6.抱えているものの存在とか
長椅子に座る皇帝陛下が、自身の左隣を示した。そして、机上に置いた髪留めを指差す。
言いたいことを察して顔をしかめた。
「リゼットと、みんなには呼ばせているのですが」
髪留めを引っ掴んで、長椅子に引き返す。差し出された大きなエヴァンシークの手の上に手の中のものを投げ、背を向けて長椅子に座った。左肩を、長椅子の背もたれに預ける。
「乱暴だな」
小さくつぶやかれたが、エリザベートは返事をしなかった。髪をとられる感触に、うっかり顔をのけぞらせないようあごを引く。
「そのような振る舞いで、この城の侍女の程度が知れると言うものだ」
そこまで言われれば、エリザベートも言い返さずにはいられなかった。拗ねた調子を隠そうともせず、言い返す。
「あなたの前でだけですよ。良いじゃないですか、完璧な侍女は、持ち主の前でだけ肩の力を抜くのです」
「侍女、か」
「侍女です」
なんの含みもなく楽しそうに笑い出すエヴァンシークを放って、エリザベートは目を閉じた。この人は、ウィリアローナの前でこんな風に笑うことなどないのだろうと思う。この人は、あのお方の前でだけ、想像もできなかったほど途方に暮れるのだ。大切にしようと心に決めていた花嫁が、まさかあんな思案深く消極的な娘だとは予想もしていなかったのだろう。お姫様と言う人種が、誰しも強気で高慢で自信にあふれているものだと、あの人は思い込んでいたはずだから。
そして今頃、オルウィスが死にそうになりながら皇帝陛下を探しているのだろうなと。思考の向きを変える。そもそも、無茶をして時間を無計画に空けたりするから寝る暇もないほど政務が忙しくなるのだ。自業自得だ。
ただ優しくしようと思ってるだけの分際で、中途半端に手など差し伸べるから。
「ウィリアローナ様が、可哀想だ」
今度の独り言は、聞かせるつもりがなかった。笑っていたエヴァンシークは、ん? と笑うのを止めたが、気づかない振りをして何の反応も返さない。
やがて、エヴァンシークがエリザベートの髪を整え始めた。
「伸びたなぁ」
「伸びましたよ」
いつ頃の長さと比較しているのか知りませんが、とエリザベートは付け加え、伸びました、と繰り返す。
「正確には、伸ばされました、ですけど」
「何か問題でも」
大有りですよ、とつぶやきながら、「仕事中、じゃまですから」とエリザベートは肩をすくめた。
「良いだろう。似合っている」
「嬉しくないですよー」
そのうち切りますので、とエリザベートは宣言して、口を閉ざす。しばらく髪をいじられるままにしていると、エヴァンシークの満足そうな声がした。
「ほらできた」
壊さないように軽く手で触って確認する。
「……さっきと全然違うじゃないですか」
「あいにくこれしか形にできない」
ずいぶん低い位置でまとめられた髪に、まぁ良いか、とエリザベートは長椅子に正しく座り直した。となりの陛下を横目で見る。
王として産まれ、育てられ、王にしかなれなかった、王様。この人は時折そんなことを口にして、自嘲する。
民はきっと知らないだろう。てっぺんで、力強く、気高く、旗を掲げるその人の心など。
たった一人の侍女を、心のよりどころにしていることなど。
「オルウィス様も、可哀想です」
エリザベートの小さな声は、聞かせるつもりもなかったおかげで皇帝陛下の耳に届くことはなかった。
何か言ったか、とエヴァンシークはエリザベートを見て、エリザベートはいいえと首を振る。
「ウィリアローナ姫、可愛い方ですよ」
「いきなり何の話だ」
「陛下の心もきっと慰めてくれますよ」
真顔で言えば、エヴァンシークはエリザベートをじっと見てきた。わずかに眉が寄っているように思える。
「……エリ」
「はいエヴァン」
「姫君と二人きりになるな」
突然の指示に、エリザベートはきょとんと瞬く。
顔を右へ向け、じーっと見つめてくる菫色を見つめ返して。
「えー!」
盛大に不満を返した。
「だぁって陛下じゃん! 姫様付きになれって言ったの! 直々に急に決めさせた侍女頭になったばっかりの不慣れなエルに無理矢理! 陛下付きから姫様付きの変更届ねじ込んで!」
声が大きい。と小さく指摘され、慌ててエリザベートは声量を下げる。けれど口を尖らせて、不満は止めなかった。
「どんな輩が春をつれてきた聖女さまに取り入ろうとするか分からないからって。虫払いはもういらないってことですか?」
「……いや」
やっぱりね! とエリザベートはがっくりとうなだれた。
「その場ののりと勢いで指示出すのやめてください」
「冗談のつもりはないのだが」
余計悪いです、とエリザベートが噛み付く勢いで言い返す。
「一度指示されたからには、しばらく姫様の側に付きますよ。離れた途端何かあったらたまったもんじゃない」
「……」
エリザベートの真剣な顔に、エヴァンシークは軽く目を見張る。そうか、と小さくつぶやいて、「……よろしく頼む」と口にした。
「姫が笑っていられるように、力を貸してほしい」
その言い方に、エリザベートは呆れた声で、言葉を返す。
「あなたがもう少し考えを改めれば、きっと今にも姫様は幸せでいられますよ」
まぁ、無理でしょうけれど、とエリザベートは立ち上がって、広い机を指し示す。
「ほら陛下。仕事、してください」
参考資料とは名ばかりの、分厚い本の合間に置かれた書類を見て。
皇帝陛下は、苦笑する。
そんな二人。
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