1.エリザベート
朝目覚めて、頬に日差しの温かさを知り、驚きと嬉しさと入り交じった感情を胸に、信じられない思いで窓を開いた。その瞬間の感動を、どう言葉にしたらあの方に分かってもらえるのだろう。
どんなに感謝しても、したりないというのに。
幸せになっていただきたいと、思うのです。
大切にして差し上げたいと、思うのです。
この手を取ってくださらずとも、どうか、どうか。
願わずには、いられないのです。
「リゼット? それ、本当?」
春はまだ遠いと思っていた、あの日。遠いどころか、花が咲き乱れる光景を、生まれ育ったこの国で見ることは叶わないだろうと、この国の誰もが思っていた、あの頃。
皇帝陛下が婚約されるという話を、ミーリエルは耳にしたのだった。
「本当だよーん。この国に、もうすぐ春が来る。喜ばしいことだね?」
使われていない客間の掃除のため、割り振られた部屋で二人は手を動かしながらも口を動かしていた。
後にウィリアローナの髪結い専門となる金髪の侍女エリザベートは、ミーリエルを振り返ってくふふと笑う。目を向けていないにもかかわらず、手元の掃除がみるみる進んでいくため、ミーリエルは気味悪くその光景を横目で見ていた。
ミーリエル達がまかされるのは、遠方の領地からやってくる貴族が、城へ滞在する際に使用する客間だ。王族の方々が使用する部屋などよりは調度品など劣るけれど、それでも疎かにはできない場所である。
休憩時間でもない仕事中に、手を止めてお喋りなどもってのほかであるため、エリザベートの表情を伺いながら言葉を交わすことは叶わない。
それでも、気になることであるし、知らない人物の前ではこの娘ちっとも口を開かないのだ。気になることを呟いたなら、今ここで聞いておかなければ後々後悔することになる。
いつだってエリザベートがなにか思わせぶりな言葉を口にするのは、ギリギリになってからなのだ。
「……例の、ハプリシア様?」
「そのとーりー。あは、やっぱり、覚えてた?」
覚えていたも何も、エリザベートがミーリエルに言ったのだ。
曰く、
『ニルヴァニア神聖王国のハプリシア王女は、この国に春をもたらさない』
ヴェニエール帝国は、冬に閉ざされた国だ。一年を通しての四季はあるし、作物が全くとれないということもない。ただ、花が一斉に咲き乱れる光景を見ることは叶わない。
そのことが侍女の詰め所でうっかり話題に上って、みんなでため息をついていた時、ミーリエルは言ったのだ。友好国であるニルヴァニア神聖王国の姫君がくれば、きっと何もかもよくなると。
その場は明るくなり、その話題は彼方へと流れていったのだけれど。
休憩を終えエリザベートと客間の掃除中、エリザベートが言ったのだ。神聖王国の王女がきても、この国に春は訪れない、と。
その時は、仕事に追われてそのまま鵜呑みにしてしまったのだが。
花の生けられていない花瓶を手に取り、丁寧に拭きつつ、ミーリエルは寝台の敷布を整えているエリザベートに問いかけた。
「あれ、どういうことなの?」
「そのままの意味だよー?」
肩をすくめて見せる。作業をしながらであるため、ミーリエルもエリザベートをずっと見ていたりはしない。エリザベートは、手を動かしながらもミーリエルを見つめることは多々あるが。エリザベートは器用で、ミーリエルは丁寧なのである。
答える気配のないエリザベートに、ミーリエルはぷぅ、と頬を膨らませる。
「じゃぁ、陛下の婚約って話はどこから持ってきたのよ」
「陛下から」
「へぁ?」
驚きのあまり、ミーリエルの口から奇声が出た。慌てて口を閉ざすも、エリザベートは楽しそうに笑っている。ミーリエルの手元が狂いそうになっているのを、小さく注意するにとどめた。
「春を運んでくるお姫様を、ヴェニエールはニルヴァニアへ求めることにしたんだって」
「そうなの……」
相槌を打ちつつ、その言葉を理解した時、ミーリエルは首を傾げた。
「ん? でも、やってくるのはハプリシア様なのでしょう?」
「そうなってるねー」
エリザベートは何か知っていそうだが、明かすつもりはなさそうだった。ミーリエルはエリザベートの口からすべてを語ってもらうことは諦めて、自分の頭で考えることにする。
「春を呼ぶ、お姫様か……」
それはただの独り言だった。ミーリエルの小さな言葉に、珍しくエリザベートが口を開く。
「神聖王国からの、春を呼ぶ、お姫様」
かわいそうに、と、彼女の口から漏れた気がした。
「まさしく、神様から遣わされた聖女様になるよ」
あの陛下が、まさか女として愛してあげるわけないだろうし。と、まるでミーリエルなどいないかのように、それは間違いなく独り言だった。ミーリエルに対して向けられた言葉ではない。
けれど、ミーリエルは咎めずにはいられなかった。
リゼット、と慣れ親しんだ愛称を呼びかけて、さりげない動作で花瓶をもとあった位置に戻し、そのすぐ側、寝台横の出窓におかれた空の水差しを拭き始める。
「不敬よ。誰がどこで聞いてるか分からないんだから」
水差しを抱えながら、エリザベートを見ていた。敷布をピンと張って折り込んだところで、エリザベートは瞬きをする。長いまつげからぱちりと音が聞こえそうだった。
「そだね。ごめん」
ありがとう、と、エリザベートはミーリエルを見上げて笑う。
時折、エリザベートはうわごとのような独り言を口にする。それは今の所ミーリエルの前だけにとどまっているが、そのうち言ってはならない場で口にしないか、内心ミーリエルは心配しているのだ。胸の内で思うだけにとどまらず、口にしたこともあるけれど、軽くかわされてしまった。
水差しを元あった位置へ戻し、掃除道具を入れた籠へと布を戻して、持ち上げる。
「そもそも、陛下から聞いた言葉を私に明かすことも、本来許されないのではないの?」
「そうでもないよ」
ミーリエルの動作を見て、エリザベートも籠を持ち上げた。今日はこれで客間の掃除は終わりだ。これから籠を詰め所へ返して、それぞれ別の所へ小間使いとして向かわなければならない。
ミーリエルとエリザベートは侍女の詰め所の前で別れた。
客間の掃除をしていたときとは比べ物にならないくらい目が回りそうな忙しさに追われ、夕刻ミーリエルが寮の自室に戻ったときにはへとへとに疲れ果てていた。
(ううう……。あったかくて、甘いもの飲みたい……。そうだ、この間兄が送ってくれた砂糖菓子が……)
ヨロヨロと棚の開きへと手を伸ばす。今日一日を振り返ると、当然のように、エリザベートの意味深な言葉を思い出した。
(春を呼ぶ、聖女……)
一体何のことだろうと、ミーリエルは首を捻って考える。しかし、知らないものは知らない。神聖王国は神様から愛された国で、神様から王位を授けられたという王家であるから、そういうことだろうか。
神様とつながりのある王国から、冬に閉ざされた国へ春をもたらすお姫様。
なるほど、確かに物語が一つでき上がりそうな一節になる。
けれど、今までそんな物語など聞いたことがない。
一度気になったらいてもたってもいられず、ミーリエルは部屋を出た。貴族の子女も暮らすことになるこの寮は、それなりに美しい。軋まない廊下をたどり、エリザベートの部屋の扉を叩いた。
「はーい」
「私。ミーリエル。ねえ、リゼット、晩ご飯でも一緒に取らない? 聞きたいこともあるの」
軽い物音がして、エリザベートが顔を出す。
「昼前の、客間でのこと?」
髪を下ろした彼女は、長い金髪をさらりと揺らして、でも駄目だよ、と首を振る。
「これから用事があるから」
「……そう」
残念、と肩をすくめてみせて、ミーリエルは複雑な思いでエリザベートを見る。
ミーリエル同様今日の仕事を終えている彼女は、侍女の制服を脱ぎ、ズボンを履いている。騎士団の制服だなんだのの、古着をもらっているそうだ。男装、とまでは行かないが、エリザベートは好んで大変目立つ恰好をしている。
ちょっと待って、とエリザベートは一度部屋に戻り、すぐにまた顔を出した。ちっとも気取らない恰好でそのまま部屋から出てくる。
「食事の誘いは嬉しいんだけど、今夜はごめん。先約があるんだ」
そう語る様子はなんだかとっても嬉しそうだ。そうなの、とミーリエルは複雑な思いのままうなずいた。
「うん。ごめん。それじゃあね!」
手に何も持たず、年相応に細いけれどすらりと長い手足を奔放に動かして、のびのびとエリザベートは寮を出た。それを、ミーリエルは部屋の前の窓から見送る。
知っている。彼女が、明け方近くまで戻ってこないことを。
知っている。彼女が、城へ向かったことを。
エリザベートが、直接陛下から情報を受け取れる理由は何か。
「……」
自然、溜息が漏れた。いつまで続けるの、と思う。直接事情を聞いたことはない。ミーリエルがエリザベートと知り合ったときから、彼女は時折、夕方仕事が終わってから、城に向かっていた。
自分より幼いか同じくらいの年頃の娘が、そもそも日が落ちてから一人で出歩くべきじゃないのに。
何を言っても届かないことはもう分かっている。けれどエリザベートはミーリエルの憧れなのだ。自由で、器用で、物知りで。
素敵な女の子なのに。
陛下の婚約とあわせて、ミーリエルは思いを馳せる。
聖女だってこんなの、許しはしないに決まっているのに。
読んでいただきありがとうございました!
誤字脱字などありましたらご一報いただければと思います。