3.ヒューゼリオ・ヂ・シュバリエーン
ばかだなぁ、と兄が上の弟を笑う。
「書庫で幽霊を見たって? やっぱりゼルクはまだまだ子どもだなぁ」
違うもん! と上の弟が叫ぶ。
「誰か居ただけだっていってるだけだろ!」
その言葉に、思わず口を開いていた。
「居ないよ」
思わず出た声は無意識に低く、上の弟はびくりと肩を震わせて、こちらを振り返る。
それは、ひどく不安そうな上の弟の姿がだった。
食事も終え、兄弟四人。夜の団欒の場で、下の弟が兄の側で丸くなって眠っているにも関わらず、そこにはひやりとした空気が流れる。
やってしまった、と内心で後悔しながらも、引っ込みがつかなかった。どうしてもっと上手くやれないのだろう、兄も、幼い姿しか覚えていない妹も、あんなにも人当たりよく人の輪にとけ込めるのに、どうして自分はこうなのだろう、と自分自身を罵る言葉は途切れない。
それでも。暖炉の前で本に視線を落としたまま、上の弟の方を見もせずに、固い声で続ける。
「書庫に、そんなのは居ない。いちいち騒ぎ立てるなら、もう二度と入るな」
駄目だと思いつつも、確かに不愉快だったのだ。本心はそちらが勝っていたのだ。上の弟が、見境なく地下の書庫について騒ぎ立てる姿は、たしかに、胸中の不安をかき立てた。
それは、触れてほしくないものだったのだ。
騒ぎ立ててはいけないものだったのだ。
不愉快な気分。苛立ちにまかせて本を閉じ、立ち上がる。いけない、と思いつつも、止まらなかった。兄が慌てて取りなしてくるが、どれもこれも耳に入ってこない。あぁ、兄が上の弟をかばって何か言ってくる。それだけのことだった。
物音に、老爺がおや、と顔を上げる。夕方、カンテラを投げ出す勢いで走り去ってしまった公爵家の三男坊が、何か忘れ物でもしたのかと小窓を開いた。
しかし、想像していなかった別の少年の姿に、驚き瞬く。しかしすぐに、そういえば、と納得した。三男坊がここを訪れることが今までなかったことであり、本来であれば、ここは【彼】のお城であったのだ、と。
片手に本を、その腕に籠をかけているのを見て、ご苦労様です、といった言葉が口をついて出る。
「あぁ、坊ちゃま。いつもいつも、奥様からですか」
「うるさい。お前に言う必要なんてない」
三男坊のゼルクよりもずっと色素の薄い、肩まである金髪を結い上げることもせず肩に流し、髪の色素の薄さとは反対に深い青の瞳が賢そうに輝く。少年は老爺に書庫から持ち出していた本を押し付け、かわりにカンテラを受け取った。
そうしてそのまま、身体の向きを変え、まっすぐに地下へと降りていく。
少年の後ろ姿を見ながら、老爺はくつりと笑った。
毎日のようにこの書庫に通う公爵家の次男が、本当に書物だけを目的としているかどうか。その実情を知っているのは、いやはやきっとわしだけでしょうなぁ、と。
公爵家次男、ヒューゼリオ。
彼は地下の書庫へ続く扉をくぐると、すぐに目に飛び込んできた少女の姿に、顔をしかめる。
椅子に腰掛け、テーブルに置いたつたないカンテラの明かりだけをたよりに、一心不乱にページをめくるその姿は、なるほど。確かに上の弟が幽霊と見間違えても仕方がないと思えた。
闇に同化しそうな黒髪をただ背中に流し、肌は明かりに照らされて紅潮しているようにも見える。
その瞳は、暗い中でも爛々と輝く、不吉な赤紫だった。
古代の魔女を連想する色彩に、いや、とヒューゼリオは首を振る。より正確に言うなら、それを模した人形のようだ、と。
これだけ近寄ってもこちらを見ようともしない少女に、ヒューゼリオは小さくため息を吐くのだった。
「ウィリアローナ」
名前を呼ぶ。これまで幾度もその名を呼んできたが、少女が反応したことは一度もなかった。何をかたくなにここまで閉ざしているのかは、ヒューゼリオは知らない。ただ、ある日、彼女はヒューゼリオのお城の住人となったのだ。
母が知り合いの娘を引き取ったという話は聞いていた。深く傷ついているから、子どもたちとは少し距離を置く、とも。兄とヒューゼリオ、そして妹はその存在を知っている。もっとも、妹は少女と入れ替わるようにして外国へ旅立ってしまったけれど。
「ヒューゼリオ・ヂ・シュバリエーンだよ。君はウィリア。六番目のシュバリエーン」
ページ上の文字を追い続ける少女に、ヒューゼリオは毎度同じ言葉を投げかけてから、籠の中身を取り出す。簡単な食事と、水だった。柔らかいパンをちぎっては少女の口元に持っていく。そうすれば、無意識かどうか、少女はぱくりと口に含み、咀嚼するのだった。
最初はわざとこんな態度をとっているのかとも思ったが、最近では慣れてしまった。こんな異常と言える交流でも、一年以上も続けていれば慣れない方がおかしい。
食事を与え終え、ヒューゼリオは少女の向かいに置いてあった椅子を引き寄せ、少女の隣に腰掛ける。
頬杖をついて、何を話そうか、としばし考え込んだ。
「あぁ、そうだ。このあいだ、冬の国の皇太子が華々しい戦果を挙げたって話はもうしたっけ。あの国は、また大きくなったよ。皇太子は、皇帝にその功を認められて、来年には即位するって話が出てる」
淡々と、時折少女の表情を伺いながら、ヒューゼリオは続ける。
「ほら、かつてこの国の首都だった街を首都にしている、あの国のことだよ。王女ハプリシアが嫁げば、春が戻ると言われている、あの国の」
そこでふと、ヒューゼリオは言葉を止めた。少しだけ考えて、首を傾げる。
「覚えてる? 一昨年、冬の国に春が七日間が出戻った時のことを。ちょうど僕らが避暑にあの国へ行っていた時のことだよ」
しかし、返事は無かった。ヒューゼリオが話し出すといつもページがめくられることは無いため、聞いているのかもしれない。今度こそ返事があるのかもしれない、と期待することもあったが、それももう終わったことだった。返事は無い。ヒューゼリオもそれをきちんと理解していた。
おもむろに立ち上がり、書庫の奥へと進む。地下書庫の入り口とは対角に位置するその場所の扉。開くことに、躊躇は無かった。
「ウィリアローナ、そろそろ部屋で寝るんだよ。本はまた明日。目覚めてから読めば良い」
彼らはきっと逃げたりしないから、とヒューゼリオが言う。
人形は、すっ、と本から視線をあげた。本を閉じ、ふわりと椅子から立ち上がる。
そうして、ヒューゼリオの方を見ないまま、彼が開いた扉の向こう、ふかふかの寝台へと突っ伏した。
「ちゃんと毛布にくるまるんだよ」
突然こちらの言葉に反応したように見えるから、なおさら気味が悪いのだ、とヒューゼリオはため息を吐く。始めの頃は、母とともにおっかなびっくり世話をしていたのだが、母が忙しいのもあり、いつしか一人でこなすようになっていた。
上の弟ゼルクは、きっとそのうち彼女の存在を知るだろう。奇妙な少女を気味悪く思い遠ざかるか、興味を引かれ傍らに残るか、実際なってみなければわからないが、きっとあの兄によく似た弟なら、ウィリアローナの傍らに残るだろう。ヒューゼリオとは違い、明るくのびのびとした上の弟の言葉は、ウィリアローナに届くだろうか。
それよりも、いつか彼女が心を開き、感情を見せてくれることはあるだろうか、とヒューゼリオは思う。しかし、このまま彼女の面倒を見るのも悪くないかもしれなかった。
どちらでも、構わない。彼女がここに居るなら。
それは例えるなら、拾った動物を大切に保護する感情に似ていた。寄る辺が自分にしかなく、いつか世話するその手を認識したときに、一番に懐いてくれることを願うように。
およそ人間らしい所がない彼女に対する想いは、それだけで十分と言えただろうし、それ以上の感情を持つにはある種の異常と言える性癖が必要だったかもしれない。どちらにしろ、ヒューゼリオ自身幼すぎた。
いつか、深く傷ついたというその傷が癒えたとき、ウィリアローナになんと言葉をかけようかと、ヒューゼリオは夢想する。
「お休み、ウィリアローナ」
ひとつ、声をかけて、ヒューゼリオは地下室から地上へ続く階段を上がっていく。
地下書庫の部屋では、寝台に突っ伏していた人形がぴくりと身体を震わせた。
暁の瞳をぼんやりと輝かせて、ゆっくりと閉ざされた扉を振り返る。
向き直り、もそりと寝台にのった。緩慢な動作で毛布を抱きしめ、座り込んだままぼんやりと宙へと視線を投げ出す。
「……」
小さな声が、その場に響いた。
「ウィリア」
一言口にして、口を閉ざす。きゅ、と唇を引き延ばし、大きく息を吸う。
「ヒュー……?」
きょとんと暁の瞳が瞬いた。こてんと首が傾き、ふ、と瞳から光が消える。
「かあさま、今日は、どこにもいない」
ぱたりと寝台に横たわった人形は、片手で毛布をさぐりよせ、器用にくるまり、静かになる。
やがて、穏やかな寝息とともに、書庫には完全な静寂が訪れる。
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雑記
続きでした。「3」であってます。間違ってません。4じゃないです。3です。これを切らずにUPしようとしてました。
公爵家、兄弟仲は良いです。