2.これがあなたの孤独というなら
正直に言えば既に持て余している感情をどうして良いかがわからない。いつか聞かされた幻想が、本当にこの身に降り掛かるだなんて思っても見なかった。
ただ、理解する。
これが、それなのだと。
しかし。
さすがに。
ぐったりと長椅子の上で背もたれに突っ伏しているわたしを、昼から一部始終見ていたミーリエルが大丈夫ですか? と笑っている。その顔は苦笑しているのか困惑しているのか微笑ましそうに見ているのか、ミーリエルの方を振り向けないわたしにはわからない。
ただ、疑問を口にする。
「今日の、あれはいったい何」
むしろ、誰だ。
「え〜、と、陛下どうしちゃったんですしょうねぇー」
意味が分からない。なんであんな風に触れられないといけないのだ。あんな、あんなっ。
「婚約者だから。……って理由じゃ駄目なんですか」
口から疑問が漏れていたらしい。だからって! とわたしはますます背もたれに突っ伏する。
「最近そういう関係になったわけじゃないじゃない!」
婚約の儀を上げたのは半年以上も前なのだ。何を突然あんな風に手のひらを返したようになんで!
「突然何故、といえば、姫様」
ミーリエルのその切り出しは、本当に素朴な疑問を口にしているだけのように思えた。
「なんで、頑張って無理矢理言いましたってわかるくらい、陛下のこと、お名前で一生懸命になってお呼びになったのです?」
その疑問を振られた瞬間、わたしのせいかー! と頭を抱えた。
(いや、いやいや。……だからといってなんであんな)
顔から火が出るかと思った、のは、一度や二度ではなかった。なぜ。
「なんで、名前なんて、いきなり」
思いつきのように、呼ばれたかと思えばまた戻る。気まぐれで呼んだのだと、思い知らされる。
何よりも、ただ呼ばれるだけであんなに嬉しいとは思わなかった。というより、呼ばれないことにどうして何も思わなかったのかさえ、今では。
ぶんぶんと頭を振った。違う、違う! と内心で叫ぶ。ミーリエルが小声で「何が違うんですかー」と囁いているが気にしない! 内心で、叫ぶ!
はた、と突然頭が冷やされる。
じゃぁ、どうして今の今まで、陛下は、わたしを「姫」としか呼ばなかったのだろう。
最初の頃、何度か名前を呼ばれたような気がする。気にならなかった理由はこのあたりが原因かもしれない。いつの頃からか、あのお方はわたしを姫、としか呼ばなくなった。
まぁ、わたしもわたしで陛下を陛下としか呼んでいなかったのだから、その辺りをとやかくいっても仕方が無いのだけれど。
わたしが顔を伏せられないようにあごに手を添えられた手の体温を感じながら、わたしはぐるぐると回る視界で陛下を見つめ返す。あまりにもまっすぐな目に、目眩がしながら。
「り、リゼット、については、ですね。ええと、じじょ、侍女は、そう、リゼット自身がわたしから距離を置きたいと言ってやめたのですから、わたしにはなんとか言う筋合いなど無くてですね、それ、それで、侍女でないリゼットは、いったいどういう立場でわたしの側に戻るかがいまいちわからなくて、ええと、そう、わたしが嬉しいかどうかというのは城内の人事においてあまり関係がないのではないかと。ひ、必要なことは必要で、でも、そこにわたしの感情を交えるのはよくないんじゃないかと思います」
パニックになりながらもそこまで口が回った自分を誉めたかった。
陛下のことさら低い調子の声が響いた。
「……つまり?」
「へ、へい、陛下の、良いように」
「私はあまりあれをあなたの側に置きたくない」
即答の上に一息で言い切られてしまった。しかも、ちょっと意味がよく分からない。なぜ。
「……何故です?」
リゼットはあんなにも、優しいのに。そう聞いたのに、陛下は何も言わなかった。わたしの頭を突然撫でながら立ち上がって、そのまま出て行ってしまわれたのだ。
「……陛下ってリゼットのこと嫌いなのかしら」
「まっさかぁ……」
砕けた口調での答えに、ウィリアローナは振り返る。テーブルの上を片付けていたミーリエルは、あ、と口元を手で隠していた。
「すみません、姫様。口が滑りました」
「別に……。ちょっと驚いたけど」
けれど何をそこまで、断言できたのだろう。根拠があるなら聞きたかった。じっとわたしが見つめていることに気づいたのか、ミーリエルは「あー」と声を上げる。
「姫様って、リゼット好きですよね?」
嫌いなわけが無かったから、それはもう、とおとなしく頷く。だからですよ、とあっさりとミーリエルは言った。
それでは答えになっていない、とミーリエルをじっと見ていれば、ほら、姫様、と声をかけられる。
「そろそろオルウィス様の執務室に行くお時間ですよ」
わあ本当、と慌ててわたしは仕度をはじめた。
綺麗に片付けを済まして、食器を厨房に運ぶための車輪つきの台を押し始める。先ほど見ていた光景を思い出して、がっしゃーんと盛大に壊したくなる衝動に駆られた。
ミーリエルは、深い、息を吐く。
(あのお二人、それぞれ何をどうしたいのかちゃんと話し合ってくれませんかね……)
こっちの手が滑る。手というか、口というか。下手に手出しをしたくないのに、うっかり言葉を選び間違えると取り返しのつかないことになりかねない。
いやもう、このさい無理矢理進めても良い気がしますけども!
(姫様が……選ばれているという自覚があれば、良いのですが)
そのためには陛下にどうにかわかりやすい言動を取ってもらうしか無い気がする。けれどしかし陛下は陛下でそれでもだいぶわかりやすい言動を取ってくださっている気もする。
最近聞かされるオルウィス様の愚痴の根源がわかった気がした。あの人はよく、通りすがりを捕まえて愚痴り出すのだ。それを自分の目当ての侍女が口説かれていると勘違いした騎士と刃傷沙汰とか勘弁してくださいよ今月何回目ですか騎士の方々も学んでくださいって話がずれました。ウィリアローナがオルウィス様の執務室に行くと、ウィリアローナが帰った後でエヴァンシークがくるらしい。特に何か聞かれるわけではなく、考え込むようにじっとオルウィスを見つめて、書類をもって帰っていく。
(マナー講座だからって、わざわざオルウィス様の執務室でやらなくても、って、確かに思いますけど)
姫様の部屋でできないんですか、とミーリエルだって聞いたことがある。しかし、オルウィスは笑って俺も忙しいからねぇとひらりとかわされてしまうのだった。
それから。
「リゼットが、本当にここへ帰ってくるのかしら」
ぽつりと呟く。また、一緒に働ける? たまに休憩をいただいた夕刻見かけると捕まえて食事に行ったりするけれど、でも侍女でないならいったい。
少し考えて、あとで行く先を決める。よし、と一つ決めて、目の前の仕事に集中した。
ため息が聞こえて、びくりと背筋を伸ばす。おそるおそる顔を上げれば、ひどく冷たい顔のオルウィスがいた。
「……えっと」
「やる気ありますか」
意外にも、先生役のオルウィスは厳しい。書類をこなす場合はその限りではないが、マナー講座に関して言えば逃げ出したくなるほど厳しい。
書類をやっつけながら、姿勢が悪くなるとオルウィスが一言。食事のマナーはともかく、立ち居振る舞いについてや受け答えについても、忘れた頃に問いかけられる。
その問いかけに、わたしはうっかり答えられなかったのだ。
「なに考え込んでんです?」
どいつもこいつも、とどこかオルウィスが苛立っているのが見て取れた。どうしたんだろう、と首を傾げれば、なんだかきつく睨まれる。けれど、それはすぐに解かれた。
「すみません。失礼しました」
いえ、とわたしは小さく返し、考えていたことに、思いを巡らせる。
「……さっき、陛下がちょっと変で」
「あんなことがあって、初めてのお茶会でしょう。あなたの無事を噛み締めてるだけです」
わたしの無事を、と瞬けば、あなたの無事を、と頷かれる。
「陛下は、あなたが思っている以上に、花嫁を大切に思っていますよ」
それは、オルウィスなりの励ましだったのだろう。けれど、わたしは、そうですか、と返す言葉がしぼんだ。
「陛下は、花嫁を、大切に思っている」
傷つく、前に、違う。と拳を握った。
わたしは花嫁ではなく、ウィリアローナ。
陛下だって、陛下ではなく、エヴァンシーク様。
これが、陛下の孤独なのだと気づいたのだ。
陛下、と呼んでは駄目だと強く再認識する。心の中で、エヴァンシーク様、と唱える。何度も、何度も。
心の中で唱えるだけなら、こんなにも簡単に呟けるのに。
先ほど触れられた頬が熱い。あのとき、わたしも真っ白になった頭で、それでも陛下の……エヴァンシーク様の驚いた顔をしっかり見ていた。思い出して、泣きたくなる。
名前を呼んで、あんな顔をされるなんて思いもしなかった。
わたしは何気なく呼ばれたとき、恥ずかしいのか嬉しいのか困ったのかよくわからない、全部が一緒くたになった気持ちだったのに。
「お願いですからそんな顔で私の執務室から出て、誰かとはち会わせたりしないでくださいね」
突然オルウィスにそんなことを言われ、訳が分からず顔を上げる。目が合うと、ああもうと呻かれた。出た瞬間あの騎士に斬られる! だとか、なんとか。
ここに来るようになって、エリザベートの名前をよく聞くようになった。
どこからともなく、侍従の彼がもってくるのだ。エリザベートからの書類を、沢山。オルウィスはそれらをわたしに見せること無く、真っ先に処理していく。
陛下の片腕が誰なのか、ここにくるようになって、わたしは理解した。
リゼットを好きだと思う気持ち。
陛下の力になりたいという、気持ち。
リゼットが、陛下の役に立っていると言う、事実。
それがこんなにも。
……こんなにも。
求めないと、言ったのに。
よんでいただきありがとうございました!