職を賭けた証言と、初めての約束
広場に集まった声が、いつまでも水面の上を漂っていた。
リゼットは記録石を一つずつ布に包み、台の上から下ろした。住民たちは興奮していたが、誰も石を乱暴に扱わなかった。声は目に見えない。それでも、そこに確かに残るものだと、皆が理解し始めていた。
グレイヴが立ち去ったあと、広場には別の沈黙が訪れた。
「これで、あの人たちは黙らないでしょうね」
ミラが不安そうに言った。
「黙らせる理由がなくなっただけです」
リゼットは答えた。「私たちが記録を残し続ければ、誰か一人の都合で書き換えることはできません」
「記録を残すだけで、裁判所は動くのか?」
船大工のバルトが腕を組む。
「正式な記録として受理されれば、調査を拒めなくなる」
エドガーが言った。
彼の声に、いつもの水路監督官としての落ち着きはなかった。肩章のない制服が、彼の立場を目に見える形で示している。監督官の権限を外れた者が、名家の代理人に逆らい、王都の機密を公にしたのだ。処分を受けても不思議ではない。
「でも、正式な記録にするには、監督局の署名が必要なんでしょう?」
リゼットが尋ねた。
「そうだ。監督局の記録庫に登録し、立会人の署名を集める。音声記録が改ざんされていないことも証明しなければならない」
「それなら、私が署名します」
バルトが手を挙げた。
「俺も」
ミラが続く。
住民たちは次々に名乗り出た。だが、エドガーは首を振った。
「住民の署名だけでは足りない。監督局の中にいた者が、何を見て、何を知っていたのかを証言する必要がある」
彼はリゼットを見た。
「私が証言する」
ざわめきが広がる。
「エドガーさん、それって……」
「監督官の職を失うかもしれない」
リゼットの言葉を、彼は静かに引き取った。
「失うだろう。おそらく、名家への背任と職務規定違反の両方で呼び出される」
「それでも?」
「それでもだ」
彼の目は、水路の先へ向いていた。港の倉庫の間を縫うように流れる水は、夕方の光を受けて細く輝いている。
「私は監督官として、偽造された契約を見抜けなかった。父が疑っていたことも知っていたのに、記録に残さなかった。その結果、町の人々が水を失うところだった」
エドガーは一度、息を吐いた。
「これ以上、黙って職を守ることはできない」
リゼットは胸の奥が痛くなった。
彼はいつも、正しいことをするために自分の感情を後ろへ置いていた。父の沈黙も、自分の後悔も、監督官としての責任も、すべて一人で抱え込んできたのだ。
「私も一緒に行きます」
「君は郵便局から外されている。監督局の聴取に立ち会う権利はない」
「権利がないなら、証人として呼ばれるようにします」
リゼットは記録石を握った。
「これは私が聞き取った声です。私が届けた記録です。私がいなければ、正式な記録にはできません」
エドガーの表情がわずかに和らいだ。
「強くなったな」
「強くなったんじゃありません。もう、あなたに一人で立たせたくないだけです」
言ったあとで、自分の言葉が思った以上に近いところへ踏み込んでいることに気づいた。広場の騒ぎが遠のき、目の前にいるエドガーの呼吸だけが聞こえる。
彼はしばらく黙っていた。
「リゼット」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
「私は、君の調査を信じている」
「はい」
「仕事としてではない。君が、誰かに価値を認められるためではなく、自分で正しいと決めたことを追っているからだ」
エドガーは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「そして私は、君と一緒にいる時間を失いたくない」
風が港から吹き抜けた。記録台に置かれた空の石が、かすかに鳴る。
リゼットはうつむきそうになったが、逃げずに彼を見返した。
「私も、あなたと一緒にいたいです」
声が震えた。
「でも、あなたの職を守るために、私の調査を利用してほしくはありません。私も、あなたを守るために自分の考えを曲げたくありません」
「分かっている」
「それでも、隣にいてくれますか」
エドガーは頷いた。
「約束する。君の選択を、君のものとして尊重する」
それは恋人になるという言葉より、ずっと確かな響きを持っていた。互いの仕事も、痛みも、これから選ぶ道も、相手の所有物にはしない。けれど、離れた場所から見守るだけでもない。
リゼットは手を差し出した。
「では、まず正式な記録を作りましょう」
エドガーはその手を取った。短い接触だったが、指先から熱が広がった。
「そのあとで、少しだけ休もう」
「休めるんですか?」
「君が記録石を三つも抱えて走り回らなければ」
「それは努力します」
二人は記録台へ戻った。
住民たちが見守る中、リゼットは新しい石に声を吹き込んだ。
『本日、港町の住民立会いのもと、水路契約に関する証言を受け付ける。証言者、エドガー・ヴァレン。元水路監督官』
エドガーが続ける。
『私は、職を失う可能性を承知の上で、偽造契約が監督局の内部で処理された経緯を証言する』
石の光が強くなった。
その瞬間、二人の選択は、誰にも消せない記録になった。




