22.あなたはわたしの、最初の一人。
「明日、荷物をまとめて帰るわ」
赤い紅茶を口にして、姉の翠の瞳がわたしを伺う。わたしは、そうですか、と短く返した。自然、手元へと視線が落ちていく。
姉の隣にいるヒューゼリオのこともほんの少しだけ伺って。
「どうか、お母様やシュバリエーン公爵、お兄様、ゼルクやアルに、わたしはここで、幸せですと、伝えてください」
「えー」
間髪入れずに否を示したのは、当然姉であった。なんとなく予測できていた自分が悲しい。
わたしの部屋の、昼下がり。午後のお茶に、姉とヒューゼリオがやってきていた。
「本当に?」
顔を上げ、言い返そうとしたわたしを遮って、姉はカップの中をかき混ぜる。
わたしの方を見もせずに。
「はい」
嘘も、建前も、言ったつもりは無い。それなのに、姉はわたしを信じない。
「ここで、私は陛下を支えます」
「ヘーカ、ね」
姉はカップに口を付けて、一口でからにする。横でヒューゼリオが目をすがめた。音を立てて、姉はカップをテーブルへ置く。
そういえば、とわたしは手に持ったままだったカップに口を付け、テーブルに戻す。
「姉様は、その、陛下とお知り合いだったんです、か?」
「ヘーカなんて、知らないわ」
椅子にもたれ、組んだ腕の片方を右頬に当てた。その声音は、どこか不機嫌で、いつの間に、わたしは姉の機嫌を損ねてしまったのだろうと瞬く。
「ねえ、ウィリア。あなたこの前言ってたわね。エヴァンシーク様はどこにいるの、って。皇帝陛下としか振る舞わないあの人の真実はどこにあるの、と」
でもあなただって、陛下、としか呼ばないじゃない。
「……わざわざ、言わなくても」
ヒューゼリオが何か、小さく呟いた気がした。
「だから、エヴァンは『陛下』にしかなれなかったのよ」
王になるべくしてこの国に生まれ、王になるために育てられ、王になった。王にしかなれなかった人間だ。
「何年も前、エヴァンは言ったわ。あるものになれ、と生み出され、育てられ、それになった。それ以外になれなかった。それ以外になろうとも思えなかった、と」
知ってる。
わたしも、そんなことを言われた。
「ねぇ、ウィリア。エヴァンを大切にしてくれるなら、どうか」
姉の目は真剣で、その横でヒューゼリオがため息を吐いていて。
「……わたしより、ずっと、姉様は、ヘイ……」
陛下、と言いかけたらきつく睨まれた。
「……え、エヴァ、……エヴァンシーク様の、こと」
口ごもる。眉が下がって、多分、とても情けない顔になっている。だって姉様がとっても睨むのだ。
「知っているわ」
なぜだか喧嘩ごしで、わたしは、なぜ姉が怒っているのかもわからないまま、姉を見つめ返す。
「私、ヴェニエールに留学していたんだもの。春が来なかったこの国は、頭を働かすことに長けた人が沢山いた。医療も進んでいたから、私は、そこで身体を治していたの」
そして、出会ったのよ。エヴァンに。
向こうは学院に通っていて、まぁ、暇だったみたいで。私も暇で、よく会って話していたわ。
雪が降る中抜け出して、暗くなるまで、他愛の無いことをいつまでも話した。屋敷に帰るたびに怒られて、閉じ込められて、厳重に見はられたけれど、それでも、抜け出して。
「あれは、まぁ、楽しかったわね」
留学して一年も経った頃には、調子が良くなって、学校にも行ったけれど。
「お互いの身分についてはねぇ。わたしはまぁ、向こうの身なりとか、ひねくれ方で薄々感じ取っていたれど。エヴァンの方は、さすがに私がニルヴァニアの侯爵家令嬢だなんて思っていなかったと思うわ。それでも、見て見ぬ振りして、自分のことも忘れた振りをして、詩集や歌、物語、人が作り出したものを何でも、批評したり分析したり」
その日のことを思い出し語る姉の表情は、穏やかで、大切な日々だったということが、わかって。
「姉様、は」
「好きだったことは、一度も無いわよ」
わたしの言葉尻を捉えて、やめてちょうだいな、と姉は微笑む。
「エヴァンを好きだったことは、なかった。私も、ハプリシアと同じように、あの頃、夢見ていた場所があったから。そんなことを考えることも無かったの」
姉様が、夢見ていた場所?
瞬くわたしににっこりとして、立ち上がる。
「エヴァンは、知らないのよ。あの人は愛してくれる人がいなかったの。ウィリアと同じ。あなたは、愛されてることがわかっていなかった。愛がどんな形をしているか、あなたたちは知らない」
あんなに、伯爵も夫人も娘のあなたを愛していたって言うのにね?
だからこんなにも、もどかしい。
「報告もしたし、質問にも答えたし、帰るわ」
それじゃ、と手を振り、身を翻す姉を見て、わたしは慌てて腰を浮かし追いすがる。
「ね、姉様」
「支えるんでしょう? エヴァンを」
「は、はい。わたしは、陛下を」
また、睨まれる。
「……え、エヴァンシーク様、と、お呼びするには、その、恐れ多くて」
「あの人の横に立つ気が、本当にあるの?」
姉の声は底冷えていた。なぜ、そんなに怒っているのかがわからない。というか、横に立つだなんて言うのも恐れ多くて頷けない。
「……今度」
聞いて、みます。
ただの意思表明に、なぜだか声が消え入った。
「ほら、ヒューズ。帰るわよ」
「……そうだな」
もう、と腰に手を当てる姉の視線を追いかけて、わたしは席についたままのヒューゼリオの後ろ姿を見る。
今回のお茶の時間、全く喋らずわたしを見つめていたヒューゼリオは、のんびりと、お茶を飲んでいた。
「……帰る気はあるの?」
「ないことはないが」
ゆっくりと振り返る彼は、さりげなく眼鏡の位置を直して、わたしを見据えた。
「次は、いつ会えるかと思ってね」
眼鏡越しに、青い目に見据えられて、居心地が悪くなる。会いにいきます、と言えない自分がもどかしく、でも、悲しいとは思わない。
「わたしは、ずっと、ここにいますから」
どこにも行きません。と、そう口にするのが精一杯だった。
「騎士の側を離れるなよ。まだ、春の聖女にとってこの国は」
はい、とヒューゼリオの忠告はありがたく受け取った。緩やかな動作で彼が立ち上がり、わたしに手を伸ばす。
抱きしめられた。
強いとも弱いとも思わない、不思議な力加減と安心感に、思わず息を詰める。
すっと肩の力を抜いて、はい、と、もう一度、頷いた。
一度、強く力を込められて、ゆるりと解放される。ゆっくりと、わたしの身体から、ヒューゼリオの手が、離れて、
何故だかわたしは、動けなかった。
後ろで姉様が寂しそうに笑って、肩をすくめているのも、ヒューゼリオが振り返らずわたしの部屋を出ようとしているのも。
何故わかるのか、わからない。
わたしが首を捻って振り返っているだけだとしても、足が、どうしても、言うことを聞かなくて、そのことばかりに気を取られて。
ヒューゼは、二度と、会いにきてくれない。
いやな確信だった。次はいつ、と聞いてきてくれたばかりなのに。
「またっ」
続けられない。会いにきてくれますよね、と、言えなかった。
「またね」
言ってくれたのは姉だった。ヒューゼリオは、そのまま、行ってしまった。
ごめんなさいも、ありがとうも、わたし、言えてない。改めて、ちゃんと、言ってない。
自分のこと、ばっかりに気を取られて。
「……さよなら」
届くことは無いのに、ぽつりと言わずにはいられなかった。
よんでいただきありがとうございました!




