15.誰かの記憶。
空の天蓋は、どこまでも高く、その先を私たちはまだ知らない。
どこかの帝国の塔で、それを追い求める者たちがいることは知っているけれど、私は彼らに会いにいけない。
私はここから、出ることは叶わない。
広い草原に身を横たえるのは好きだけれど、髪に土は入り込むし服に虫が入るし、見た目ほど良いものじゃないと知っていた。それでも何度も繰り返すのは、大地の鼓動を感じ取れる今の自分を実感したかったからかもしれなかった。
まぁ、今回の場合は、朝露で湿った芝生に滑って転んだのだけれど。
「……盛大にすっ転んだね?」
うるさいわね、と唇を尖らせる。私は何気なく伸ばされてきた男の手を、不審に満ちた目を向けながらもその手を借りて起きあがる。座っていてはお尻も濡れそうだった為、そのまま立ち上がった。
「大丈夫?」
下を向いて服を払っていると、頭上からふってきた涼やかな声に、「別に」と答える。男は無遠慮に私に触れ、上から髪や肩についた草を払っていった。咄嗟に嫌いだ、と思う。
「あなた誰」
男性へ、問いかけた。彼のことが知りたかったわけではなくて、ただ、ここは私の領地で、守らなければ行けない場所で、領民の中に覚えの無い者だったからだ。
前を向いても首も見えない。まったく、でかい男ね。っていうか近いのよ。
一歩下がった。おっと、と男が私に伸ばしかけていた手を引っ込める。
「僕?」
聞き返しておいて、名乗ろうとしない。私が眉をひそめて「なによ」と不機嫌に言えば、彼はますますどうして良いかわからないというような、雰囲気で黙り込む。なによ、と私はもう一度呟いて、腰に手を当て、顔を上げた。
青い瞳が、きょとんと瞬いている。
「名乗ることもできないの? 私はね、見ず知らずの人間の名前を言い当てられるほど、人間ばなれしていないのよ」
自分で言いながらおかしかったけれど、言わずにはいられない。
「ええと、うん。そう、そうだね。普通の人は、そうだね」
こくりこくりと頷く男に、そうよ、と私は頷いて、ふと空を見上げる。
風が、吹いた。
「うわっ」
背後からの風に襲われ、男性が片手で顔をかばう。そして私の方を見た。
「風がくることが、わかったの?」
「そうよ。すこし人間ばなれしているから」
なんでもないことだから、そういう風に返す。そして、男を睨みつけた。
「もう一度聞くけど、あなた、名前は」
困ったように男は笑うだけだった。名乗る気はないのね、と私はさらに目を眇める。
「な、なんて呼びたい?」
「馬鹿を言わないで。今後あなたに用など無いわ」
噛み付くような剣幕でそう返す。参ったな、と男性は瞬いて、立ち上がる私を眺めている。
「ほら、黙っていないで立ちなさい」
「え?」
「その泥だらけの格好、大方森を突っ切ってきたんでしょう。手続きしないと、自警団に見咎められたとき解放されるのに余計な時間がかかるわ。私の名前を使えば問題ないから、さっさと済ませてしまいましょう」
今度は私が、きょとんと瞬く男性の手をとって、歩き出す。
「手続き所につくまでに、適当な名前を考えておくことね」
「……変わってる」
どういうつもりでそんなことを言ったかは知らないけれど、私にとってそれは、褒め言葉だわ。
「……君、いつもこんなことしているのかい」
「どうして?」
「若い娘さんが、見ず知らずの男を信用しては駄目だよ」
本人が言うかしら、そういうこと、と私は思わず吹き出した。
平気よ、と思わず言ってしまう。
「あなた、育ちが良さそうなんですもの」
え、と男が焦ったように自分を見回した。着ている物はなんてことないボロい布の服で、お貴族様が身につける物とは雲泥の差ではあるけれど、内からにじみ出る雰囲気が隠しきれていないのだ。物腰や、眼差し、言葉遣いの端々に、あぁ、この人は高い教養を身につけている、とわかる。
最初は怪しんだのだけれど、話してみると苦笑するしかなかった。
「だから、騙す側ではなくて、騙される側でしょうね。精々気をつけなさい」
そんな、と男は笑う。嬉しそうで、楽しそうで、それでいて、どこか奥底で、泣きそうな顔をしていた。
「あなた、私の召使いになってみる? 行くあてが無いなら、だけれど。お父様もお母様も流行病で死んでしまって、人手が足りないのよ」
「君は……?」
「辺境伯爵。ここ、辺境伯爵領の、女伯爵よ」
先月十六を迎えて、その役目を受け継いだの。
胸を張って、そう答える。
いずれ、正統な後継者が来るとしても。
それまでは、ここの領民を守ろうと決めたのだ。
「無理矢理森を抜けてきたってことは、王都の人間なんでしょう? よく抜けてこれたわよね。中は危険で、入ってはいけないって言われているのに。何日かけたの。ああ、そうじゃなくて、王都の人間で、育ちがよさそうってことは、もしかしてそれなりの家だったんじゃない? 領地運営に関するノウハウを、教えてもらえないかしら」
思いつく端から口にする。男性は目を白黒させていた。
「辺境伯……」
てことは、と彼の顔色がさっと変わる。
「……公爵家と、懇意の」
えぇ? と今度は私が私は瞬いた。
「公爵家って、シュバリエーン公爵? ええ、仲良しよ。私がここにきたばかりの頃から。っていっても、親友が公爵夫人になっちゃって、まぁ、それだけの理由だから、公爵自身とは、そんなに」
「……ごめん、僕、もう行くことにする」
「へ」
「親切にしてくれて、どうもありがとう。何も聞かない君だから、ここにいても良い気がしたけど、やっぱり駄目みたいだ」
「な、なんで」
先ほどの会話を思い返す。なにが、どうして。さっきまであんなにニコニコしていたのに、突然冷たい表情を浮かべて私を見ている。
美しい銀の髪。
その双眸は青く、ああだからだろうか、冷たい表情なのに、こんなにも目を奪われる。
「貴族が、嫌いなの?」
「見つかると、ちょっと厄介なんだ」
「……そんな歳で?」
男性は男性だ。青年ではけしてない。常識も分別もついているだろう年頃で、恐らく、私の数えた年齢の倍近く生きているように思えるのに。
「情けないだろう?」
と、彼は笑う。なんてことない風に、傷ついてもいないし、自嘲している風でもない。
それを選んだのだと、彼は胸を張って立っている。
「どうして」
「ちょっとこの歳で言うには、メルヘン過ぎるだろうけれど。僕の居場所はここじゃない、と知ってしまったから」
後を任せられると確信した途端、気がついたら逃げ出してきてしまったのだと。
「あとをまかせられる、って」
「甥に息子が生まれたからね。しかも双子の男の子だ。後継に困る心配がなくなった。僕じゃなくても大丈夫。そう思った瞬間、気がついたら森に入っていたんだ」
それじゃあね、と彼は優しげな笑顔を浮かべて、わたしに背向けて。
去っていく彼の後ろ姿を、呼び止めることもせず、私は見送った。
変な人ねと、思いながら。
こんな些細な出会いは、いつか、忘れてしまうだろうと思いながら。
なのに。
「ねえ伯爵!」
あの変な男から出会って三日後、領地を散策しようと屋敷から出ると、男は再び私の前に姿を現した。
「何も聞かずに、僕と逃げてくれないかな」
困ったように笑いながら、私の答えを聞くこともなく。
彼は私の手を取って走り出したのだった。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
握られた手は思いのほか力強くて、振りほどけなくて。
だから私は、声を張り上げた。
「あんたはいったいなんなのよ!」
「僕は」
私の問いかけの何がおかしいのか、そうだねぇと、男は走りながら、たいそう嬉しそうに答えた。
「僕はエリ! そう呼んで!」
ずいぶん可愛らしい名前ねと毒づく、毒づいている場合じゃないのだけれど。私はいったいどこへ連れて行かれるというのか!
「ねえ伯爵、ちょっと僕のせいで君に迷惑がかかりそうなんだよ」
そんなことは何でも良いわ。走りながら相槌なんて打てない。落ち着ける場所を見つけたら詳しい話は聞くわ。
だけどね、そんなことより。
「私の名前はプリマヴェル・エラルベールよ! 伯爵、だなんて呼ばないでくれる?」
いつか、誰か。
もしかして、自分の子どもに語る日がくるだろうか。
私たちは、こうして出会ってしまったのだ、と。
何一つ、後悔など、していないのだと。
読んでいただきありがとうございました!