6.必要だった正しい言葉
どうしてこんなにも、心を砕いてくれるのと。
聞いたところで、きっと笑ってかわすのでしょう。なんてことない、当たり前のことをしただけですよ、と。
優しい手つきで、わたしの髪に触って。
泳ぐことが困難なこの世界での、息の仕方を、どうか。
差し出される手が、悩まなくても良いのだと告げている。
優しさだけに、満たされていても良いのだと。
あぁ、けれど、わたし、それなら。
それならわたし、屋敷にずっと、いればよかったのよ。
エリザベートが、わたしの手を握ってくれている。この人は、いつだって優しくて。わたしが傷つき果てる前にかばってくれる。
いまだって、陛下の前から連れ出そうとしてくれている、陛下に、聞いて。
気づいた瞬間、寒気が走った。だめだ、と咄嗟に思う。嫌だ、と。ここで陛下の口からエリザベートと去っても構わないと言われてしまうのは、嫌だと。
「リゼッ、待って、陛下、あの」
口走ってから、言葉が止まる。何を聞けば良い。何を聞いても、拒絶されることを考えると問いかけが生まれない。頭が真っ白になって、どうしていいかわからない。
あぁ、と、思う。真っ白になった頭の中で、たった一つ残ったもの。問いかけではなくて、ただの願い。いきなりここで生まれたものではなくて、ずっと、ずっと、考えていたこと。自分の中で、終わるのではなくて、陛下へ向けて、はじめて果たされること。
『……その、恐れ多くて』
『あの人の横に立つ気が、本当にあるの?』
『……今度』
聞いて、みます。
あの時確かにそう言ったのに、あれからもう何日経っているだろう。そんなことよりも、今更こんなこと言って、なんになるのか。それでも、だって他に何も浮かばない。握られた手に、力が込められた。
わたしは、そっと息を吸った。
「陛下、わたし、あなたを」
顔が、熱い。目も、耳も。
たまらなくなって、エリザベートの手を振りほどいて、両手で顔を覆った。
「あなたを、エヴァンシーク様、と。呼びたくて」
あぁ、呆れられるだろう、と思った。けれど、答えが聞きたくなかった。だから、こんな風に話を逸らして、先送りにして。
逃げ出したくて、隠れたくて顔を覆ったのに、すぐにエリザベートの手を握りたくて、顔を手から上げれば菫色が驚きをあらわにわたしを見ていた。手が、伸ばせないまま宙に浮く。
エリザベートは、優しい目をしていて。
手を握ってくれたのは、陛下だった。
「なぜ、そんなことを聞く」
まっすぐに聞き返され、わたしは思わず「ごめんなさい」としか言えなかった。なのに、違う、というかのように握る手に力を込められる。わからなくて、陛下を見た。怖いのに、そらせない。問いかけの意味を、考える。思考を止めることを、許さないといわれているような気分で。
「どうして、聞くか、ですか」
そうだ、と陛下の目が言った。なんで……なんで?
首を傾げながら、陛下を見つめる。どうして、と思いながら、促されるようにして、口を開いた。
「呼びたいと、思っていたから」
「なぜ、俺に今聞いた」
「……呼んではいけないと、思ったから」
「なぜ」
問われて、答えに行きついて、泣きたくなる。逃げたくなる。なのに、手は握られていて、逃れられない。
「……正妃様が、いるって、知って、だから、いけない、と」
「違う」
「ち、ちがわないです!」
今なんで違うといわれたのかがわからない。ぶんぶんと首を横に振った。
「だから、違う。ルチエラが、勝手に言っているだけだ」
う、ううう。
「嘘ですー!」
「何故今日会ったばかりのルチエラを信じる」
陛下の声が途方に暮れていた。でも、だって。思わずエリザベートを見てしまう。けれど、続き続き、と笑顔で急かすだけだ。この場で助けてくれる気はないらしい。あっさりとわたしから目をそらして、わざとらしく何かに気を取られたような顔をして。
もしか、して。
「……わたし、あなたに言わされたの」
この場から連れ出す気など、この人はなかったのだ。わたしが困惑して、慌てて、そのまま喋り出すのを見越して。
「姫」
思案に深けようと思っていたのに、呼びかけられて中断される。あぁもうと、陛下を振り向いた。
「名前です」
言いながら情けなくなる。こんなに情けない気分になるものだと知った。たかが名前に、ここまで過敏な反応をして、それを指摘されるととたんに情けなくなる。
大したことではないじゃないかと、思い直して今までの自分をなかったことにしたくなる。
「わ、わたしより、特別な方なのでは、と」
「違う」
「何がですか」
そんなことでか、と陛下はなにごとか呻きながら額に手を当てていた。そんなことでこんなにもこじれたのか、と何か内に溜めているものをなだめていらっしゃる。
「ルチエラは従妹だ」
へ、とわたしが言葉を返す暇は、なかった。
「良いではないですか! 別に! 何一つ問題ありませんわ!」
いつの間にか、階段の方にはルチエラが立っていた。階段ののぼり途中で頭しか見えていない騎士が、どーも、と頭を下げる。陛下は立ち上がり、わたしを背にしてルチエラに向き直った。
そんな陛下に、ルチエラが詰め寄っていく。
「フィルポリア王国と、ヴェニエール帝国! 申し分ないではないですか。お似合いのお国柄でしょう。古王国と名高いフィルポリア王国のあたくしに相応しいのは、ヴェニエール帝国皇帝のお兄様しかいないのです! 不利益もお互い無いでしょう! 良いことばっかりですもの!」
ふさわ、しい。
強く心が痛んだ。違う。そんなのは駄目だと思う。なのに言えない。なんて言ったら良いの。この言葉をそのまま口にしても良いの。
「わたしが」
考える間もなく口を開いていた。さきほどのルチエラの言葉が、どこか許しがたく感じて。
黙って、いられなくて。
「わたしが、エヴァンシーク様の、花嫁、です」
「それがなに」
間髪入れぬ答えだった。ルチエラは怯まない。それどころか、わたしの方へと一歩進みでてきた。つん、と黄金の瞳を冷たくして、
「春が呼べたからって何よ。あんたなんか、神聖王国とはいえたかが公爵家じゃない。しかも養子でしょ。もともと伯爵家だったんでしょ」
知っているわ! と、なじるルチエラの方がなんだか辛そうな顔で、わたしはルチエラのその表情ばかりが気になって、吐き捨てられる言葉に傷つくどころではない。
「伯爵家の母親だって、他所からきたって話じゃない。父親だって、流れ者でしょう!」
行方不明の王太子と、春が呼べた王家と血の繋がりが無いはずのわたしを結びつけられなければ、自然とそう言った答えになるのはわかっていた。けれど、ルチエラは。
「どうして、あんたに春が呼べちゃうのよ……」
なんだかおろおろとかける言葉を探してしまう。さんざん暴言を吐かれはしたし、ええと、陛下の正妃様じゃなかったってことですか、結局? っていう、混乱の中、そんなわたしに気がついたんだろうか、ルチエラはきっとわたしを睨み上げた。
「ハプリシアだったらあきらめもついたのよ! あたくし、やっぱりいやですわ! 皇帝陛下! あたくしを皇妃にしてくださいませ! こんな小娘、側室で十分でしょう!」
「へ」
「いやです、と言ったのです! 陛下はあたくしのものです! あたくしにこそ、ヴェニエール皇帝妃は相応しいんですわ!」
「ルチエラ」
深みのある、落ち着いた声にわたしもルチエラも息をのむ。
「その話は、国王とも、もう話して、終わったことで」
「いやです!」
泣きそうな叫びだった。こつり、こつり、と陛下に詰めよって、また抱きつくと思ったけれど、触れそうになってとどまって、きゅ、とルチエラは陛下を見上げる。
ずっと、ずっと、とルチエラは唇を噛み締める。傷がつく、と咄嗟に思った。
「ずっと、ハプリシアさえいなければ、ヴェニエール皇妃になれるのにって。ずっと、なのに、実際はハプリシアではなくて、こんな!」
こんなっ。
フィルポリア王女がヴェニエール帝国に嫁げば。国民は、なんて、嬉しいことだろう。誇らしいことだろう、って。
「ルチエラ」
揺るがない、陛下の声に、目の色に、ルチエラの表情が泣きそうになる。それでも、彼女は涙を見せること無く、身を翻して階段を下りていった。
だまってそれを眺めていた騎士は、わたし達に向き直る。
「いつもすんません」
「いや……苦労をかける」
二人のやり取りから、ままあることなのかと察する。
たびたび、相応しいから、と。ルチエラは陛下に詰め寄っていたのだろうか。
「いやいや」
陛下の言葉に、騎士は笑った。
「あれで、十分可愛らしいんすよ」
わたしも陛下も、騎士の言葉に目を丸くする。それじゃ、と騎士はひどく優しい目をして、ルチエラの後を追うため去って行った。
去った騎士を見送って、陛下とわたしは顔を見合わせた。
「なん」
「あれだ」
「何がですっ」
なんだったんですかね、と聞こうとしたのに、よくわからない言葉に遮られて、話すきっかけを失ってしまった。
あれって、何のことだろう。どれのこと? ルチエラの騎士のことだろうか。優しい目。優しい声。あの騎士は、ルチエラに全てを捧げているのだろうか。
ヘイリオがわたしに捧げてくれているように?
いいえ、違う。
咄嗟に思った。
あの人の、あの目は。
どちらかといえば、エリザベートの……。
「だから」
思考は、陛下の強い語調で断ち切られた。
気がつけば、また陛下がわたしの前に膝をついて、わたしを見上げていた。両手もわたしの両脇についていて、逃げようが無い。
「姫は、俺を名前で呼ぶのに、わざわざ聞く必要は、無い」
瞬く。
逃げられない、と思った直後、出し抜けに言われたような、なにが、と思わず返しそうになる。
陛下の目を見て真意を伺いたいと思ったのに、陛下はこちらを見ていない。一瞬前はこっちを見ていたと思ったのに、わたしが陛下の方を見ると、陛下はわたしを見てなかった。
首を傾げて、陛下の言葉の意味を間違えないように、反芻する。
「……エヴァン、シークさま……?」
そうだ、と陛下は言う。
「姫が、俺の皇妃だ。ただ一人。他を取る気はない」
真剣な顔で、そう言われたのに。
なぜだろう。わたしは、首を振りたかった。いいえ、そう思った時は既に、首を振っていた。なぜ、とこちらを見た陛下の顔が辛そうに歪む。そんな顔をさせたくないと思っていたのに。
でも。わたしにはくすぶり続ける、ものがあって。
それなら、どうして、皇妃として政務に携わらせてくれなかったのか、とか。そもそも婚約の儀の時、陛下は誓ってくださらなかったじゃないですか、とか。
いわなきゃ、駄目なのに。
伝えなければ、陛下を困らせるだけ、で。
「皇妃としての、お仕事は、なぜ」
最低限の言葉だけでも、陛下は、前にも言った、とそれだけしか返さない。
思わず身を乗り出して、陛下に詰め寄った。
「納得いきません!」
「姫からは、春を貰っている」
それは前にも聞きました、と呟けば、だから言っただろう、と返される。
「春を貰い、居場所も縛り付けて、これ以上、あなたからは何も貰うことはできない」
またこの堂々巡り! いい加減に腹が立ってきた。腹が立っているのだと、陛下に言っても良いのだろうか。勝手なのだ、違う、わたしは、ここに縛り付けられていることで、何も悲しくない。辛くなんか無い。嫌なことなんて無い。陛下の考えてることは、わたしの思っていることではない。
勝手に、決めつけられている。
「では、陛下のために何かしたいわたしは、どうしたら良いのです」
あなたのために、ここにいると、知ってもらうには。
読んでいただきありがとうございました!
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雑記
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