栄転よりも、二人で選ぶ港町
裁判の手続きが始まってから、港町の空気は少しずつ変わっていった。
水路役所の壁には新しい監査規則が貼られ、公開郵便庫には毎朝、住民たちが記録を確かめに訪れるようになった。魚屋の仕入れ帳、船大工の修理依頼、パン屋が使った水の量。以前なら役所の奥で眠っていた声や数字が、今では誰の目にも触れる棚に並んでいる。
リゼットはその棚を拭きながら、何度目かの欠伸を噛み殺した。
「顔が紙より白いぞ」
向かいで記録石の音量を調整していたエドガーが言った。
「紙は疲れませんから」
「紙にも疲れはある。湿気を吸えば重くなるし、端から傷む」
「では、私も少し湿気を吸っただけです」
「それを疲れたと言う」
エドガーは真面目な顔のまま、机に小さな包みを置いた。開くと、焼きたての胡桃パンが二つ入っていた。
「ミラが、食べないと働かせないと言っていた」
「ミラさんは、エドガーさんにも同じことを言っていましたよ」
「だから二つある」
リゼットは笑った。事件が終わったわけではない。裁判は続いており、賠償の算定も、奪われかけた土地の確認も残っている。それでも、朝にパンを分け合えるほどの静けさが町へ戻ってきたことが嬉しかった。
その日の昼、王都から一通の封書が届いた。
封蝋には、王都魔法郵便院の紋章が押されていた。リゼットが受け取ると、封筒の中から厚い羊皮紙が滑り出す。
王都中央郵便局付属、音声記録管理室主任。
それが、彼女に示された役職だった。
王都で働けば、今よりずっと大きな記録庫を使える。専用の魔法道具も与えられ、助手もつく。給与は三倍、住居も用意される。何より、偽造契約を暴いた功績を認められた栄転だと、丁寧な文面で説明されていた。
リゼットは最後まで読んでから、紙を机に置いた。
「断るのか」
エドガーは尋ねた。
「まだ決めていません」
そう答えたものの、胸の奥にはすでに答えがあった。
王都へ行けば、誰も彼女を役立たずとは呼ばないだろう。失敗すれば記録に残る仕事であることも、聞き取れない音があることも、理解してもらえるかもしれない。
けれど、王都の整った部屋で、遠い町の声を記録する自分の姿を想像すると、胸のどこかが冷えた。
この港町で、彼女は初めて自分の耳を信じた。水門の響きを聞き、母の記録をつなぎ、誰かの声を誰かへ届けた。ここには、まだ記録を残せない人がいる。文字を書くのが苦手な漁師も、役所へ行く時間のない荷運び人も、自分の話が証拠になるとは思っていない人もいる。
必要なのは、立派な肩書きではなかった。
「王都の人たちは、私の技術を認めてくれたんだと思います」
リゼットはゆっくり言った。
「でも、私が欲しいのは、認められる場所へ行くことではありません。ここで、まだ届いていない声を届けることです」
エドガーは何も言わなかった。
その沈黙を不安に思って振り向くと、彼は窓の外を見ていた。水路の向こうには、潮風に揺れる旗と、修理を終えた水門が見える。
「私も、辞表を出した」
「もう?」
「今朝だ。監督官の腕章を返した」
リゼットは驚いて立ち上がった。
「それで、これからどうするんですか」
「水路監査の相談役を引き受ける。役所には属さず、組合と住民の間に立つ。点検の記録を整え、公開郵便庫の規則を運用する」
「それは、監督官の仕事と違うんですか」
「違う。監督官なら命令できる。私は、誰も一人で命令できない仕組みを作りたい」
エドガーは机の上の封書を見た。
「君が王都へ行くなら、私はここで待つ。君が残るなら、隣で手伝う」
その言い方が、リゼットには嬉しかった。引き止めるのでも、決めてしまうのでもない。彼は彼の選択を示し、彼女の選択を待っている。
リゼットは封書を取り、裏返した。空白の面に、ペン先を置く。
「王都魔法郵便院には、こう返します」
彼女は一文字ずつ書いた。
ご厚意に感謝します。ただし私は、港町に独立した魔法郵便局を開くことを選びます。
書き終えると、エドガーがその文面を読んだ。
「独立した郵便局か。場所はあるのか」
「まだありません」
「資金は」
「少ししかありません」
「人手は」
「ミラさんが、帳簿を見てくれると言っていました。船大工の親方は窓を直してくれるそうです。パン屋さんは、配達員に朝食を出すと」
「つまり、ある」
「ええ。まだ名前のついていないものが、たくさん」
二人は公開郵便庫の隣にある、古い倉庫へ向かった。かつては破れた網と壊れた樽が積まれていた場所だ。窓は一つしかなく、床板も軋む。それでも、潮の匂いと水路の音がよく通った。
リゼットは中央に立ち、目を閉じた。
遠くで船の鐘が鳴る。水門がゆっくり開く。路地の井戸から桶を引き上げる音。誰かの笑い声。そして、まだ名前も知らない小さな声が、風に乗って届いた。
「ここなら、聞こえます」
「何が」
「町の全部は無理です。でも、聞こうとすれば届く声が」
エドガーは倉庫の壁に手を置いた。
「では、ここを始まりにしよう」
リゼットは頷いた。
その日の夕方、二人は倉庫の扉に新しい札を掛けた。
『港町声便局 準備室』
文字は少し曲がっていた。だが、誰かに与えられた名ではない。リゼットとエドガーが、自分たちで選んだ名だった。
王都への返事を投函し、倉庫の鍵を閉めるころには、空が茜色に染まっていた。
「リゼット」
水路沿いの道で、エドガーが呼び止めた。
「はい」
「明日から忙しくなる」
「今日までも忙しかったです」
「もっと忙しくなる」
「では、パンを三つ買いましょう」
エドガーは少し考えたあと、真剣に頷いた。
「それが共同経営者の最初の取り決めだな」
「対等に、半分ずつ」
「パンも?」
「パンも、責任も」
並んで歩き出すと、港の灯りが一つずつともった。
栄転の道は、遠く王都へ続いている。けれどリゼットが選んだのは、母の声が残り、仲間の声が集まり、これから二人の仕事が始まるこの町だった。
水路は静かに流れている。
奪われかけた記録を抱えながら、それでも未来へ向かって、途切れることなく。




