17.突きつけられる真実の片鱗
背後からやってきた香りに、わたしはページをめくる手を止めた。
「最近なんだかご機嫌ですね」
楽しそうな声に、振り向いた。
主に髪いじりをしてくれる金髪の侍女が、にっこりと微笑んでいた。
「おはようございます。ウィリアローナ姫様」
「おはよう……、今日は」
「今日も、なるべくゆるめの髪型で、ですね」
その注文しか付けないため、当然のように覚えられた。髪によって頭皮が引っ張られる感覚は、好きじゃない。
「でも肩にたらしていると本を読むとき邪魔でしょう。今日はまとめてみましょうか」
「壊れやすい留め方は……」
「なんです? 大胆に動き回るご予定でも?」
聞きながら、彼女は笑みを深くする。あぁ、この笑顔は知っている顔だ。もう、と口を尖らせる。
「庭に、でるだけですよ」
「陛下とでしょう?」
あらやだもう。と彼女は一人楽しそうだ。乾いた声が漏れてしまう。
「ミーリエルもオルウィス様も、大変ですね」
そうみたい。と、わたしはうなずいた。
突然深夜に、皇帝陛下は訪れたのだ。わたしが寝室に引っ込んで、ミーリエルも下がった、そんな夜遅く。非常識だとハプリシア様なら、眉をひそめるような。
それも唐突すぎる、「明日の昼間、庭園を歩かないか」という内容で。
ぽかんと呆気にとられつつ、思わずうなずいてしまった。ミーリエルがそれを知ったのは今朝で、わたしの着替えの手伝いを終えると、慌ててオルウィス様とやらに確認をとりにいった。
それで彼女は今、ここにいないのだ。
「今日じゃないといけない理由が、あるんですかね」
ね? と微笑む金髪の侍女。最近思うことなのだけれど、この侍女はいつだって訳知り顔で、実際沢山のことを知っている。
「あなた、本当にただの侍女なの?」
「ええ、もちろん」
厳密には違いますけど、と一言断って、彼女はうなずいた。
「髪結いしか能がないので、侍女ですと胸をはるには、ミーリエルに悪いですけど」
思わず瞬いた。毎日顔を合わせているのに、そんな事実はたった今初めて聞いた。
「髪結い専門なの?」
「他のことができないわけでは。ただ、髪結いしか行うなと上司から厳命を受けています」
どれだけ他のことが不得手なのだ。上司からそんな厳命を受けるだなんて。
呆れていると、目が合った。思わず苦笑する。
「さて、今日はどんなお話をしながらが良いです?」
侍女は言いながら、わたしの髪に触れる。
丁寧に丁寧に、梳り始めた。
「それとも、お姫様がお話しになりますか?」
「わたしが?」
「胸の内に収まりきらなくなった言葉を聞けるのも、数少ないわたしの役目です」
そんなことを言われてしまえば、侍女に言ったって仕方のない言葉も漏れてしまうではないか。
やめてほしい。
「……。この国が欲しかったのは、古い血脈で、ハプリシア様で、わたしでは、なかったはずなの」
「いいえ、あなたです」
言葉を続ける暇もなく、否定され断言されてしまい、思わず口ごもった。
「ヴェニエールが待ち望んでいたのは、ニルヴァニアのウィリアローナ姫で、間違いありません」
「どうしてあなたが言い切るの」
「さぁ、なぜでしょう」
また、はぐらかされた。
振り向こうとすれば、「動かないでください」と鋭くとがめられ、反射的に口を閉ざす。髪は持ち上げられ、侍女は慣れた手つきでわたしの髪を編み始める。
「夜明けの君」
甘い言葉を恋人にささやく様に、侍女は言った。何のことだろうと、思いつつも、なんだか予測がたって、先を促す言葉がでてこない。
「昔のお話にでてくる、聖女の呼び名です」
聞いていないのに、彼女は言った。
「春をもたらす乙女とも」
「以前もそんな話をしてくれたわ」
「暁の瞳の話ですね」
覚えていてくださったのですね、と、彼女は嬉しそうだった。
「夜明けの君は、冬に閉ざされた国に訪れ、春を呼ぶのです」
彼女は何が言いたいのだろう。思わず額に手をやった。ため息が漏れる。
何が言いたいのか、は、まぁ、分かるけれど。
「わたしがその夜明けの君だとでも言い出すの」
「ええ」
一切はぐらかすことなく、彼女はうなずいた。
「あり得ないわ」
「さぁ、どうでしょう」
「ここにきて、わたしが春を呼んだと、何度か言われている。つまり、帝国が求めていたのは、ニルヴァニアの古い血を持つ者で、その人物は春を呼ぶ。夜明けの姫君は春を呼ぶ。春をもたらす乙女。暁の瞳。ニルヴァニアの初代国王の黒髪。古代紫の瞳」
ばかばかしい。
「それが全部わたしを示すとでも」
「全部自分でおっしゃってますね。さすがです」
ばっと振り返ると、にっこりとされた。できましたよ。お似合いです。と、両の手のひらを見せられる。
信じて疑いのない表情をしている。まっすぐな目を。
「あなたは誰なの」
「ちょっと物知りでしょう」
立ち上がりソファ越しに向かい合った。自然と見る目が厳しくなる。険しい表情をしているつもりなのに、侍女は涼しい顔で笑っている。
その奇妙さに、ようやく違和感を覚えた。
「あなたは、誰なの」
同じ問いを繰り返す。怖いとは思わない。ただひたすら、違和感に身がすくむ。
「ねえ……」
「エリザベート!」
扉が開く音は小さく、けれど室内の状況を確認した瞬間慌ただしい入室音に、わたしの意識がそちらへずれる。ミーリエルだった。
「あなた、ウィリアローナ姫様に何を」
呼び止める間もなく金髪の侍女は身体を翻し、ミーリエルの脇を通って、
「少し話していただけよ。お姫様を退屈させるわけにはいかないじゃない?」
退室していった。
混乱したまま呼び止めることもできず、わたしはそれを黙って見送るしかない。困惑顔で固まっているわたしに、ミーリエルが慌てて駆け寄った。
「ウィリアローナ姫様。あの子に何を言われても、本気にしてはいけません」
肩をつかまれ、幼い子供に言い聞かせるようにまっすぐにわたしの目を見て、ミーリエルは言った。
「いつも、難しい問いかけをしてくるのです。言葉遊びのような。人の覚悟、貫こうと思ったものを、試すのです」
最近は、そういった場面を見なかったのですけど。と、ミーリエルはため息をついた。
「ご不快な思いをなさったみたいですね」
「いいえ」
いいの、とわたしは言った。確かに、よくわからなくて困惑したけれど。彼女の言葉は興味深かった。信じているものを否定しようとしても、きっと通じないのだと思うと寂しいけれど。
「春なんて、呼べるはずがないのに」
そんな、素晴らしい存在であれば良かったのだろうけれど。
いらないと言われれば何も言わずに祖国に戻ってみせるから。
自ら名乗り出ることはできないけど。
見抜けなかった人たちにも責任はあるでしょう。
「ねぇ、ミーリエル」
このあとで、陛下にも言おう。
はい、と茶色の髪がふわりと揺れた。
「偽物でも、許してね」
くしゃりと、ミーリエルの表情が歪んだ。
「また、そんなことをおっしゃる。やめてください。わたしはもちろん、陛下も、悲しみます。これから、お会いになるのでしょう? そんなこと、言わないでくださいよ」
陛下が荒れると、オルウィス様が大変なのですからと。ミーリエルは付け足した。
小さく笑んで。ごめんねと呟く。
ゆるしてね、と。わたしは、祈るようにささやいた。