24.お願いですから。と、姫君は口にした。
真正面から向けられる視線を、感じている。
陛下はわたしに何も言わない。ただ、わたしが何をするつもりなのかを黙って見ている。それが重圧となって、のしかかっているような気がした。
わたしは俯いたまま、陛下の袖を握る手に、力を込める。陛下は、わたしに何かを言おうとしていた。何か言われる気配を感じたのに、陛下は思い直したのか、言葉をかけられることはなかった。
寝台に腰掛ける陛下と、向かい合って立つわたし。袖を掴む指は、強ばって外れなかった。あぁなんでわたしはこんなことをしているのだろう。
「へいか」
二度目。けれど、その続きが出てこない。言うことは決まっているのに。言いたいことはちゃんとあるのに。
暗い寝室。寝台は、侍女が整えてくれた。彼女に事情を話したら、苦笑して「頑張ってください」と言ってくれた。
頑張らなくちゃいけない。
知ってしまったのだから。
「……陛下」
「どうした」
三度目で、とうとう返事をさせてしまう。その声は柔らかかった。極力わたしを刺激しないための、穏やかな声だった。あらためて、わたしは陛下を困らせているのだと思い知る。
抵抗が、できなかった。
十近く離れているというのに、大の男が何をと笑われるだろうか。エリザベートは笑うだろう。オルウィス辺りに知られれば、隠れてたいそう馬鹿にされるに違いない。途方に暮れながらも、エヴァンシークは、目の前に立つ花嫁をまっすぐ見上げる。
婚約の儀をあげてから何ヶ月も経った今、姫君を『花嫁』と言い表すのはおかしいだろう。しかし、エヴァンシークの中で、目の前の姫君は花嫁以外の何者でもなかった。
掴まれた袖口は、振り払おうと思えば簡単にできただろう。それができなかったのは、エヴァンシークが一つ行動を間違えれば、泣き出すように思えたからだ。おそらく、ウィリアローナは自分がどれだけ常識はずれな行動をとっているか自覚している。エヴァンシークが拒絶すれば、そんな自分を恥じて、傷つき、許すことはないだろう。
まるで押し倒そうとするかのように、わずかに体重をかけられる。けれど途中で心がくじけるのか、その力がなくなる。
それを数度、繰り返す。
じれったいと思うと同時に、子どもだ、と内心で苦笑する。無理をするなと言えば良いのだ、このまま、仕事に戻ると言えば。しかし、何をどう言えばウィリアローナを傷つけないのか、エヴァンシークには分からない。
「姫」
呼びかければ、可哀想なほど肩が跳ねた。その反応を見てしまえば、そこからどう続けていいか分からない。
顔を覗き込めば、耳まで真っ赤にして泣きそうに歪んでいるのが見えた。おもわず、手を伸ばす。びくりと、先ほどよりも控えめだが、肩が震える。しかし、ウィリアローナは逃げなかった。エヴァンシークはそのまま腕を伸ばし、柔らかな頬に手を当てる。
「……」
相変わらず、かける言葉は見つからなかった。頬からさらに手を伸ばし、頭を撫でる。
たまらなくなったように、ウィリアローナが両手で顔を覆った。ようやく、エヴァンシークの袖口から、かたくなだった手が外れる。
漏れ聞こえる吐息で、泣くのを懸命にこらえているのがわかる。いったい何を考えているのかさっぱりわからない。そろそろ見切りを付けて執務室に戻るべきなのかもしれない、とエヴァンシークは考えながらも、その場から動けなかった。振り払わなければならない物も無くなったというのに。今度はエヴァンシークの手が、ウィリアローナの頭からどくタイミングを見失ってしまった。
「姫」
もう一度、呼びかける。聞こえているのかいないのか、ウィリアローナは返事をしなかった。見上げたまま言葉をかけることが何故だかできなかったため、膝の上のあいた片手に視線を落とす。
「前にも言ったが」
ちゃんと届くように、言葉を切る。言い聞かせるように、いつか伝えたことを、言葉を変えて繰り返す。
「私は、姫に優しくありたい」
息をのむ音に、言葉が届いたことを知る。ぎゅっと膝の上で拳を作り、顔を上げた。
脳裏をよぎるのは、閉じ込められ、奪われ尽くされた父の妃たちだった。
「姫を不幸にするために、この国へ招いたと思いたくはない」
ゆるりと、ウィリアローナの顔を覆っていた手が外れる。一度覆い隠された表情が、泣き濡れていなかったことに心の底からほっとして、ウィリアローナの頭から手を下ろす。そうして、エヴァンシークは次の言葉を口にするため口を開いた。
「知っています」
しかし、わずかに開かれた唇から、小さな声が滑り出た。
「陛下が、優しいことは知っています」
ささやくような小さな声だった。
「優しくされてきたと、思ってます。わかってます」
でも、とウィリアローナの声がかすれた。喉が引きつるのか、震える細い手が胸元に当てられる。
「わたしは、ここに来てしなければいけないはずのことを何一つしていません」
小さく息を吐く。そんなことを気に病むとは思ってもみなかった。エヴァンシークの吐息を何と思ったか、ウィリアローナが口をつぐむ。しかし、ウィリアローナにいったい何ができるのか、とエヴァンシークは首を傾げた。考えるより先に、問いがこぼれる。
「何がしたい」
虚をつかれたようで、ウィリアローナは返事が遅れた。その隙をついて、エヴァンシークは続ける。
「まだ、姫は私の妃ではない」
婚儀の日取りが、まだ話し合いにものぼっていないと知れば、ウィリアローナは怒るだろうか。一度そう思ったが、否定する。そうですか、と、受け入れるだろうと。
婚約の儀から半年後の、結婚の儀。ウィリアローナが嫁いできた当初は、そういった予定をニルヴァニア王家に伝えていたはずだった。
しかし、実のところ正妃にするか側妃にするか、と言う根本的な問題から平行線が続いている。エヴァンシークはどちらでも良い。国に春を呼び私腹を肥やしたかった者は正妃を望み、自らの親族を正妃に据えたい者は側妃にと望む。誰も彼も勝手だった。
ヴェニエールの所有の証となった指輪はウィリアローナの指にはまっているし、いっそこのまま婚約者のままでも良いのではないかと、エヴァンシークは考えていた。
いざ、ウィリアローナが逃げ出したいと思ったときに、簡単に解き放てるように。
口で言うだけは簡単で、実際そんなことになれば解き放つことなど不可能だとわかっているが。
「妃でなくとも」
つらつらとエヴァンシークが現状から思考を逸らしていると、ウィリアローナの小さな声によって引き戻された。瞬いて、首を傾げてみせる。きらめく暁色の瞳は、エヴァンシークをじっと見つめ上げていた。
ぎゅ、っと、唇を一度、噛み締めるのが、見えた。
「それでも」
知ってしまったんです。と小さな声が続く。何を知ったのか。それを問う前に一歩、ウィリアローナが距離を詰めてきた。
たった一歩、その距離の近さに、エヴァンシークは思わず上体を反らす。しかし、ウィリアローナはそこでとどまらなかった。思い詰めた表情で、そのままエヴァンシークの腕の中に飛び込んでくる。
「姫」
焦って口をついて出た言葉は、静止の力を持たなかった。少女一人支えることくらいわけもないはずのエヴァンシークは、しかし虚をつかれ押し倒される。なにをする、という乱暴な言葉を口の中で噛み砕きながら、起き上がろうと身じろぎすれば、エヴァンシークの胸の上で突っ伏しているウィリアローナの身体が強ばるのを感じた。
「お願い、します」
縋るような声に、耳を澄ませる。そっと顔を上げるウィリアローナに、エヴァンシークはなるべく優しい視線を向けるよう努力した。
「お願い、します。だから、ここで」
見るからにいっぱいいっぱいの様子で、それでもようやく、ウィリアローナはうちにためていた言葉を口にした。
「ここで、寝て、ください」
いったい、ニルヴァニアからやってきたお姫様は、何を考えてこんなことを言ってくるのだろうかと。
読んでいただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
誤字脱字他気になる点がございましたらご一報いただければと思います。
雑記
じれったいなぁ。テンポ悪くてすみません。8月中に二章終わらすつもりだったのですがもう今日最終日じゃないですか。
計画通りに進みません。
このお話、難産と比例して長くなっているような。気のせいでしょうか。