9.あたたかな手
「ウィリアローナ姫様……?」
目覚めたと同時に寝室の扉の外から聞こえてきたのは、ひどく控えめな、ミーリエルの声だった。
窓から注がれる眩しい光に目を細め、寝返りを打つ。ゆっくりと大きく呼吸をして、手をつきつつ身体を起こした。
寝台の上に座り込みつつ、意識を覚醒させる。
……、今の、季節。
ふと、昨日の皇帝陛下の言葉を思い出した。なんで、あんなこと聞いたのだろう。ぺたりと、床に足を着く。じんじんと痛む足をかばいつつ、壁伝いに窓辺に寄った。冷たい硝子をこすりながら、その場に座り込む。
目に映る景色に、何を思えば良いか分からない。
広がる庭園。それから、空。
それだけだ。
図書室の階段で身を翻した時捻った足は、あれから城の医師に診てもらった。わたしは別にかまわないと言ったのに、皇帝陛下がそれを無視してよこしたのだという。
診断の結果は骨にも靭帯にも異常はなく、安静にしていれば数日で腫れもひくという。包帯を巻いただけで歩けるようになったため、ひどく驚いた。調子に乗ってうろうろすれば、医師が苦笑とともに悪化しますよと助言をくれた。
笑顔が怖かったなんて、そんな経験は初めて……、いや、リンクィン殿下の得意技だった。それから、姉の。
医師とともにあの優男がやってきて、なんだか妙な顔でミーリエルと話していた。ミーリエルが笑顔で答えていたのは覚えている。
そういえば、ミーリエルはいつも笑顔だ。ふわふわの栗毛を揺らして、たまにわたしに触れるが、その仕草もひどく優しい。
優しい人は、好き。
ほっこりとした気持ちでいると、次第に口元に笑みが浮かんだ。
皇帝陛下はあれから、わたしを抱き上げたまま、部屋まで送ってくださった。突然の帰還にミーリエルは驚き、皇帝陛下と知るともっと驚き、それでも笑顔を返していた。すごいと思う。わたしだったらいきなり偉い方がハプリシア様を抱えてやってきたらパニックに陥る自信がある。
幸いそういった事態は今までなかったけれど。もしハプリシア様の元に戻れたとしたら、そういう事態も想定しておかないと。
皇帝陛下は、なんだか苦手だ。
できれば、同じ空間にいたくない。
向こうも同様にわたしのことを良く思っていないだろう。でなければ、「笑うな」なんて言ったりするはずがない。
すぐに冗談です、なんて言わなければ良かった。もしかしたら、これ幸いと陛下も突き返す準備をしてくれるかと思ったのに。
わたしはいつも、選択を間違う。
「ウィリアローナ姫様」
困り果てたミーリエルの声が聞こえて、はっとした。入室を許可すると、間髪入れずにミーーリエルが寝室へ飛び込んでくる。窓際にいるわたしを見つけると、すぐさま駆け寄ってきた。
「あ、足が痛むのですか!?」
心配そうな顔でぺたりと座り、わたしと目線を会わせてくる。びっくりして瞬くと、ほっと彼女は息を吐いた。
「無理、なさらないでくださいね」
そう笑顔を向けられ、こてんと首を傾げる。何も言っていないのに、なんで平気だというのが分かったのだろう。なんともないと、言おうと思ったのに。
くすくすと、ミーリエルは笑った。
「ウィリアローナ姫様は、分かりやすいですよ」
その言葉に、また瞬いた。お前は何を考えているの分かりにくいと下の兄になじられたことがあるためだ。姉がすぐにかばってくださったが。
次の日花を贈られたが、今思えば、あれは謝罪の花だったのだろうか。
『あれはねウィリア、照れ隠しって言うのよ』
うぷぷと姉が笑っていた。心の底から笑い転げたいのを我慢する笑い方だった。
実際、そのあと盛大に笑い転げたのだったが。
はたと、我に返る。ミーリエルと目を合わせると、彼女はにっこりと翡翠の瞳を細めた。
「朝食にしましょう、姫様」
わかったと、わたしはうなずいた。手を差し出されたため、その手を取って、立ち上がる。
優しい手。暖かい手。まるで母様のような。
ぽわんと揺れる栗毛を眺めながら、わたしはミーリエルの手を借りて着替えをすませ、朝食の席についた。
つい、て、食器に手を伸ばした。
のばそうと、した。
それは、ノックもなく前触れもなく訪れた、皇帝陛下によって阻まれたのであったが。
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