10.義務の話。本当の話。
いつになく、様子のおかしい姫を、エヴァンシークはただ黙って見守っていた。
ぐるぐると思い悩んでいるのが手に取れるのだが、どう言葉をかけるべきか、選びかねている。
以前に比べると、ここにこうして通い仮眠を取る事で睡眠時間がある程度確保でき、思考回路に余裕ができたように思う。今では、だいぶどうでもいい事を考えられるほど。本来の目的である姫と打ち解けるために、もう少し何かしてもいいかもしれない、とエヴァンシークは考えながら今日この部屋を訪れたのだが。
「……」
カップを両手のひらで包み込み、ぼんやりとしている姫に、提案するのはどこかためらわれた。
(……次でいいか)
これ以上、彼女の思考回路の容量を圧迫するのも気の毒だ、とエヴァンシークは席を立つ。音に反応してか、ウィリアローナはきょとんとエヴァンシークを見上げた。
一拍の間を置いて、慌てて立ち上がる。
(やはり、変だな)
以前のように、緊張しているというわけでもなさそうで、単に上の空、という雰囲気に、なにを思い悩んでいるのかと首を捻る。
かといってそれを率直に指摘する事もできず、エヴァンシークは寝台に横になり、ウィリアローナは近くの椅子に座り、ここずっと延々続けている黒のレース編みを開始するのがいつものパターンだ。一つ二つ話題を探し、やがてエヴァンシークが眠りに落ちる。睡眠が足りていなかった場合であるため、最近では徐々に会話の割合が増えたけれど。
しかし、今日に限って言えば、ウィリアローナは手に取ったもののかぎ針は全く進む様子を見せず、会話が弾むという事も無い。
沈黙の中、悩んだ果てに、エヴァンシークは切り出した。
「……なにかあったのか」
ぴゃっと跳ねる肩に、なんだ、と仰向けの状態から寝返りを打ち、ウィリアローナの方へ身体を向ける。
「な、何も無いです」
無意識に動かしているのか、レース編みが突然猛烈な速さで進み始めた。黒で、総レースの、大きな一枚を作っているのはわかる。が、しかし。それが目的あってのものか、特に理由もなくただ作り続けているものなのかはエヴァンシークには判断できなかった。しかし器用だな。
しばらくじっとそれを眺める。エヴァンシークの視線に耐えられなくなってきたのか、ウィリアローナの手は徐々に勢いを無くしていった。
「……わ、わたしは」
うん? とエヴァンシークは顔を上げて、ウィリアローナの手元からその赤紫色の瞳を覗き込む。
「わたしは、陛下の、花嫁です」
一言一言、区切り、確認するような物言いに、エヴァンシークは瞬いた。その言葉を口にした本人はいたって真面目で、真剣で、深刻に、眉を寄せて、泣きそうな様子で、じっと自身の膝のあたりを見つめている。
噛み締めている唇に、あぁ、痛そうだなとエヴァンシークはぼんやり思った。リンクあたりが見たら、すぐに手を伸ばしてやめさせるのだろうな、と。
むくりと、エヴァンシークは起き上がる。手を伸ばして、ウィリアローナの頭に置いた。
「……どうした、いきなり」
なにがどうなって、そんな言葉を発するに至ったか。それを、エヴァンシークは問いかけた。エヴァンシークのあずかり知らぬところで、そんな言葉を口にするまで追いつめられていたのだとすれば、それはエヴァンシークの落ち度だ。花嫁にそんな顔をさせるのでは、先が思いやられる。
「姫は、私の花嫁だ。それが、どうかしたか」
ゆるりと顔を上げるウィリアローナに、エヴァンシークは真摯な瞳で見つめ返す。
ウィリアローナの噛み締めた唇が、ゆっくりととかれ、口を開いた。
「わたしは、陛下のお役に立つために、この国に来て、春を呼んで、これからも、その春を失わないために、ここに、」
あぁ、なるほど。
ウィリアローナの漆黒に手を絡めるようにして、ぐいぐいと撫でた。
「皇妃としての、義務の話か」
なんだ、と思う。
思いのほか、可愛らしいことを言うと思えば。
(…………いや)
今過った思考はなんだろう、とエヴァンシークは首を振った。おもむろに首を降り始めたエヴァンシークを、ウィリアローナが不思議そうに眺めている。
その顔色に、エヴァンシークはため息を吐いた。
「私よりも、姫が睡眠を必要としているように見えるが」
「はい?」
突然の予想していなかった言葉に、ウィリアローナが奇声を上げる。いいえそんな、と手を振って拒否を示した。ついでのように、頭の上に乗っていたエヴァンシークの腕を振り払う。
「わたしはいいんです。何を言い出されるんですか、もう、陛下は早く寝てください!」
シーツを陛下にかけようと奮闘するが、そんなウィリアローナを意に介さず、じっと注がれる菫色に、ウィリアローナはうううと呻いた。
「……皇妃になったら、国の外へ行けなくなるとか、義務とか、以外に、何が変わるんですか」
「姫は最近、そればかり気にする」
こちらは十分なほど覚悟をしているのに、というふてくされた言葉が聞こえてくるようだった。エヴァンシークは肩の力を抜くように、息を吐く。
「なにも」
返答は簡潔だった。
「変わる事は、それ以外と言われてしまえば何も無い。あぁ、ただ」
ゆらり、と、エヴァンシークの右手が挙がる。窓際、の、直角に位置する壁。カーテンが集まっていて、壁が隠れている辺りを示される。
「そこが、開く」
「……は?」
見てみるといい、とエヴァンシークは言った。ウィリアローナは言われた通り、椅子から立ち上がりカーテンに隠れた壁に触れる。
「……え」
知らなかったか? と、エヴァンシークは苦笑する。誰も教えていなかったのか、と誰に責めるべきか考えた。
「……これ、扉がありませんか」
「ある」
そうですよね、ありますね。これ扉ですよね。とウィリアローナがぶつぶつ呟き、
「それで、これが?」
とエヴァンシークへと問いかけた。
「姫が皇妃になった暁には、その扉が開く。というより、取り払われ、出入りが自由になる」
それは、とウィリアローナは眉を寄せた。振り返り、問いかける。
「防犯上、不用心では」
簡単に言うと、ウィリアローナの部屋から入ってエヴァンシークの部屋から出る事が可能という事だ。入った部屋の次の間で護衛が待機していた場合、一時的に主を見失う事になる。
「よって、専任の騎士を二人ほど任命してもらわなければならなくなる」
選べ、とエヴァンシークは短く言った。えええとウィリアローナが呻く。「すぐでなくていい」とだけエヴァンシークは断って、目を閉じた。寝台の頭側にある飾り板へもたれかかり、枕に埋もれる。
「あとは、そうだな。特にない、か。私の代理として立てる気もない」
「へ、何故です」
皇帝が皇妃を代理に立てる事はままある事だが、エヴァンシークにその気はなかった。エヴァンシークの返答を予測していながら、ウィリアローナは扉に向き直り、その表面にそっと触れる。
「……危ないから、ですか?」
その問いかけにも、エヴァンシークは返さない。
「陛下?」
ウィリアローナが振り返らないまま呼びかけるのを見て、エヴァンシークは話題を変えた。
「ヒューゼリオ・ヂ・シュバリエーンのことだが」
「……兄が、どうかしましたか」
エヴァンシークの瞳が、極端な反応を示したウィリアローナの背中へ向けられる。慌てて振り返る事も無く、まるで、慌てていませんと主張しているかのような態度に、引っかかりを覚える。
「……親しかったのか」
「……どうでしょう」
振り返らないまま、ウィリアローナははぐらかした。
続く!
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