2.やさしいやさしい、第一王子殿下様
ニヤニヤと笑う第一王子殿下を睨みつけ、わたしはどうにかお心を変えていただけるよう抗議した。
「無理です。絶対無理です! 大体わたしなどがハプリシア様の代わりを務められるわけ無いでしょう!!」
伸びてくる第一王子の手を、わたしは半ば無意識に避けた。避けてから、しまったと唇を噛む。
「ウィリア」
名を呼ばれたが、顔が上げられなかった。第一王子殿下は苦手だ。探るような目で、見てくるから。にやりと、わたしを試すように、笑うから。
「僕のことを、先ほど『第一王子殿下』と呼んだそうですが?」
間違った呼び方では無いから良いではないか。唇を強く噛み締めると視界に王子の手が入り込み一気に体が強張った。
顎をとらえられ、唇に触れられる指の感触に、全神経が集中する。
「ウィリア?」
めまいと震えが同時にやってきた。
呼びかけたあと、何事かを言いかけて、王子殿下は口を閉ざした。気が変わったかのように、困りましたね、と付け足すような一言を口にする。
「なぜ、私の言いつけを守らないのです」
「守って!」
「ないでしょう」
さわやかに微笑まれた。いつもと違う、あの、にやりといったわかりやすい企みの笑みではない、余計にたちの悪い笑顔。
「名前で呼べと言ったはずですが」
「それは」
言われ、ましたけど。いやいやだめでしょ、おうじさまでしょうあなた。そんな一介の侍女にそんなこと許してどうなさるおつもりなのですか!
ぐぬぬとわたしが口ごもると、唇をなぞっていた親指が頬を押した。
「なら、言った通りにしなさい。忘れたなら教えてあげましょうか?」
うなだれて、頭を下げる。くしゃりと頭をなでられ、王子殿下はわたしから一歩はなれた。
「皇帝とは、僕も面識があります。気に入らなければ王国に突き返すでしょう」
そもそも、と王子殿下は続けた。
「今回の婚姻は、同盟の証とは言っていますが、こちらが申し出た条件ですし」
わたしは首を傾げた。我が国ニルヴァニアは歴史があり、資源が豊かだが軍事力が低く、帝国ヴェニエールは比較的新しい国で、軍事力の高さは大陸一だと記す書物もあるほどだ。海に面しているため海産物は豊富だし貿易もし放題ではある。そうすると、ニルヴァニアと同盟を結ぶ必要など無いように思えるが、結局はニルヴァニアの所有するいくつもの鉱山と、その加工技術は魅力的らしい。
もしもニルヴァニアが近隣諸国に狙われた場合、ヴェニエールが軍を派遣する。そのかわりに、ニルヴァニアはヴェニエールと懇意に貿易をする。この同盟で平和がもたらされるのは、利が大きいのはどう考えてもニルヴァニアだ。ヴェニエールは、ニルヴァニアと貿易などしなくとも十分強国の一つに数えられるのだから、釣り合いが取れていない。だから、歴史のある血筋としてニルヴァニアの王女が求められたのだと、そう思っていたのだけれど。
「かつて、旧王都がヴェニエールに奪われたのは、知っていますね」
王子の言葉に、声を出さずうなずく。
「その地には、我が国の王家にのみもたらされる加護があります。今現在は帝都となっているその場所です」
気がつけば、王子の手がわたしの髪に触れていた。侍女らしく、一つにたばねた髪の端に。
「だから、ニルヴァニアは王家の血をかの地に残したかった。今までずっと。やっときた機会なのですよ。この同盟による婚姻という話は」
「だからといって、わたしなどが行ってどうするのです。王族の末席に連なることもできないほど遠縁の、わたしが。ハプリシア様のかわりにはなれませんと、何度言えば」
王子が大きくため息をつき、わたしは途中で言葉を切った。じっとみつめ、首を傾げてみせる。
「本当に公爵家で育った娘ですか、貴方は……。もうすこし不遜な態度は取れませんか。こんな話では貴方のやる気は引き出せないということですか」
「いきなりそんな言いがかり付けられても困ります」
「なら、嫌われるようなことをしてそうそうに帰ってくるのですね。婚約はひと月後ですが、婚姻まではまだ時間があります」
父はがっかりするでしょうけど、と王子は言い、もう一度わたしの頭をなでた。そして、馬車に押し込む。
「ウィリアローナ。我が国は、貴方の幸福を願っている。それをお忘れなきよう」
「ムリです」
こぼれた言葉に、慌てて口元を抑えた。俯きかけた動きを止めて、そっと王子を仰ぎ見る。
「幸福になど、なりたくありません」
口元を抑えたまま、呟く。王子はわずかに痛みを耐えるような顔をして、「それでも」と囁いた。
「ヴェニエールの皇帝は、悪い男ではないですよ」
わたしは、馬車の扉に王子の手がかけられるところをただ眺めていた。御者にやらせれば良いものを、彼が自ら。
「リンクィン殿下」
囁くような呼び声だったが、王子は手を止めた。
「わたしは王国に、いたいです。ずっと、あの国にっ」
のどが干上がったような感覚に、あぁ、決壊する、と思った。けれど王子の前では、どうか。
「ウィリアローナ」
呼びかけとともに、扉は閉められた。
「畏れることは、何も無い」
こぼれ落ちた涙を拭いながら、わたしは返事ができなかった。あの王子は、全てわかっているのだ。わたしが泣きそうだったこと、それを見られたくないこと、考えていること、すべて。
あの王子が、大の苦手だ。
不遜な態度、見透かしたような瞳、反則のように求めている時だけ優しくなる、あの、頭のいい男が。