壱:始まりの夜
一部【青鈍】シリーズの幕開けです。
いつもより遅い家路だった。
その青年は提灯を片手に、独り林鐘寺下の石段を下っていく。深緑の狩衣が仄かに赤みを帯びた光によって茶色掛かって見える。
彼の名は依世。齢二十二になる、この偃月の国を治める下弦家の者である。
笠の縁を持ち上げると星の無い黒で塗り潰された空に、切り抜かれた白い半月があった。
いつもは煩い虫の音が微かな風と流れ、不思議と安堵感を覚える。
周りに建つ家々の寝静まった気配。自分を意識しない者達。それは何処か子供の頃自分を取り巻いていた疎外感と似ていて、懐かしいと感じてしまいさえする。
しかしそれは参道に差し掛かった時だった。次の段に片足を置いた瞬間、サ――と音を率いて空間は消滅した。
『無』の中に、自分一人のみ在るような世界。
不可思議に思って掲げた提灯に照らされたそこに、赤く染まった世界の基盤があった。
立ち上る錆びた臭い。反射的に袖をあてがう。格段で血溜りをつくり、石段をくだっていく、丹。その光景は巷で流行っているある噂を朧気に映し出す。
事が起きて数刻も経っていないのだろうか。
――否、違った。
「林鐘寺の仏共は下弦の汚れた血は好まぬらしい」
死人のように冷えた声と指先が喉元に当てられた。
…事は今も、進行中だったというわけだ。
矢継ぎ早に腰の脇差に手を掛け、振り返り様に一線する。軽い手応えの後に何かが堅い地面に跳ね、転がった。
闇に切っ先を向けたまま、周囲に気を張り巡らす。風のない、夏の名残を含んだ生温い凪が続く。
――『青鈍』と言うのです――
それは何時か、家に仕える者が話してくれたことだった。
新参(?)の不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。評価していただけると嬉しいです。