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16.春の女神



 男は……じゃなくてエリは、私をつれて少し平原を見渡した後、不可侵の森へと飛び込んだ。私が止める隙もなく。

 不可侵の森は鬱蒼としていて、歩くのもままならない。戻りましょうよ、と私は言うのに、エリは聞いてくれない。

「ねぇ、エリ?」

「なんだい」

 なぜ、彼はこんなにも嬉しそうなのだろう。

「何がそんなに楽しいのよ」

 しっかりと手を握られたまま、私は問いかける。うん、と彼は頷くだけで要領を得ず、もう、とほおを膨らませる。

「エリ!」

「君に会えたことが嬉しいんだ、と言ったら?」

「何を馬鹿なことを言っているの」

 そうなるでしょう、と彼は笑って、私の手を引いた。

「エリと名乗って、エリと呼ばれることが嬉しい」

 彼は進行方向を向いたまま、そう言った。何を言っているの、と聞きたかったけれど、その前をまっすぐ向いたままの横顔があんまりにも真剣だから、茶化せなかった。

「……本気で言ってる」

「まあね」

「私には、わけが分からないわよ」

 いいんだ、と彼は微笑む。私が通りやすいように時間をかけて枝を折って草を踏んで、黙々と道を作ってくれる。

 彼は少し振り返って、よし、と頷いた。

「じつは、昨日の朝この領地を出るところだったんだけど、なんだか物騒な人たちが、伯爵を襲うって話を聞いてさ」

 寝耳に水、とはこのことだろうか。はぁ? と声を上げてしまった。大丈夫大丈夫、とエリは笑った。

「国の騎士団に要請を出したから、夕方にはきっと平和になってるよ」

「素直に騎士団に保護してもらえば良いじゃないの」

 なんでわざわざ単独、いや、二人きりで森に逃げ込む必要があるのだ。よりのよって入った端から迷うと噂のこんな森に。

「騎士団には知り合いがいるから、そう言うわけにも行かないんだ。多分、野党討伐の傍らで、彼らは僕も探すだろうし」

 王都の貴族じゃないのかこの人。いや、間違いなく身分は遥か高みだろう。私などとは比べ物にならない位。家出? この歳で? そして家族も探すの? どれだけ箱入りなの?

「エリ、あなたいくつなのよ」

「こないだ三十に、なったかなぁ」

 絶句した。私と十四も違うのか。若く見えるのに。というか貴族でその歳なら、もしかしてこの男、妻と子どもを置いて出奔したなどと言い出したりはしないだろうな。

「なんかすごい目で見てるね。なんだか、ものすごく誤解されてる気がする。ええと、奥さんも作らずこの歳でぶらぶらしてたらお見合いとか、無理矢理相手を見繕われたりとか、まわりにそういう人たちがたくさんいてさ、だから逃げてきたんだけど」

 予想とは違ったので、胸を撫で下ろす。でも、ぶらぶらしていたら、というけれどこの男、それなりの役職があったのではないだろうか。だって馬鹿ではなさそうなのだ。

「それで、君を彼らに会わせたくない。だから、ここに連れ出してきちゃったんだ」

 ごめんね、と彼は言った。悪びれた感じが全くないが、まぁ、謝らないよりはましだった。

「それはどうして? と聞いても良いの」

「君の瞳が綺麗だからだよ」

 思わず息が止まった。

 首を動かして、エリの顔を覗き込む。青い瞳は、優しげに微笑んでいた。

「だって、こんな、ふきつないろ」


 私の瞳は、不吉なのだ。


 災いを、呼び寄せる。


「こんな、赤い紫なのに」

「暁の瞳は、とっても美しい色だと思うよ」


 私の瞳は、不吉な色。ずっとそう思って生きてきた。

 綺麗だなんて、言われたことなどない。

 こんな風に目を合わせて、話をしてくれた人など。


「その綺麗な瞳の色にまつわる伝説があるんだ。ニルヴァニア王国はともかく、北の帝国の皇帝は、今何をするかわからないから」

 偉い人たちに掴まる危険は、避けた方が良いんだよ、と彼は人差し指をたてて、楽しそうに笑った。


 私の中で、一つの解が導かれようとしている。

 それは、エリが触れてほしくないものだろう。

 さっきから、わざとらしいほどに遠ざける話題の真実だろう。


 銀の髪、王都の貴族、伝説。

『エリ』


(……エリオローウェン)




 それは、変わり者と揶揄されていながらも、絶大な人気を誇る、この国の次期国王。

 今の王様の、たった一人の息子。

 王太子、エリオローウェン。




 何故ここにいるのか。

 逃げていて、追いかけられていて。

 戻ってこいと、言われていて。


『居場所は、ここじゃない、と知ってしまったんだ』


「……伝説って?」

 でも聞かない。

 だって、知ったところでどうもしないから。

 この人は、いずれここからいなくなって、いつか忘れる誰かで良い。


 と思った。

 確かに私はそう思った。


 なのに。


 彼はとてもまっすぐな笑顔で、私を見ていた。

「ねえ、やっぱり、君の使用人でも何でもなるよ。君のそばにいれるならね。君自身のことが知りたいから.他の誰かにとられたくないからね」

「あなた、頭がおかしいんじゃないの!」

 思わず大声が出てしまった。しー、と言われ、思わず口をおおってしまう。こんな森、別に誰が近くにいるわけでもないのに!

 エリは楽しそうに笑っていた。

「よく言われる」

 変わり者と噂に違わぬ洗礼を受けた気分だ。はぁ、とため息を禁じえない。

 ここはなんにもない辺境だって言うのに。

「目的はなに」

「君に恋をしたい」

「ばかね」

 本気で真っすぐこんなセリフを吐いてくる人がこの世に存在するとは思わなかった。ああ、もう、と顔を覆う。「残念だけど」頭はおかしくとも、それでも三十過ぎたただの男だろう。馬鹿馬鹿しいことを言い出す小娘からは、手を引いてくれないと困る。


「私、人間じゃないのよ」


 顔を覆った両手の隙間から、エリの、青い瞳が見開かれたことを確認する。


「色恋沙汰には関わりたくとも関われないの。ただの人間と結ばれることはあり得ないわ。私は特別なの」

 頭のおかしい女でいい。いつまでも夢をみることからぬけだせない、愚かな娘で。自分は特別だと思い込んで、いつまでも恋もしなければ愛も知らない、そんな女でいい。

 どこからくるのか風に銀髪をなびかせて、エリはなんてことない声で言う。

「心はそうでも、身体は人間になってるってきいたけど」

「は」

「聞き違ったかな。そう聞いてるんだけど」

「誰に」

 にっこりと笑われた。いやだわ、その笑み。

「……まさか、私の言ったこと丸っと信じるの」

 その笑顔は全肯定を示しているかのようだったが、予想とは違う言葉が、彼の舌からこぼされた。

「話半分」

 それでも、その表情は全肯定しているようにしか見えない。


「ねえ、暁の瞳の、春の女神様」


 そうよ、と私は顔をそらす。私は、かつてこの国を導いた、春の女神。

 ずーっとずーっとむかしに、死を司る神様の、妻とするため生み出された、春の女神。けれど何を誤ったか人で言う十前後の少女の姿で、神様の妻になどなりえず。


 やがて夫であった私の神様は、人間の娘に恋をした。


「君は本当に、春の女神かもしれない。裏切られて、裏切って、逃げ出して、人になりたいと願った、小さな女神かもしれない。それとも、彼女の話を聞いて深く同調してしまった、ただの女の子かもしれない。ただ、僕は君が気に入ったのさ」

「なぜ」

 何が、どこが、どう。

 ああ、戸惑っているねと性格悪く彼は笑う。さっきから笑ってばっかりだ。何が楽しいんだこの男。

「知らない振りをしてくれるところとか」

 ばれている。

「一本線を引かれてるところとか。これ以上仲良くする気はないって言われてるみたいで、逆にぐいぐい行きたくなるよね」

 そうだった。この人こそが頭がおかしい人なんだった。顔を覆うどころか頭を抱えた。持ってるカードが違いすぎる。勝てる気がしない。

「一応大人だから、とりあえず君の最初の要望に応えることにするよ」

「最初の」

「領地運営のノウハウ、だったっけ。まかせて。昔いくつかまかされていたことがあるんだ」

 さて、そろそろ騎士団も片がついて帰ったかな。

 えっ、と辺りを見渡せば、空は薄暗くなっていた。森の中、ただでさえ日の光が届きにくいため、気がつかなかった。あわてて立ち上がれば、エリが後ろからついくる。

「ちょっと待って! まだ受け入れるなんて言ってないわ!」

「君から頼んできたことだろう」

 こないだと今とでは話が違う! と怒鳴る。

「公爵家ゆかりの辺境伯爵領から出るんじゃなかったの!」

「君の瞳は春を呼ぶ」

 突然、声が真剣になった。

「はぁ?」

 思わず振り返り、その瞳の深刻さに足が止まる。

「春の女神の、本人であるか生まれ変わりであるか、ただ夢が降りただけなのか、そんなのはどうでもいいけどね。とりあえず、確実に言えるのは、その瞳を持っている以上、移し身である君は、かの帝国に春を呼ぶ。でも、今の皇帝は駄目だ。手当り次第に娘を後宮に閉じ込め、血眼になって探しているけれど、あれに捕まってもいいことはないよ」

 心配ない。私は、どうせここから出られない。

「ここで果てて、そして目覚めた春の女神は、この不可侵の森の側から離れられないわ」

 口元に、自嘲がのぼった。

 確かに、私は春の女神の記憶がある偽物で、そのものではないかもしれない。


 けれど、かの女神の思いを、確かに受け継いでいるのだ。


 痛みも、喜びも。


「私の神様は、私がしたことを、許しはしないのよ」

 ここを離れれば、森の恩恵は途絶え、私の身体は意識を保てたとしても、人形の糸が切れたかのように四肢が動かなくなるだろう。

「私に春は呼べない」

「だったらなおさら」


 エリが、真剣な表情で、私の手を取り歩き出す。


「寝たきりの君を、あの帝国の後宮に閉じ込められるなんてことは、ごめんだからね」

 何となく、わかった気がした。

「あなた、私じゃなくて春の女神に興味があるんじゃなくて?」

 心外な、と青い瞳が見開かれる。言っただろう、と強く手を握られた。

「僕は君に、恋をしたい」


 やってみなさい、と笑った。


 いつか、どんな風に恋に落ちるかわからないけれど。

「幸せにするよ」



 できるものなら、と答えながら、私は首を傾げてみせた。

「でも、それって結婚するときに言う言葉じゃない?」

 小さく笑って、そして、目を閉じる。


 不吉な赤紫を、闇に隠して。




 この人も、不幸にするのだろうか、と、恐れた。



読んでいただきありがとうございました!


お待たせいたしました!

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