



 こうして、春香の「復讐」は終わりを告げた。

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