10.遮られた秘密と花嫁の想い
「陛下……?」
「……」
「お、おはようございます」
言いながらも、ぽかんと見上げていると、陛下は長椅子の背もたれに手をついて、背後からわたしの顔を覗き込んできた。どうして、わざわざ朝早くこんな客室まで来たのだろう。
「足は痛むか」
ぽつりと聞かれた。問いかけと一瞬分からないほど、何気なく。思わずミーリエルへと視線を向ける。にっこりとされた。
どうぞお返事なさってくださいといわんばかりに。
「少しだけです」
かすかな声で顔をそらしながら言うと、わずかに陛下の眉が寄ったのが見えた。少なくともわたしはそう思ったが、気のせいかもしれない。
端正な顔の上あまり表情が動かない陛下は、何を考えているのか分かりにくい。
「今日から忙しくなるかもしれないが」
最初わたしに向けて言っていた陛下は、そこで一度言葉を切った。何やら考えこみ、ミーリエルへと視線を向ける。
「無理をさせるな」
「たしかに、承りましたー」
うへへーと変な声でミーリエルが笑う。右手をピッと額にかざしていたが、あれは何のポーズだろう。
まぁそれはそれとして。そんなことより。
「忙しくなる……?」
「あらやだ姫様。婚約式典があるって、聞いてないです?」
「ここに来たばかりの頃、ひと月後って聞いた。けど」
何も音沙汰がないから、すっかり忘れていた。
そうです、とミーリエルはうなずく。
「もうあと十日後に迫ってます。あとは、姫様の衣装ですね」
ぱちりと瞬く。あと十日で、花嫁衣装。内心で首をひねりながら、「無理がありませんか、それ」と陛下とミーリエル、二人に向けて問う。
「お針子さんは夜なべですかね」
「前例がない訳じゃない」
それぞれにあしらわれてしまった。
お針子さん……。
「というか、なんでこんな間近になる前に話しを進めておかなかったんですか」
「きくな」
すかさず入った陛下の言葉に、はぁ、そうですか。とわたしは返すだけなのでした。
「まぁまぁ。姫様、どんなデザインが良いか今のうちに考えておいてくださいね。午後からデザイナーの方がいらっしゃいますから」
「はぁ」
というか、なんでこんなことになっているんだろう。
そもそもハプリシア様が嫁ぐ予定で、なんで侍女として一緒だったわたしがこんなことになっているの。
どうして。
わたしが、花嫁になろうとしてるの。
ハプリシア様の代わりになんて、なれるはずがないのに。
唐突に、普段忘れている事実を思い出す。あぁ、これが、理由になる。
「皇帝陛下」
長椅子から立ち上がり、陛下に向き直って姿勢を正す。姫様、とミーリエルがささやいたが、かまわない。
「やはり、このお話、白紙にすることは叶いませんか」
皇帝陛下の表情に変化はなかった。ただじっと無言のまま、菫色の瞳でもって、ひたとわたしのことを見つめている。
「わたしは、本当は、」
「その願いは、叶えぬ」
理由を口にしようとしたとたん、冷たい声に遮られた。
「いかなる理由があろうとも、ヴェニエールはニルヴァニアから贈られた花嫁を王国に帰すつもりはない。他の願いであれば、私は貴方のためを思い自ら動くこともあるだろうが」
思いついた理由も、何もかもを、はねのけるかのような言葉。
上に立つ者としての言い方は、思ったよりもずっと強く、恐ろしく、やはりどうしても、この人の隣に立つのかと身体がすくむ。
「ここで生きてゆけ。ウィリアローナ・ヘキサ・シュバリエーン」
陛下はそういって身を翻し、退室した。
扉のしまる音がして、その音をきっかけにその場に座り込む。ミーリエルが慌ててわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
肩に添えられる手のぬくもりに、顔を覆う。長い黒髪が、視界を遮るとばりの役割を果たす。
ずっと、こんな視界で生きて行けると思ってた。
なのに、陛下の菫色の瞳は、そんなものを無遠慮によけてかきわけ、目をそらすことを許してくれない。
その目からどうしたら逃げられるのか、わたしはうつむいた思考のまま、考えを巡らした。