1.転がり始めた運命
わたしのお姫様は、とても美しい。
それはもう、この世にあって良いのかと思えるほど。
そんな美しいお姫様が、このたびめでたく結婚することとなった。
我が愛しの祖国、神聖ニルヴァニア王国から、かつて王都と国土の一部を奪ったヴェニエール帝国へ。けれどそれももう、昔の話。数百年経った今では、同盟を結ぶほど両国の和解は進んでいた。
その同盟の証として、わたしがいままで、そしてこれから先もずっとお使えするお姫様、ハプリシア様はヴェニエール帝国の若き皇帝と婚約することとなった。
ハプリシア様はお美しい。およそこの世に存在する何よりも美しい。彼のお方が微笑めば、誰もが幸福な気分になれ、涙すれば誰もが絶望の縁に立ったかのような気持ちになる。背中を流れる美しい銀の髪に、輝く青の瞳。月の女神の化身のようなお姿で、ハプリシア様の美しさを讃える唄は生まれてからこちらいくつ歌われたか知れない。
わたしは、そんなハプリシア様の遠縁であり、一応王族の血をひいてはいるけれど、何代も遡らなければ王家の片鱗も見えてこない、そんな遠い縁続きである。
瞳は不気味な赤みの強い紫であるし、顔も凡庸そのもの。黒髪は珍しいと言え、この国の初代国王の血を受け継ぐ証明だといつだったか国王様に誉められたこともあるが、女に生まれたからには気になる体の膨らみも残念としか言いようが無い。足して引いて、マイナス1になる、そんな残念な容姿だ。せめてハプリシア様までとは言わないが、きょうだいのような輝く金の髪に生まれれば良かったものを。
わたしのことは良いのだ。とにかく、かろうじて王家の血を引いているため、わたしはハプリシア様のおそばに侍ることができ、飽くまでも一の侍女としてともに旅立つこととなった。
……万が一、ハプリシア様とヴェニエール皇帝とが、子もできぬうちに夜をともにできぬほど不仲になった場合、お手を付けられることを覚悟なさいませとかなんとか外務大臣様直々に言われた気がしますが、そんなこと絶対にないことを祈ります。ていうかないです。ハプリシア様が袖にされるだなんてそんなことある訳がありません。
わたしは、誰とも結婚する気がないからこそ、進んでハプリシア様の一の侍女に立候補し、国を出ることを決意したのだから。
現在、ヴェニエールより迎えがきたため、ハプリシア様とわたしは馬車の中だ。ヴェニエール軍とニルヴァニア軍とに前後左右を護衛された大きな馬車の中には、ハプリシア様とわたしだけ。ハプリシア様は真ん中のほうでクッションに埋もれ、わたしは扉の近く、隅のほうに控えている。
「うぃりあ……」
小さな呼び声に、わたしはぱっと顔を上げる。幸福な結婚であるはずなのに、ハプリシア様は王都を出発してからずっとこの調子だ。お美しいかんばせですのに、眉をきゅっとよせ、唇をひき結んでいる。揺れる大きな瞳は、いつその眼からこぼれ落ちるかとハラハラするほどだ。
「わたくし、やっぱり帝都へは行けない」
か細い声でそうのたまったハプリシア様に、わたしは「えええ」と返すしかない。この軍の中に、貴方の婚約者殿もいらっしゃるというのに一体何を言い出すのです!?
「だって、わたくし、このまま帝都へ行ってしまえばきっところされてしまうっ」
悲痛な声で告げられた不安に、わたしはどうして良いかわからず、おろおろと視線をさまよわせた。もちろん、馬車の中にはわたしとハプリシア様しかいない。
「なぜそんなことをおっしゃるのです。たしかに、ヴェニエール皇帝は今も昔も戦で剣を振るうことを好む武勲多きお方、けれど、そんなハプリシア様に剣をむけることなど!」
こんなにもお美しい方に刃をむける殿方がいるなど、ありえない!
けれど、ハプリシア様は更にとんでもないことを言ってのけたのだった。
「だってわたくし! もう宰相殿と契りを結んでしまっているのだもの!!」
呆気にとられて何も言えなかった。
「さ、さいしょうどのと、ちぎって……!?」
理解はすぐにやってこなかった。
のどの奥がからからに干上がり、わたしは遅れてやってきた衝撃に、悲鳴が漏れぬようぱちんと口を抑えた。
我が国の? 宰相殿と言えば? 若くして王の片腕をつとめる、王国きっての美男子。
(お……お似合いすぎます……)
くらりとめまいがした。思わず馬車の壁に寄りかかり、ため息をつきつつも頭はめまぐるしく回転させる。ということは? どういうことか。
わたし自身詳しくはないが、これから帝都に赴き、婚約して、半年後結婚するわけで、結婚したら当然そういう行為もされるというわけで、ばれるのだろう。よくしらないが、そういうものだと聞いたことがある。
つまり現時点でハプリシア様は、現時点でというより結婚式までというか皇帝といろいろいたすその時までまっさらでなければいけなかったわけで!!
「ど、どうするのです……」
「だから、帝都には行けないのです! ついにお父様に言い出せずわたくしこんなところまで!!」
もう国境を越えるか越えないかの所なのだ。そりゃあわたしだってわかってます。っていうかどうして言ってくださらなかったんですかもっと早くに!!
揺れる馬車の中、わたしとハプリシア様は無言で見つめ合った。
「今夜、帝国領内に入る前に、逃げますわ」
絞り出すかのように、ハプリシア様は宣言した。慌てるのはわたしだ。そんなこと、一の侍女としてうなずけるわけが無い。
「い、今からでも王様に文をお出しして!」
「間に合いませんわ! それにわたくし、あの方とともに生きたいのです!!」
そのつぶらな瞳で懇願されたら、うなずくしかないじゃありませんか! なんて見とれてる場合じゃない!! 無理です駄目ですあああああこういうとき一体どうしたら、とりあえず行進を止めてもらって先頭あたりにいるはずのハプリシア様のお兄様っていうか第一王子殿下を御呼びして……。
そうこう考え込んでいる間に、馬車が止まった。
外から、護衛の騎士様の「休憩です」との言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。扉越しに、「第一王子様を呼んでください」と申し込んだ。ハプリシア様が、悲鳴を上げる。
「ウィリア!」
「大丈夫ですって、第一王子様が、きっと良い知恵を授けてくださ」
言葉が、途中で途切れた。
扉にふれていた手が突然すっぽぬけ、前のめりに倒れ込みそうになり、そこを誰かの腕に抱きとめられる。
「っ!」
「ウィリアっ」
わたしは思わず息をのみ、ハプリシア様が慌ててわたしを引き寄せてくださった。ハプリシア様の腕の中でしばらく震え、ゆるゆると顔を上げる。ハプリシア様もようやく、わたしから視線を外しノックも無く馬車の扉を開けた人物を見た。
「アークウルド様……」
お美しいかの人、それは、ハプリシア様が自らの純潔を捧げたという、宰相様のお名前だった。
「ウィリアローナ姫。これは申し訳ないことをした。平気か」
「はい……、失礼を」
「いやいい、こちらが悪かった」
一応貴族の名家ではあるから、姫と呼ばれることに間違いは無いのだけれど、なんともくすぐったい響きだ。
わたしはもぞもぞとハプリシア様の腕から出つつ、アークウルド様にお伺いを立てた。「これから、ハプリシア様をどうするつもりです?」と。
「ニルヴァニア国王に許しをいただき、ともに生きて行きたいと」
「そうですか」
言って、わたしはにっこりと微笑んだ。ハプリシア様を幸せにしてくださるというのであれば、何も言わない。ただ、今回の婚約をどうするつもりなのだろう。ハプリシア様が、同盟の証として嫁ぐはずだったというのに、同盟も無かったことになるのではないだろうか。
「なるほど」
笑みの含んだ低い声に、思わず肩がびくりと震えた。
「王子殿下」
わたしは慌てて馬車からおり、第一王子殿下に頭を下げた。ハプリシア様同様の銀の髪に、青の瞳。長い髪はうなじで束ねられ、あとは流れるように揺れている。ハプリシア様とまでは言わないが、このお方もたいそうお美しいお方。けれど、わたしはこの人が大の苦手だ、試すようにこちらを眺め、にやりと笑うから。
「アークウルド、僕は何も言いません。早く二人で城に戻り王に申し開きをしなさい」
「は」
え、そんなあっさり返しちゃってよろしいんですか!? ご婚約は!?
わたしがぽかんと第一王子を見上げている横で、アークウルド様とハプリシア様は手と手を取り合い王子に頭を下げ動き始めた。
え! とわたしが振り返った時、きゅっ、とハプリシア様がわたしの手を取った。
「ごめんなさい、ウィリア」
聞き返す間もなく、その手はするりと解かれ、二人はたくさんの兵に隠れて見えなくなってしまった。
どういうこと。え、わたしも、王都に帰れば良いの? 屋敷で、いつもの生活に戻れば良いの?
混乱する頭で、視界を巡らせ、第一王子と目が合った。にやりと、その端正なお顔の口元が凶悪に歪む。
「ちょうどいいではないですか」
何がですか。
「貴方が嫁いでください。ウィリアローナ姫」
……は。
「無理です!!」
力一杯、声が出ました。