拾泗:過去
たった一人の靱代となった少年は――
午前0時――
人の途絶えた通学路へ一台の車が入っていった。並ぶ家々の塀を照らし、そしてそれはある家の前で停められる。
高い塀で囲まれ、門の付いた武家屋敷。
この家の主、靱代奈瑞菜は車から降り、開け放たれたままの門をくぐった。既に家の光は落とされ、今や彼女は完全な闇のなかに立たされている。それは彼女の甥が対の世界で動いていることを示していた。
靱代家――それは平安の世より、対の世界の秩序を守ることで人間を守っている一族だ。
対の世界には異端な力を持つ『ウルク』と呼ばれる化け物(狂いし精神)が存在する。
――それを殺すのが、靱代の役目。
一般人は現世界と対世界に存在する意識が別々。
しかし、靱代の血の流れる者は現世界と対世界を一貫して捉える力を持つ。故に古くから靱代は、より濃い血脈を保つ為、親戚内での婚姻を徹底した。
ただ、奈瑞菜のみは靱代に流れる力を授からなかった。
幼い頃から他の兄弟と比べられ、一族から疎外された奈瑞菜は普通の人間として生きることにした。学問に励む娘を両親は何も言わず援助した。
しかし彼女が大学の医学部に進んだ矢先、靱代は滅びる。
あの日、珍しく電話をかけてくれた父親の言葉が耳に残っている。
――対の世界で死んだ人間は10日以内に現世界からも消える。お前の夢を叶えてやれなかった今、靱代もただの人間の固まりなのだと実感するな――
世界各地に散らばった靱代の人間は皆悲惨な死を遂げた。
一家全焼。
水難事故。
地震。
彼らの死の刻印は徐々に、そして他人にその奇妙さを知られる事無く広がっていった。
…皮肉にも靱代の力を持たない為生き残った奈瑞菜は、両親の遺産と同級生の助けにより在学を続けられた。その2年後に姉家族で唯一生き残った槹也を引き取る。
その目からは既に子供の無邪気さが消えていた。
――叔母さん、皆の仇をとるために俺を育てて――
靱代の一族が対の世界から消えた日、向こうの世界で何があったか少年は話そうとしない。
奈瑞菜は黙って承諾した。
ただ、再び同級生の恩恵で大病院に就職し、元両親の家に引っ越した今も、そして靱代が滅びることを告げられた夜も、決して考えないではいられないことがある。
何故…
奈瑞菜は玄関の戸に手を掛けたまま俯いた。
力を込めた指先。戸のガラスがガシャリと鳴る。
何故、私には靱代の力が無い―――?
何もできない。
何も知らない。
あの少年に自分勝手な思いを背負わす他無い。
「…私は汚い人間だな…」
自嘲気味に呟いた言葉は吹き過ぐ秋風に乗っていった。