第六話 鞄の中
作者です!新規の人は1話から見てね〜
それから数週間、特に大きなことは何もなかった。
朝、ルミナが待っている。昼、隣で食べる。放課後、一緒に帰る。連絡を忘れなければ、ルミナは機嫌がよかった。笑って、喋って、時々手を繋いで。それが日常になっていた。
日常になる、というのは不思議なことだと思った。少し前まで、誰かと帰ることも、誰かに待たれることも、なかった。それが今は当たり前になっている。人間は慣れる生き物だ。良いことにも、悪いことにも。
シエルは相変わらず家にいた。
夜、私が部屋に戻るとだいたいそこにいる。本を読んでいるか、窓の外を見ているか、どちらかだった。ルミナの話をすると静かに聞いて、短く相槌を打つ。それだけだった。
「シエル、最近おとなしいね」
ある夜、そう言うと、シエルが少し首を傾げた。
「そうですか」
「うん。前はもう少し色々言ってきた気がする」
「……言いたいことが特にないので」
「本当に?」
シエルが視線を窓に向けた。外は暗くて、何も見えないはずだった。
「アイルさんが、楽しそうにしているので」
それだけ言って、黙った。
私はシエルの横顔を少し見てから、視線を天井に戻した。楽しい、かどうか、正直なところよく分からなかった。でも、孤独ではなかった。それは確かだった。
二ヶ月目に入った頃、最初の大きな喧嘩があった。
きっかけは、また些細なことだった。
その日、放課後にルミナが「少し待って」と言って、先生に呼ばれて教室に残った。私は廊下で待っていたが、十五分経っても出てこなかった。別の先生に声をかけられて、少し立ち話をした。それだけだった。
ルミナが出てきた時、私は廊下の少し離れた場所にいた。
「待ってたんじゃないの」
ルミナの声が、低かった。
「待ってた。でも先生に話しかけられて」
「どの先生」
「担任の」
「……そう」ルミナが鞄を持ち直した。「何の話」
「来週の提出物のこと」
ルミナは何も言わなかった。歩き始めたので、私も隣に並んだ。しばらく、沈黙が続いた。
「怒ってる?」
「別に」
また、別に。
「先生に話しかけられたのは、私のせいじゃないけど」
言った後で、少し後悔した。正しいことを言っても、ルミナが傷つくのは分かっていたから。
案の定、ルミナが足を止めた。
「……そうだね」ルミナが静かに言った。「アイルは悪くないね」
「ルミナも」
「私が怒るのがおかしいってこと?」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあどういうこと」
また、詰まった。どういうこと、と言われると、うまく答えられなかった。ただ、誰も悪くないと思っていた。それだけだった。
ルミナが俯いた。肩が少し震えているように見えた。
「ルミナ?」
「……なんでもない」
「なんでもなくなさそうだけど」
「なんでもない」ルミナが繰り返した。それから、ゆっくりと鞄に手を入れた。
私はその動作を、前にも見たことがあった。
最初に喧嘩した日。ルミナが鞄に手を入れて、止まった。あの時は何も起きなかった。でも今、同じ動作をしている。
「ルミナ」
「……」
「鞄、何が入ってるの」
ルミナの手が止まった。
長い沈黙があった。廊下の端で、二人だけが止まっていた。他の生徒が遠くを通り過ぎていく。
「……なんでもない」ルミナが小さく言った。「ただ、ちょっと」
「ちょっと、何」
ルミナが顔を上げた。目が赤かった。泣いているわけではなかったが、泣く手前みたいな顔をしていた。
「アイルに嫌われたくなくて」
「嫌いじゃない」
「でも怒ってるじゃない、私に」
「怒ってない」
「嘘だ」ルミナの声が少し震えた。「アイルは私のこと、めんどくさいと思ってる」
「思ってない」
「本当に?」
私は少し間を置いた。めんどくさい、という感情が自分の中にあるかどうか、正直なところ分からなかった。でも今この瞬間、ルミナが鞄に手を入れた時に感じたものは、めんどくさいではなかった。
怖かった。
何が怖いのかは、はっきりとは分からなかった。ただ、あの動作が怖かった。
「……思ってない」と私は言った。「めんどくさいとは思ってない」
「本当に?」
「本当に」
ルミナの手が、鞄から出てきた。空だった。何も持っていなかった。
それで、私は少し息を吐いた。
「ごめんね」とルミナが言った。「変なこと言って」
「変じゃない」
「変だよ」ルミナが苦笑いした。「アイルって、優しいね」
「そうかな」
「うん。私みたいなの、普通は嫌になると思うから」
私は何と返せばいいか分からなかった。ただ、ルミナの手が鞄から出てきたことに、安堵していた。
「帰ろう」と私は言った。
「うん」
二人で歩き始めた。少ししてから、ルミナが私の袖を掴んだ。さっきまでの重さが、嘘みたいに消えていた。
「ねえ、帰りにコンビニ寄っていい? アイス食べたい」
「いいよ」
「何味が好き?」
「どれでも」
「それ絶対選ばない人の答えじゃん」ルミナが笑った。「ちゃんと選んで」
「……チョコ」
「じゃあ私はイチゴにする。半分こしよ」
また、いつも通りに戻った。
コンビニでアイスを買って、外のベンチで食べた。ルミナが楽しそうに喋って、私は聞いていた。空が夕焼けで赤かった。
普通の放課後だった。
でも帰り道、一人になってから、私はさっきのことを考えた。鞄の中に手を入れたルミナのことを。何が入っていたのか、結局分からなかった。
聞けばよかったかもしれない。
でも、聞いて、答えが返ってきた時のことを想像すると、聞けなかった。
その夜、シエルに話した。
鞄のことを。ルミナが手を入れたことを。でも何も出てこなかったことを。
シエルはしばらく黙っていた。いつもより長い沈黙だった。
「……それは」シエルがゆっくり言った。「前にも、同じことがありましたか」
「一回」
「そうですか」
また沈黙。
「シエル、何か言いたいことある?」
シエルが私を見た。珍しく、真っ直ぐに。
「……アイルさんは、怖いと思いましたか」
「思った」
「そうですか」シエルが視線を落とした。「それは、正しい感覚だと思います」
「どういう意味」
「……いえ」シエルが首を振った。「なんでもないです」
「また言いかけてやめた」
「すみません」
私はシエルを見た。シエルは視線を逸らしたまま、窓の外を見ていた。
何かを言いたくて、言えないでいる顔だった。
私は聞こうとして、やめた。シエルが言わないのには、理由があるのだろうと思ったから。
その夜は、そのまま眠った。
翌朝、ルミナはいつも通り笑って待っていた。私もいつも通りに挨拶した。
鞄の話は、しなかった。
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