20.優しい声と、触れる手のひら。
この人は、誰だろう。そう思う間もなかった。
「お嬢さん、あんたがリンクィン王子の妹で、この国に嫁いできた、春を呼ぶお姫様かね」
オルウィスの執務室を出て、自室に戻る途中、突然背後から声をかけられ、振り返る。知らない男性の姿に、わたしは思わず一歩距離を取った。
「はい?」
何か問われた気がする。リンクィン王子の、妹? 嫁いできた、お姫様?
目の前の男性はわたしの返事を待っている。ええと、と。
「……そうです」
リンクィン殿下の妹では無いけれど、嫁いできた、というのは合っているし、春を呼んだのもわたし。だいたい合っている。
「そっかそっか」
男性はにこやかにそううなずいた。歳の頃は、シュバリエーン公爵と同じくらいだろうか。目尻の笑いじわが、どこか親しみを覚えさせる。
遠い記憶の、父に似ているような気がした。
「ウィリアローナ」
そう、ちょうどこんな風に優しい声で……。
「皇帝陛下を、よろしく頼むよ」
「は。えっ」
聞き返そうと呼び止めるつもりが、男性はそのまま手を振ってその場から立ち去ってしまった。
「先帝がろくでなしだったからさー、あの人も苦労してるんだよー」
遠くから叫ばれた。えっえっえっ、とわたしはその場にしばらく立ちつくして、ええと、と考える。考える内容も必要も何も無いにもかかわらず、から回る思考をなんとか回転させ、そこで、は、と自室への道を歩き出した。
「これから、陛下とのお茶でした」
いや最近は仮眠なんですけどね。
……なんですか。
陛下が寝台に横たわって、わたしが寝台横の椅子に座って、わたしは陛下が眠るまで会話をしつつレース編みをしているだけだというのに。
「……陛下」
陛下が、なんだかわたしを凝視しています。
「最近、ずっと黒い糸でやっているんだな」
はい? あ、あぁ、このレース編みのことですか。
「ええと、まぁ。わたし、レースは白い方が好きなんですけど」
今作っているのは、目的があって。
「ニルヴァニアでは、レースで作った外套のようなものを、花婿の肩にかけるのです。色は古くから終わりを意味する黒で、それは、始まりの白を身に纏う花嫁と対になるよう、いずれ二人に終わりがこようとも、という意味があって」
あれは、いつの頃だったでしょうかね。ハプリシア様に婚約の話が出た頃だったと思います。
「リンク殿下が、何かすごくいらいらしていて、すごく強い調子で、殿下の婚儀の際、これをわたしに作るようにお命じになって」
殿下が覚えているかわからないけれど、そのときわたしは、確かに承ったので。
「……あいつに作っていたのか」
「はい」
「花婿衣裳を?」
「ええと。一部だけ、です」
なんでこんなに真剣な声で問いつめられるみたいにわたし陛下に詰め寄られているんでしょう。
「……陛下?」
寝台の中央に横たわっていたと思ったのに、気がつけば陛下は目の前の寝台のふちであぐらをかいていらっしゃった。頬杖までついていらっしゃる。
「……意外な、姿です」
ぽつりと呟けば、陛下はふんとわたしから視線をそらす。
「気が抜けた」
「はい?」
「最近、オルウィスが新しい侍従を呼び寄せたらしくてな、書類のまとめ方が的確でわかりやすく、作業能率が上がった。そのため、まともな睡眠が取れるようになって」
「……気が抜けた、ですか?」
集中力の低下によって作業能率が減退するというの話はよく聞くけれど、それって睡眠不足とか作業のし過ぎとか、そう言うのが原因なんじゃ。というより。
「だからと言って、無理に睡眠時間を減らしては駄目ですよ、陛下」
「ん?」
「ちゃんと寝て、正しく生活してください。仕事の能率についてはあとです」
そうか、と陛下はわたしを見てうなずき、少し首を傾げてみせる。
「そう言うウィリアローナ姫は、最近顔色が良くないが」
「へっ」
声が裏返りました。
以前に比べれば、確かにちょっと一日に色々詰め込み過ぎですがでもそんなのこちらの勝手で、好きでやってることで。
朝起きて、レースを編んで、着替えて食事をとって、オルウィスのところに行って気がついたら書類の傍らマナー講座が始まってて、お昼を取り、陛下に会って、夕方にははまオルウィスの執務室へ戻って、夕飯時にまた自室で食事をとって、寝る支度をして、眠っている。
ちょっと、忙しくなりました。陛下とは毎日会っているわけではないですが、陛下と会わない日はそれはそれで図書館に行ったりいろいろなのでした。
「……陛下こそ、毎日どんな風に一日を過ごしていらっしゃるんですか?」
話を逸らしたわたしに気づかず、陛下は瞬いて、そうだな、と話してくださる。
「朝起きたらまず鍛錬をして、昨夜残った書類の再確認、修正、それから朝食をとりながらオルウィスからの一日始まりの報告を聞く。そのまま書類をしたら、議員が集まり朝議を行う。午後はそれぞれの仕事を割り振って、個人の執務室に持ち帰って仕事をする。夜にもう一度会議を行って、就寝かたまに、朝の会議が丸一日かかったり、夜の会議が翌朝まで続くこともあったな」
「そんなに、忙しいんですか」
驚きのあまり、短くそういうことしかできないわたしに、まぁ、とうなずく陛下は、穏やかな目をされていた。
「この国には、長く春が来なかった。雪解け水の対策や、農業復興支援についても、いろいろだ。姫が来る前に書類をまとめておけという指示はしておいたはずなんだがな」
とんだ無能だった。
低く何か呟かれましたけれど、穏やかな表情となんだか真逆の雰囲気だったので聞き取れませんでした。
「その書類がちゃんとしていたら、ウィリアローナ姫が来てから半年、こんなに忙しくなかったはずだ」
せっかく嫁いできてもらったのに、ちゃんと会う時間もままならなくてすまなかった。
突然そんな風に謝られて、わたしはなんだか顔が熱くなる。恥ずかしいですねなんかこれ。
「いえ」
はにかんでそう答えることしかできなかった。じっと注がれる菫色の視線に、わたしは逃げ場が無いかあたり視線をさまよわせてしまう。自室なので、逃げ場が無いことなんてわかりきってるんですけどね。
陛下の、手が伸びる。
それは、ぽん、と頭にのせられた。
「……陛下、は、よく、わたしの頭を撫でますね」
よく、というほどの頻度でもないかもしれないけれど。
そうか。と、陛下はなんでもないことのように、ただ、うなずいた。
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