8.思いもよらなかった事
どうして、あの場ですぐにいいえと言えなかったのだろう。これは、誰に頼ればいい。誰に聞けば、ヒューゼリオになんの咎も無く答えを導き出せるだろう。
違う。答えなんて、あってないのと同じだ。だってわたしは、もう、決めているのだから。
咎。
そうだ、兄が口にした事の重大さを、わたしはわかっていたから逃げ出したのだ。それ以上、口にさせないために。
だってそんな、あんな、言葉。
いくら神聖王国の公爵家の人間でも、言ってはならない言葉が、ある。
自室に戻って、どれくらいだろう。戻ってきた直後かもしれないし、もうずっとここで立ち尽くしていたかもしれない。
明るい、日の入るこの部屋は、とても優しい輝きに満ちているはずなのに。
「姫様」
懐かしい声に、はっとする。左側に立つ侍女の姿に、目を見開いた。柔らかな茶色髪をふわりと揺らして、彼女は深く深く礼をする。
「姫様に何も断る事無く、おそばを離れた事を謝罪します。また、おそばにいる事を、お許しください」
「エル……?」
ミーリエル。ここしばらく言葉を交わせていなかった気がする。いいや、気がする、では無い。真実だ。遠目には幾度か見かけていたけれど、彼女はしばらくこの部屋を訪れていない。
「今まで、何をしていたの」
わたしの側を離れて、どこで、何をしていたの。書類を抱えて忙しそうにしていた事は知っている。侍女に、書類。なんとも、不思議な組み合わせだと思うのは、わたしがものを知らないからだろうか。
「これでも、この部屋の、侍女長ですので」
無意識にわたしがミーリエルへ伸ばしていた手を、彼女はそっと包み込むように、触れる。
「姫様付きが務まる侍女を捜しに、あっちへこっちへ、飛び回っていました」
「……侍女?」
わたし付きの? 今でも十分機能しているのに? 思わずそう問いかけるわたしに、彼女たちは、臨時の者ばかりなのですよ、とミーリエルは肩をすくめた。
「中庭で、姫様、暗くなるまでお戻りにならなかった事がありましたでしょう? あれからです。オルウィス様が、私に侍女の厳選を命じました」
知っていたのは、あの中庭で、エリザベートが言ったような、わたしを狙う誰かが存在したという事。
たった今察する事ができたのは、その内通者が、侍女であったという事。
途方に暮れるしか無かった。何処に行っても、ついて回るのだろうか。無関係の人が巻き込まれる事だけは、どうか。
わたしが疎ましいのであれば、どうか、わたしだけを。
「帰ってこないか」
ヒューゼリオの言葉がよみがえる。兄は、守ると言った。公爵家の持ちうる全てを使って、わたしを守るから、だから帰ってこいと。
わたしの現状を、知っているかのように。
「エル」
混乱する思考の中で、求める言葉もわからないまま、わたしは、ミーリエルに助けを求めた。
ほんの少し前の、図書館でのできごとを全て話すと、ミーリエルはきょとんと瞬いて首を傾げてみせた。あぁあ、確かに久しぶりにあって話すというのにいきなりこれは、
「や、やっぱりなんでも……」
逃げようとするわたしに、ミーリエルがまっすぐ見つめてくる。
「姫様」
問いかけに、わたしは口を閉ざした。しばらく間を置いて、何? と返す。
「どうして、即答できなかったのでしょう」
首を傾げて問われる。ええと、とわたしは視線を彷徨わせた。さんざん悩んで、結局、わからない。と首を振る。
「お兄様の事、お嫌いなわけではないのですよね」
それには、そう、と首を縦に振り、うなずく。
それでは、とミーリエルは続けた。
「姫様、ヒューゼリオ様の事がお好きなのでは?」
「は」
い?
カッ、と熱がこみ上げる。熱い。音が、遠い。視界が、狭まる。わたしはミーリエルから一歩離れる。ミーリエルはぽかんとわたしを見ていた。やがて、引きつった表情で「姫様」と問いかける。答えたくないととっさに思った。これ以上、何かを重ねて問われたくない、と。
「出てって」
ぽつりとこぼれた言葉に、ミーリエルが息をのむ。見開かれた彼女の瞳に、狼狽の色を見て、罪悪感がわずかに過った。
「今、は、お願い。今日は、もう」
「ひ、姫様、あ、あの、私」
「でてって!」
わたしの悲鳴に、ミーリエルは言葉を無くした。一礼して、逃げ出すように部屋を出る。
扉が閉まる音だけを聞いて、その場に私は座り込む。顔を上げて、窓の方を見やった。
まだ日は高くて、そして、あぁ、と呻く。
「今日は、陛下がいらっしゃる日、でした」
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雑記
何がどうしてそうなった。という感じですね。
詰めていきます。