4.逃走。その上での、逡巡。
義務であってほしくないと思ったのだ。
そんな気持ちを、義務で失ってしまうのはおかしいと。
あのとき語られた夢のような理想は、あの人自身を変え、語られた夢も形を変えて叶えられた。
あまりの変わりように、今では魔女と罵るが。
あの人は、幸せだと言った。
かつて幸せになるためにと、まわりの多くから望まれているものを、自分で選んで望んだ。まわりから押し付けられているしか思えないものを、あの人は自分で望んだのだと高らかに言い放つ。
あの人は語った、望みを勝ち取るために、今ここにいるのだと。誰かのせいでも、誰かのためでもなく、正しく自分自身のために。
そして、望んでいたものも望まれていたことも全てふいにして、真に手にしたい者を勝ち取った。
そうして、幸せだと、あの頃の面影をわずかに残して、生まれ変わったかのような表情で、あの人は微笑んだのだ。
「何をするのです皇帝陛下!」
んもう! と憤慨しながら、ルチエラが立ち上がり、陛下に抱きつく。頬を寄せ、陛下の背中に手を回し、甘い声で陛下をうっとりと見上げた。
「ちっとも会いにきてくれないんですもの。こちらからきてしまいました」
わたしは、その場から動けない。ルチエラがきていると聞いて、慌ててきたのだろうか。陛下はよれていた上着を直し、ルチエラの肩に手を添える。
そして彼女を、勢いよく引きはがした。
「何度も言っているが、私は」
「ああ待ってください。積もる話もありましょう、ですがその前に、新しくきたという側室様に会わせてくださいな」
「そく……? いや、ルチエラ、聞け」
ルチエラ。
痛んだ胸に、息をのむ。なんで。違う。冷静に、なら、ない、と。
美しい至高の菫が、こちらを振り向いた。
わたしと目が合った瞬間、陛下はわたしの方へとやってくる。思わず身体がすくむ。陛下を見上げるわたしは、どんな顔をしているのだろう。
真剣な表情の陛下が、わたしへと身を屈める。瞬きしたときには、陛下に抱き上げられていた。相変わらず身をすくませる暇も、逃げる暇もない。
わたしとルチエラが呆然としている中、陛下は彼女に何一つ告げること無く、部屋から出て行った。
ずいぶん急いでいるような足取りで、廊下を突き進んでいく。
「……苦手だ、あいつは」
聞こえたのは、陛下の忌々しげな声だった。
「逃げたわね」
っち、とルチエラが呟いた。後ろの騎士が「よーやるわぁ、ほんとに」とぼやく。うるさいわね! と乱暴な仕草でルチエラは突っかかった。
その光景を、ぽかんとヘイリオは見ている。ヘイリオに対しては取り繕う必要がないと思っているようで、まぁ、たしかにヘイリオの年齢で護衛官をやっているとは思えないのだろう。
さて、さっきのがウィリアローナ姫様本人だと、いつ言うべきか。
口喧嘩を繰り広げている騎士と姫君を眺めながら、ヘイリオは思案にふけた。
まっすぐに行く先を見つめているその顔を、わたしはわけもわからず見上げる。近い、あたたかい、なのに、寒い。ふと、陛下が立ち止まった。
「そんな顔をするな」
わたしの方を見ていないのに、陛下はわたしに囁いた。
「たのむから」
そのささやきは優しくて。なのに、心が冷たい。痛い。
あぁ、こんなこと、望める立場ではないのに。わたし、わたしは、陛下に。
あの人の名を呼んだ陛下に、触れてほしくない、だ、なんて。
違う。求めてない。望んでない。わたしは、陛下のために。自分のためじゃなくて、陛下が、あの瞳をすることがなくなるよう、側に、いれればそれで。
だから、今のは違う。全部嘘だ。冷たくない。痛くない。陛下の優しさなんて必要じゃない。あってもなくても、陛下の側で陛下を支えたいと思うわたしは変わらない。
横抱きの状態から、背中に添えられていただけの陛下の右手が、わたしの首元にあてがわれる。そこに力が込められたと思えば、陛下に抱きしめられていた。強く、強く。
ぐるりぐるりと巡っていた思考がほどける。何も考えられなくて、ただ、そのあたたかさに、まるで本能のように身を寄せた。
「あいつのことは落ち着いた場所を見つけたらちゃんと話す。とりあえず」
俺たちの部屋はすぐに見つかるか、と陛下は眉を寄せた。なら、と再び彼は歩き出す。どこへ、とは聞かなかった。陛下が話すと言ったことが、最後通告のようなものだったらどうしようという不安が過る。けれど逃げようが無い。この手から逃げようだなんて、そんなことは思えない。
感じる寒さから逃れたくて、陛下に強くしがみついた。
だから、と陛下が行く先をじっと見つめながら、呟く。
「そんなかおを、するな」
扉が、開かれる音がする。本の匂いに、閉架図書室だと、すぐにわかった。
陛下は階段を上って。
長椅子の上に、わたしをそっと、おろした。陛下自身は床に膝をついて、わたしの両脇に手を置いて、下からじっとのぞいてくる。
顔を上げるまでもなく、すこし視線を動かして、陛下の顔を見ようと思ったのに。
視線が、上げられない。
膝の上から、はがれない。
「わたしは」
か細い声しか、口にできなかった。
「わたしは陛下の、花嫁で」
膝の上で、力を込めることもできない指先をじっと見つめて。
「それだけ、で」
「……最近、オルウィスからまわされる書類の中に、あまり見ないまとめ方をする書類が現れた」
唐突な切り出しに、咄嗟に反応できなかった。
「あれは、あなただな」
陛下には内緒で手伝っている、オルウィス様の書類。塔に攫われて以来、がくんと量は減ったものの、きたる二度目の春に備えた新事業やこれまでの拡大についての書類は、日ごとに量を増していく。
なぜ。
ばれてしまったのは、どうして。
目を見開いて、視線が揺れて、陛下を見る。捕らえたと思ったら、捕らえられていた。
「やはりあなたか」
かまをかけられて。引っかかってしまったことに気がついた。あっ、と息をのむわたしに、陛下は何故、と囁く。
「そんなことをする必要は、無いと言った」
できることを、見つけたと思ったの。
高いところで、孤独に旗を掲げるあなたのために、できることを。
「ひつよう、なかった、ですか」
皇妃として、するべき義務だと思った。
けれど、本当にそんな必要は無かったのだ。もう、陛下には正妃様がいらっしゃった。
皇妃などにはなりえないわたしが、「エヴァンシーク様」などと、軽々しく呼んではいけなかったのだ。
暗く沈んでいく美しい瞳に、焦りが湧きあがる。違う、何故だ、と悪態をついた。
「ウィリアローナ」
呼び戻すために呼んだのに、姫君の瞳はより暗く濁っていく。何故だ、と再び悪態をつく。
「ウィリア」
軽やかな声が、響いた。
読んでいただきありがとうございます!
毎日毎日時間もバラバラで更新してますが、果たしてどれだけの読者さんがついてこれていらっしゃるのかと思いつつ。
とりあえず、できなくなるまで続けます。
返信不要とありましたが、拍手ありがとうございました!
そう言えば恋愛遊牧民さんに登録させていただきました。よろしくお願いします。こちらからも沢山の方がきてくださっているようで、ありがとうございます!
雑記
やっぱりというかなんというか、ウィリアが暴走しています。陛下も相変わらずでした。会話、会話しましょう。君たち。
そして、それどころではなくなる次々回。お楽しみに、です。
ところで皇妃と正妃って同じ意味なんですけど、感覚で使い分けてます。混乱させてしまっていたらすみません。
陛下の奥さんは、皇妃。
正妻は正妃で、愛人・妾が、側室。(細かいこと言えば、側室使うなら正室使うほうが良いのかも)
正妃は皇妃であって、側室は皇妃ではない。皇帝に並ぶのは皇后だけど、帝国の皇后は権限を制限されるので、皇妃、と呼ばれる場合が多い。過去、有能な女性を側に置いた皇帝は、彼女に皇后の称号を与えたとか。(っていうのがうちでの解釈ということで)