伍:尼僧
* * *
口に残っていたものを茶で流し込み、玄関を飛び出す。
歯磨きをしていないことに
「不衛生」
と叔母さん(そんな年ではないが、母さんの妹を甥の俺が叔母さんと呼んで何が悪い)が咎めるように呟いたが、後五分で俺は遅刻だ。と、自分を正当化してみる。
やはりあいつはもう来ていた。開いた門から黒いエナメルバッグが覗いている。
「よっ」
振り向いた栴崎夕史がかなり切迫した状況にも関わらず、軽快に挨拶した。運動部らしい短い髪はワックスによって立っている。
「『よっ』じゃねぇ!! ほら、学校へ百メートルダッシュ!」
「あ、時間マズいな」
栴崎がケロリとして言ったのを合図に俺達は走り始める。
変わらない日常。
その裏にある対の世界との境界が消された時、俺は誰も傷つけなくて済むだろうか…。
* * *
一時間目は現国だった。
ゆるゆると話す現国の教師は少々自分の話に酔っているのかもしれない、寝ている生徒は放置だ。
槹也は話の冒頭を聞くとシャーペンを放り、机の上に腕を組み、顔を埋めた。
一分も経たない間に木目模様の天井が見えてきた。
どうも布団に寝かされているらしい。辺りを見回すと開け放たれた障子のむこうに、月光に照らされた小柄な背中があった。
「…あの」
声を掛けると振り返り、
「お加減はどうでしょう?」
聖母のような笑みを向ける。漂う雰囲気は参道で会った青年のものに似ていた。
「依世があなたをここへ連れてきたのですよ」
依世というのは青年のことだろうと槹也はふむ。
「で、息子さんは何処へ?」
尼僧は一瞬固まった気がした。そして笑い声を上げ、肩辺りでばっさり切られた髪を揺らす。
「依世は私の義理の弟に当たるのですよ」
夫とはだいぶ年が離れていましたが、と尼僧は微笑む。
確かに彼女に二十幾つの子供がいるようには見えない。
「依世は今、参道で亡くなられた方の埋葬をしてくれています」
布団から出、尼僧のいる縁側へと腰を下ろす。
庭は広く、簡素だ。白い玉砂利が雪の様に敷き詰められている。
「巷で聞いた『青鈍』っていう殺人鬼…どうしてこんな整斉した国なのにそんな奴が現われて、といって捕まりもしないんですか?」
槹也のその言葉に、初めて彼女の表情が曇った。
「整った国、とは一丸には言えません。
この国は――偃月は史書の残る前より二つの派に別れているのです」
「下弦と…上弦に?」
尼僧は頷いた。
ザッと風が吹く。九月末というのに風は仄かな冷気を帯びている。
その昔、槹也の祖父は言っていた。
対の世界にある国で、秋の無い国があると。
夏の終わりを告げる北風が吹き始めると、すぐに雪が降り始めるのだと。
そして尼僧は語りだした。