6.ぶわりと、こみ上げるもの
黒い髪が、ふわりと揺れる。年頃の娘のはずなのに、結い上げもせず少女のように背中で自由に跳ねるさまは、人でない何かのようにも見えた。
男の人の、声。
まさか、人がいるなんて思いもしなかった。
「……」
中二階のような場所には、本棚は一つもなく、階段と反対側の壁にある大きな窓からの光に満たされた空間だった。柔らかく、ゆったりと座れそうな長椅子がその窓際に設置され、本を読むのにちょうど良さそうな高さの椅子が数脚と正方形の机が中央に置かれている。居心地の良さそうな場所だ。
「なんで……」
驚いたような、面白がっているかのような男の人の声に、ざわりと、全身が総毛立つ。素早く視線を巡らせ、男性の姿を捉える。
右手の壁にかけられたこの国の地図の前に、一人の男性が本を片手にたたずんでいた。
優男。
ふいにいつかも覚えた印象が過るが、思ったときには身を翻していた。
今すぐここから出なければならないと思った。傷つく前に、傷つける前に。
「えっ、ちょっと」
引き止められる声と、近づく足音が聞こえた瞬間、ただでさえ混乱していた頭はパニックに陥る。この場から逃げ出そうと足を動かす。立っていたその場所が階段ということ、失念していた。
「———っ」
踏み外した、と思う。宙に投げ出された瞬間思ったのは、大した高さではないから、せいぜい打撲くらいな物だろうということと、自分が怪我したことによって、案内してくれたミーリエルが負い目を感じないと良いなということだった。
軽い衝撃と、人の気配。
きょとんと瞬くと、頭上から無言の圧力のような物を感じた。視線、と言い換えても良い。
階段の上から慌てて顔をのぞかせてきた先ほどの男性は、ほっと息をはいていた。
「ご無事でしたか」
わたし、今、何がどうなってるの……?
腹部に、誰かの腕がまわっている気がした。誰の。混乱する頭の中で、ぐいと身体が引っ張られる。横だきにされた、と認識した頃には、階段を上り終わっていた。
え、えと、何、と狼狽えていると、長椅子の上にゆっくりとおろされる。脇で、膝をついている男性と目が合った。
今まで見たことのないほど輝く金髪に、高貴な紫の瞳。わたしの赤みがかった不気味な物とはまるで違う、野に咲く花のような、柔らかで、神秘的で、温かな。
けれどその眼差しに、息を詰めた。
なんで、そんな。なんて目で、見ているの。
「ウィリアローナ姫」
ぽつりと、呟くように目の前の男性が口にした。呼びかけのようには聞こえなかった。ただ、目の前にいる物の名が口から滑り降りたような、そんな風だった。
「ウィリアローナ・ヘキサ・シュバリエーンと、申します」
名乗られたら名乗り返す。それが礼儀。でも本能で分かった。この人には、私から名乗らなければならない相手だと。
けれど、わたしが名乗っても目の前の男は名乗ったりはしなかった。視界の端で、彼の手がこちらにのびてくるのが見えた。
びくりと、身体が震える。
こちらが怯んだことに気づいたのか、その手は引っ込められた。彼は引っ込めた手をじっと見つめ、
「リンクィンの、言っていた通りか」
ぽつりと、また。こちらに話しかけているようには思えない言い方だった。
「りんくでんか……?」
けれど知っている人物の名前に、思わず混乱したままその名を口にする。目の前の男の眉が、わずかに寄った気がした。気のせいかもしれない。
ふいに、男が立ち上がる。入れ替わりのように、壁際にいた男が寄ってきた。優男。先ほど浮かんだ言葉が過る。
この城に来たばかりの時、案内してくれたこの国の議会で力を持っているという、あの。
「ウィリアローナ姫は、なぜこんなところに?」
なんて名前だっただろうか。赤い髪に、碧眼。若くして亡き父の跡を継ぎ、皇帝陛下の右腕として国を支える、美貌の……。まぁ、アークウルド様の方が何倍も美しいですけど。その何倍もハプリシア様はお美しいですが。それぞれ越えられない壁という物が存在していますが!
「ええと」
しかし問いかけになんと答えた物だろう。
侍女であるミーリエルが許可を貰ったと言っていたが、わざわざこうして聞くぐらいだ。何かあったらどうしよう。
と思っていると、何やら優男がにやりと笑っている。思わず呆れた顔をしてしまった。
「知ってて聞いてますね?」
まあね、と彼は屈託ない笑顔で答えたのでした。
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