1.無自覚の期待と、そして自覚。
今までこの人が、どんな感情を向けられてきたのか、わたしは知らない。
伸ばされた手を拒むこと無く受け入れることが、この人の救いになればと祈っている。
窓の外とは対照的に、室内は暖炉の火によって暖かく照らされていた。エヴァンシークは隣に座りお茶を飲むウィリアローナをじっと見つつ、焼き菓子を一つ口へ運ぶ。
そう、隣だ。
恒例化したウィリアローナとのお茶にきたとき、長椅子に座って編み物をしている彼女の姿に、何も考えずに隣に座ってしまったのだった。
ウィリアローナも最初は戸惑った様子で手元とエヴァンシークを交互に見ていたが、やがて一人で首を傾げて頷き、立ち上がって編んでいる途中のレースを片付けにいった。そうして、また少し考えこみながらもエヴァンシークの隣へ戻り、ミーリエルにお茶の用意を頼んだのだった。
「えと」
ウィリアローナが口を開くと、エヴァンシークは「なんだ」と短く返し、ウィリアローナへに視線を合わせる。目が合うと、あわあわとウィリアローナは手の中のカップを取り落としそうになり、なんとか受け止めほっと息を吐いた。
切り出してきたのはウィリアローナの方なのに、彼女は何も言わない。ええと、と呟いたきり、ぼーっと手元のカップを見下ろしている。
「へ、へい」
勢い良く隣のエヴァンシークを見上げたかと思えば、表情を固まらせて止まってしまった。呼ばれるような気がしたのに、どうしたのだ、とエヴァンシークはじっとウィリアローナを見下ろす。
「姫?」
「へ、陛下、は、甘いもの、平気なんですね」
「……? まぁ」
お茶をするにあたって用意してあった菓子をつまんでいたからだろうか。ウィリアローナの中で男性は甘いものが苦手なイメージなのかもしれない。
そんなことよりも。
エ、ヴァンシー、く様
塔で見つけ出したときの、泣きそうな顔をしたウィリアローナを思い出す。何故今思い浮かんだのかとエヴァンシークは頭を振った。脈絡が無い。
ただ、一度思考を過ると、陛下、陛下、とずっと呼んできていたウィリアローナがあのとき突然名前で呼びかけてきたことに、誰の差し金かと考える。
(まぁ、あの魔女以外に考えられないが)
そう言えばあの時、わけもわからずウィリアローナを呼び捨ててしまった気がした。
「姫」
「はいっ」
過剰に慌てるウィリアローナに、首を傾げながらも居ずまいを正す。
「……ウィリアローナ」
囁いた途端何を思うよりも先に、ぶわり、と、ウィリアローナの様子が激変した。
というか、盛大に距離を置かれ長椅子の端に退避されてしまっている。
「……姫?」
風邪でも引いているのかと思うほど顔が赤く、なのに困惑気味ではあるが嬉しそうに笑っていて、どこを基準に判断して良いかわからない。赤面と、困惑と、笑顔と。本当に見ていて飽きないなと思いつつ、エヴァンシークは問いかけた。
「い、いきなりどうしたのですか」
どうもこうも。これと言って何一つ無いのだが、何かないと駄目だったのだろうか。
「名前を」
「はい」
「呼んでみただけだが」
きょとん、とウィリアローナが瞬いた。やはり、用もなく呼ぶのは失礼だったか。かといって無理矢理用を作るというのも。
「では、触れる」
「どこにです!」
即答の上で構えられてしまった。
以前一度、触れてもよいかと聞いた時は、男性恐怖症という情報を先に手に入れていたからであったが、良いのか悪いのか、最近はそこまで怯えられていない。そのため、問いかけではなく宣言にしてみたのだが、何か駄目だったらしい。
いや、拒絶はされていないか。
「……どこでもいいが」
絶句し赤面したまま固まるウィリアローナがなんとなく気の毒になり、それじゃぁ、と考える。
「髪でいい」
呟いた途端ほっとウィリアローナの肩の力が抜けた。たしかに出し抜けに触ると言った自覚はあったが、いったい何をそこまで警戒されたのかがわからない。
怯える小動物のようだなど思っていることがばれるのは、なんだか具合が悪いと思った。
ウィリアローナを見ていて連想するのは、不思議な目の色をした黒い毛並みのうさぎだろうか。小さくて、柔らかくて、頼りなくて、愛らしい。
語弊があった。
怯えてなくても、愛らしい。
椅子の端まで退避していたウィリアローナはエヴァンシークの方に戻ってきつつ、問いかける。
「ええと、じゃぁ、後ろを向けば良いんで」
「いや」
遮って、向かい合った状態のまま、ウィリアローナの顔のすぐ横へ手を伸ばす。頬に触れそうになりながら、まっすぐな黒髪をそっと掬った。また、ぶわりとウィリアローナが表情を固まらせ、身体を強ばらせる。
「なんでもないですなんでもないですから!」
身体は微動だにしないまま、早口で叫ばれた。まさに問いかけようとしていたところであったため、そうか、とエヴァンシークは頷き、掬った黒髪へと視線を落とす。
気まぐれに触れてみたが、本当に癖の無いまっすぐな髪だと思った。黒髪じたいはそこまで珍しくはないが、ここまでまっすぐな物を見たことが無く、触れてから気まぐれに触れてよかったかと戸惑う。
ウィリアローナは、エリザベートが側を離れてからこちら、髪をあげなくなった。
少女のように背中に流したまま、編むことも無い。申し込まれた会談などの場に置いては例外的に適当な侍女にいじらせているようだが、終わるとすぐに解いている。
エリザベートがいたころは、そんなことは無かったように思う。というより、そう聞いている、と言った方が正しいか。あの頃はそこまで頻繁に会っていなかったから。
「……また、エリザベートが側にいるようになれば、姫は幸せだろうか」
ぽつりと呟く。返事は期待していなかったが、ウィリアローナは真っ赤な顔のまま目を丸くし、エヴァンシークが髪を掬った方へ首を傾げる。
掬ったままの手を近づいた姫の頬へ近づけ、指の背で撫でると、ぴ、とウィリアローナがまた固まった。
……面白い、などとは別に思っていない。どうせ何でもないと言われることがわかっていたため、視線はそらした。
「侍女としてではなく、従ってあれが姫の髪に触れることは無いが、それでも、姫はあれが側にいることを喜ぶか」
「侍女では、なく」
そうだ、とエヴァンシークは頷く。
「あれは、私の影だ」
ウィリアローナの唇が、音もなく「影」と囁いた。
「皇帝になる前から、あれは私の側にいた。姫が来て、あなたを守るために側に行かせた。あれは正しくは侍女ではない。裏で表の騎士や議員がさばききれない物を処理する、影役だ」
それはつまり、あれの手が血まみれだということで。エヴァンシークはそんなことまでをウィリアローナに告げることはできなかった。エリザベートがウィリアローナに抱いている感情を考えると、余計に口にすることがためらわれた。
「……この国に来て、春を呼んだ姫は、非常に危険な立場だった」
頬を指の背で触れながら、今まで伏せていたことを告げる。そうですか、と答えるウィリアローナの動揺は少なかった。エリザベートから何かしら聞かされているのだろうという予測は、簡単についた。
ウィリアローナの現状を、彼女自身に告げる告げるといいつつも、半年以上経っているのに告げていなかった。エリザベートがしびれを切らし、姫を守るために告げていたのであれば。エリザベートが姫を守るためにエヴァンシークの命を守らなかったのであれば、その責はエヴァンシークにある。
だから、この瞬間もこれから先も、この件に関して追求はしない。
「先日、皇帝の座についてから先延ばしにしていた議員の掃除が終わった。先帝時代の宰相の後継を決めて、ようやく落ち着ける。姫のまわりも、落ち着くだろう」
まわりが慌ただしかったことを、姫自身には気づかせてはいけないはずだったが、聡い娘だ。何か察しているかもしれなかった。
「へっ……」
疑問符もついていない一音が、力強く発せられた。
なんだ。何が言いたい。とエヴァンシークは困惑気味にウィリアローナの顔を覗き込む。じっと見つめてくる赤紫は、ぐるぐるとエヴァンシークの顔中を彷徨っていた。
「エっ」
また、力強い一音が続く。しかしそれらが繋がっていると考えたとしても意味は通じず、意味を読み取るためにエヴァンシークは目に力を込めてウィリアローナをじっと見つめる。ウィリアローナの視線はますます彷徨った。
「え、え、え…………、エヴァンシーク様はっ、」
一息に言い、止まる。
ウィリアローナ自身も言い切った直後硬直したが、言われたエヴァンシークも止まった。何か止まった。
「きちんと、休まれるようになったということ、でしょうか」
耐えきれなくなったのか徐々に俯いていくその顔を、頬に背で触れていた指をとっさに伸ばし、その小さな頤に添える。視線は再びあげられ、その目で力一杯「なにななんでなんですかこれ」と叫んでいるのがわかる、くるくると表情の変わる顔を見ながら、小さく息を吐く。
これは、本当に。
あぁ。
たちが悪い。
読んでいただきありがとうございました!!