12.最初の一人との、五年もの月日
まだ、母様がいたころ。
ヒューゼリオが、わたしの前に現れた。
ランプの明かり、地下の書庫で。本に囲まれ文字を追い、ページをめくるわたしの前に。
兄は、温かな食事を手にして、やってきた。
「僕は、ヒューゼリオ・ヂ・シュバリエーン。二番目の、シュバリエーン」
丁寧に、まるで何かの儀式のように、兄は最初にそう言って、
「君はウィリアローナ。ウィリアローナ・ヘキサ・シュバリエーン。六番目の、シュバリエーン」
でも、第四子。そんなことを付け加えながら、わたしの名前を呼んだ。
そうして兄が姿を消して、書庫の地下、一人残されたわたしは、いつもそれを復唱する。
「ヒュー……。ヒューゼ……? ウィリ、ア。ウィリア」
あの頃のことを、忘れてはいない。ただ、全ては覚えていなかった。あの頃のわたしが、なにを思っていたのかなど、覚えていない。どんなことを考えていたかなど、覚えていない。
なぜ、うちに閉じこもったのかも。
うまく言葉が話せなかった。自分で自分の感情を捉え、表に示すことが、できなかった。
そして、人。
会うことが恐ろしかった。かかわることが、恐ろしかった。
それが全てだった。
襲われた辺境伯爵領で、何があったかはわからない。もしかして、わたしはそこで何かを見たのかもしれない。それによって、外界から隔離されることを望んだのかもしれない。
そう考えると、思い出さなくても良いと思えた。
幼すぎて失ったのか、何らかの別の要因によって忘却の彼方へ行ってしまったのか、どちらにせよ、両親の記憶をそうしてまで取り戻すことさえ、興味がわかなかった。
断片的に残るもので、よしとしたのだ。
選択肢を消していき、諦めて、閉じこもり、本の世界に逃げ込んだ。知らない知識、知らない物語、頭を埋めることができるなら、その種類は問わず、自然わたしの頭の中には無作為に詰め込まれた雑多な知識が居座ることとなる。
その、思考を放棄したわたしの中に、やってきたのがヒューゼリオだ。
兄自身の名前と、わたしの名前。わたしの、新しい名前。
本の中のものではない、生身の、ぬくもりを併せ持った今までにない情報に、わたしは惹かれたのかもしれない。
「男性恐怖症も、もしかしたら、その襲われた際に起因しているかもしれません」
何気なく、わたしは陛下に呟いた。
あの頃、わたしの側にいたのは兄だけでした。兄だけが、わたしの側で、本を読み、食事を与えてくれ、話しかけてくださいました。
わたしには、兄しかいませんでした。
優しい兄。反応をすることもできないわたしに、根気強く、毎日何があったか話して聞かせてくれた、兄。わたしに、日々は移り変わっていると、聞かせてくれた。
兄は、優しかったです。
そんな風にして、五年も過ごしていたのです。
五年ですよ。そんなにも長い間、わたしは殻に閉じこもり続け、兄は毎日わたしの側についていてくれたのです。
上の兄のように、軍の学校に行くこともなく。宮廷に勤めるための学校に行くこともなく。公爵家の人間ならば、それだけでいくらでも上を狙えたでしょうに。実際、上の兄は若くしてそれなりの地位に就いています。
上の弟も、下の弟も、それぞれ学校に通って、優秀な成績を収めているはずです。
それなのに、きっと誰よりも優秀であったに違いない兄は、わたしの側にいることを選びました。
そうして、わたしが書庫から屋敷の本棟へ移ったのは、五年と少し経ったある日。
姉が、留学先から帰ってきました。
まず最初に、兄とわたしを見て、姉はわたしを書庫から連れ出しました。姉の指示でわたしを本棟へ連れて行こうとする上の兄と、ヒューゼリオの衝突は、今でも一番恐ろしかったと記憶しています。剣で認められつつあった上の兄に、ヒューゼリオは斬り掛かっていきましたから。
「……兄にか」
「そうです。実の兄にです」
血のつながらない妹を思って、血のつながる兄へと斬り掛かる。
「とんでもないこと、です」
ぽつりと呟くわたしに、陛下は何事か言いたそうだったが、それでも最後には口を閉じ続きを、と仰った。
わたしは、本棟に作られた即席の書庫を与えられました。居間と寝室という一般的な二間続きの部屋で、居間を書庫に作り替えたんですね。そこで、今度は日の光のはいる書庫の中で、地下の書庫と同じように暮らすようになったのです。
騒動の後は、離れから本棟に移っただけで、何の変化もない日々でした。ただ、寒いと思ったら寝室に行っていた地下とは違い、廊下に出てすぐ近くの姉の部屋へ暖をとりにいくようになったのは、大きな変化といえます。
本棟に移り、上の弟や姉、上の兄と接するようになって、ほんの少し、行動範囲は広がりました。
ただ、ヒューゼリオとわたしが二人で部屋にいる時、誰も部屋に入ろうとはしませんでした。下の弟が扉を細く開けてのぞいていることもありましたが、すぐに別の兄弟に連れて行かれていましたから。
本棟に移ってからの記憶ははっきりとしていて、わたしも、兄と二人でいるときは誰かが訪れることを歓迎していなかったように思います。
聞いてもいないのに、姉と上の兄がそのことについて、「近づけない、壊せない」と、漏らしていたことを、覚えています。
わたしは、ヒューゼリオと過ごす時間が好きでした。
ずっと、このまま、世界が終われば良いと、思っていました。
本棟に移って、ほんの少し様々なものが見え始めて、兄がどれだけの時間、わたしの側にいてくれたかと思うと。
「ずっと、兄の側にいることが正しいと、そう、……」
喉がつっかえ、わたしはそれ以上言葉にできなかった。
最初の一人。
最初にわたしが覚えた人。
兄。
シュバリエーン公爵家の次男。
血のつながらない。
それでも、兄だった。
今なら、自分にとって兄がどんなに大きな存在であったかがわかる。
それと同時に、兄にとって自分がどんなに足枷であったかも。
「幼い頃の、刷り込のようなものだったかも、知れません。けれど、わたしは、多分きっと、あの屋敷を出ることがなければ、きっと、あのまま」
兄の側に、居続けたことでしょう。
「……けれど、姫はあの屋敷から出ている」
「そうです」
それは、求められたからだ。
ヒューゼリオとは違う。兄は、ただわたしが側にいることをよしとした。それ以上も以下も、望みはしなかった。
現れたその人は、わたしという存在を、強く望まれ、それを幸福とされたのだった。
わたしが側に行き、そのことで、救いを見いだす人が、現れたのだ。
あぁ、でもこれを語るには心臓が痛かった。
何故だろう。この無自覚が、後悔を生むとわかっていても、わたしはそれでもこの痛みを見て見ぬ振りで、ないものと扱おうとしている。
そのことに、何の罪悪感もない。
だからわたしは、話を、変えてしまえる。
「陛下、先ほどの問いの答えを、もう一度伺ってもよろしいでしょうか」
もう一度、を繰り返す。皇帝陛下に対しては、無礼千万も良いところかもしれない。
それでもうなずく陛下に感謝を示す。
「なぜ、願いを叶えようと心を砕き、幸福であれと、わたしに祈るのです。その優しさは、どこから生まれるものなのでしょう。この問いに、皇妃は幸せに、と陛下はお答えくださいました。では、なぜ皇妃を幸福にせねばならないのでしょう。それも、陛下の手で」
畳み掛けるような言い方だったかもしれない。兄の話をした直後にしては、相応しくない問いであったかもしれない。
問われたくないことを問われないためにしては、無礼が過ぎたかもしれない。
それでもわたしは、言葉を重ねた。
「皇妃は幸せに、というのは、どこから生まれたものなのですか」
陛下はすぐには返事をしなかった。枕に身を埋めて、わたしの方をじっと見つめてくる。
「……皇妃となるものに、ここに来た事で、不幸と思ってほしくはない、と」
全て聞いてもいないのに、口をついて出た「思ってません」というささやきが、やけに響いた。
「王国を出る事になった事に関しては、確かに、そうかも知れません。ここで生きたいと思っていた場所に、いきなり帰れなくなったときは。でも、この国で生きる事に、今はもう、悲観してません。なのに、陛下はわたしに幸福であってほしいという」
「嘘おっしゃい」
言葉を遮るようにして、扉が開け放たれる音とともに入ってきた赤みがかった金髪の奔流に、わたしは息をのむ。
翠目が爛々と輝き、わたしに向かってその唇は弧を描く。
「コウテイヘイカに嘘はいただけないわね? ウィリアローナ」
「……ねえ、さま」
断りもなく部屋に入ってきた姉は、そう言って楽しそうに腰に手を当てた。
読んでいただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
誤字脱字など他気になる点があればご一報いただければ幸いです。
雑記
ちょっと作った年表見直したら月日のスケールにおののきました自分で。
そりゃ、でっかい存在にもなる。
そしてやってきたお姉ちゃんです。
さてさて、ウィリアローナの嘘とは。




