4.卑屈な思いと翡翠色の少女
何か起きるでもなく、平穏な日々が静かに過ぎて行く。わたしはこの大きな国の大きなお城に、こうして王国から置き去りにされ、忘れられて行く。
……忘れて、くれるかしら。
忘れられたほうがよっぽど良い気がした。時折思い出して、何気ないお茶会での話題にされるくらいなら。
間近で聞こえた小鳥のさえずりに、顔を上げた。テラスへ続く窓は開かれており、暖かな日差しとともに風がふわりと入ってくる。さえずった主は見つけられなかったが、なんとなく穏やかな気分になって微笑んだ。
先ほどまで読んでいた本を閉じ、机の上に置く。毎朝のことだが、ほんの少しだけ言い合いをして今日も獲得した一切いじっていない黒髪を背中に流す。この件に関してだけ、侍女は食い下がってくる。平穏な日々に置ける唯一の荒事(と言うほどでもないけど)である。手がわきわきとうごめいたのを一瞬見てしまったので、今後も是非遠慮しようと心に固く決めている。
柔らかい椅子の上で、凝り固まってしまった背をのばし、首をまわし、腕をまわし―——、やってしまったと動きを止めた。
「……」
おそるおそる振り返り、つけられた侍女が一人もいないことにほっとする。人数がそろったのか、最近は気がついたら控えていることが多い。全くいないというのも珍しいが。
そういえば、もうすぐお茶の時間だ。だからだ。
とにかく、先ほどの淑女あるまじき一連の動作が見られなくてよかったとわたしは大きく息を吐いた。リンクィン殿下の顔を潰すわけにはいかない。
まだ、こちらに滞在されているはずだけれど。会っていない。というか、一歩外に出れば確実に迷う自信がある。何も求められていない花嫁。いなくなったとして果たして探してもらえるかどうか。ひとまず部屋で一日過ごしている。うっかり人気のいない所へ迷い込んでしまい餓死する危険はぜひとも避けたい。
リンクィン殿下が気を利かせて持ってきてくれた書物を読みあさり、お茶を楽しみ、ひなたぼっこをして、ご飯を食べて、湯を浴びて、眠る。日によってまちまちではあるが、大体がそんな感じだ。
実際は、書物を読んでいるだけでも良いのだけれど、お茶の時間はなぜだか毎日こなしている。
不思議なことではあるが、何も求められないにしてはお茶の時間だけはきちんと勝手に何も言っていないのに侍女が用意する。お茶が飲みたいと言えばお茶の時間でなくても用意はしてくれるが、お昼を過ぎて少しした時間帯になると、侍女はそわそわとし始めるのだ。食堂でお菓子のあまりでもわけてもらっているのではないかと推測してみる。
お茶の時間に侍女を誘ってみるという発想はあったが、その昔ハプリシア様に笑われたことがある。曰く、そんなことする必要はないのよ。と。
なぜ? とわたしはハプリシア様に問いかけた。それではなぜ、わたしはハプリシア様とこうしてお茶を飲んでいるのでしょう? と。当時も、わたしはハプリシア様のお世話していたのだ。
その時ハプリシア様は、言った。
『だって、ウィリアは王族だもの』
わたしはその時、思わず笑ってしまった。なぜって、王族に連なることのできない末端が、わたしであるから。何の冗談をおっしゃっているのですと、わたしは微笑んだのだ。ハプリシア様はそれでも『うふふ』と微笑んだのだった。
『わたくしは確かにウィリアのお姫様だけどね』
あの続きはなんと言っていただろうか。それとも、言葉はあれだけだっただろうか。
遠すぎてもう、思い出せない。
「う、いっ」
その時、奇妙な声が聞こえた。
瞬いて、首をひねる。何の声だろう。振り返ると、ティーセットののったワゴンとともに、一人の侍女が立っていた。なんだか顔が真っ赤だ。大丈夫だろうか。倒れたりしてもらっても助けてくれる人を見つける前にわたしが迷う。
「ウィリア、ローナ様っ!」
つっかえつっかえ口にされたのは、どうやらわたしの名前だった。もう一度瞬いて、首を傾げてみせる。侍女はますます赤面した。
あらやだ。面白い。
じゃなくて。おもわずわたしはわたしに突っ込みつつ、「なんでしょう」と発言を促してみた。と同時に、立ち上がって午後のお茶を楽しむためローテーブルへと移動する。
侍女はええととつっかえつつあちらこちらへと視線を巡らせる。暗記していた台詞が頭から飛んでしまったように見える。
発言を待つ間、わたしはただ黙ってじっと侍女を見ていた。栗色のふわふわの髪に、とろりとした翡翠の目。きれいな瞳。わたしが欲しかったもの。こんな、不吉な、赤みがかった紫などではなくて。
「は、初めまして。今日からウィリアローナ姫様のお世話をさせていただきます、ミーリエルと申します。どうぞエルとお呼びください」
わたしの暗い感情に気づかず、彼女は一礼した。
侍女の服をまとった少女。立ち居振る舞いから受け取る印象はそんなところだろうか。見た通りに浮き足立っていて、大丈夫だろうかとこちらが心配になってしまう。
この場合の心配は、「自分の世話をきちんとしてくれるだろうか」ではなく、「そんな風で、この先誰かに粗相をしたりしないかどうか」であるけれど。
「それから、この部屋の侍女の代表も務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げられた。侍女代表って、ますます心配になる。と、それよりも。
(侍女代表まで、ハプリシア様じゃないわたしをつっぱねたってことかな)
わたしがこの部屋にきた時点で侍女代表が待機しているものだろう、普通。ということは、目の前のミーリエルはかき集められた人員の一人、ということだ。
ほんとはもっと別の人のお世話していたのだろうに。
思考はそこで止めた。これ以上はろくな言葉にならない。これから仕えてくれるというミーリエルに対しても失礼だった。
自分に対し、呆れる。ため息を一つついた。
「わたしはウィリアローナ。シュバリエーン公爵の第四子、ウィリアローナ・ヘキサ・シュバリエーンです」
以前出会った見習い騎士、ヘイリオと同じように、ミーリエルはきょとんと瞬いた。スレていない、まっすぐな翡翠色の視線に、卑屈な感情から八つ当たりしないようにしなければと思う。
わざわざ黒い感情にさらすなど、一番避けなければと。
だから、わたしはできる限りの笑顔を浮かべた。どうすればこの卑屈さが改善されるかは分からないけれど、でも。
「これから、どうぞよろしくお願いします」
自分が嫌いになるような自分にならないだけの努力はしたかったから。
戻れるかどうか分からないあのシュバリエーン家の屋敷での日常を夢見て、それまでどうか一緒にいてくれればと。
わたしの祈りのこもった言葉に、はい! と、少女は元気にうなずいた。
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