2話 お稽古が始まる
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母の言葉を受け、僕も思うところはあった。
あれは、我が子を思って伝えられた、とっても愛情深い言葉だ。その場だけの言葉として終わらせず、ちゃんと言葉一つ一つを噛み砕いて、僕なりにゆっくり咀嚼していく。
その結果、ようやく僕なりの結論が出た。
(母の言う通り、自然にいこう。きっとなるようになるさ)
僕は少し、肩に力が入りすぎていたみたいだ。
そもそも、僕は自身の全てを思い出せたわけではない。僕にとって前世を思い出す行為は、1000年前のことを思い出すときのように難しいんだよね。
前世のほとんどの記憶は、空白のままだ。
僕という軸があやふやなので、現時点で正しい判断を下そうにも、難しいってわけだ。
(でも、きっといつか全てを思い出す。だって、かなは僕の記憶を掘り出すのが上手だからね)
とにかく、僕は現時点でできる最良の判断をした結果、自然にいこうと決めた。
ただし……
(余生を楽しむのではなく――第二の人生を楽しむ)
現状では僕とかなは別人格だ。
でも、かなの人生を他人事のように考えるのは、もうやめる。僕たちにとって、きっとそれが自然だ。
――もう僕は、「生きる」ことをサボらない。
僕がそう決意して数日が経つ。
かなは、もうすぐ幼稚園に通うことになる。そして同時に、お稽古も始まるらしい。
母からその話を聞いて、かなも僕も、家だけだった世界が広がっていくようで、期待に胸を膨らませていた。
ただし、だ。
格式高い白佐藤家に生まれたということが、どういう意味を持つのか。その時の僕はまだ分かっていなかった。
幼稚園に入った日から、それはもう目の回るような「お稽古地獄」が始まったのだ。
水泳、そろばん、外国語、品格、お絵かき、乗馬、各種スポーツ、各種音楽、その他諸々……
お稽古は、僕が想像していた「習い事」みたいな、可愛いものではなかった。
毎日精一杯運動するし、頭を使う。自然にいこうとか、そんな生ぬるいことは考える暇がない。
お稽古から帰ると、家で毎日ちょっとだけボードゲームで遊び、本気のママやお手伝いさんにこてんぱんにされる。
たまの休日には旅行へ行き、色んなものを見て、食べて、体験する。
とにかくただ毎日をかなと一緒に力を合わせて、日々を必死に生きていた。
そんな日常の中で――
かなの心には、こんな仄暗い感情が芽生え始めていた。
「今日も『お姉様は天才』って先生は言ってたね。かなって、ダメな子なのかなあ……」
お稽古の日々は、「劣等感」との戦いでもあったのだ。
姉のゆりは、何をやらせても天才だった。
ピアノなら、かなは初級クラスなのに対し、ゆりは中級クラス。
お絵かき教室なら、かなはとにかく自由に描くのに対し、ゆりは日常の1ページを切り取ったような、しっかりとした絵を描く。
水泳なら、上手く水の中を進めないことを悔しがるかなに対し、ゆりは先生の動きを徹底的に観察し、淡々と練習して、上達していく。
かなも充分優秀なのに、同じ双子ということで、どうしても比べられてしまう。そのことに、かなは胸を痛めていた。
でも、絶対に一人で苦しませやしない。あいにく母も父も、他の周りの大人も、かなの気持ちには気づいてくれている。
それにだ。
(まだ完全にはそう思えていないが、僕だってかなの一部なんだ)
かな、一緒に苦しんで、一緒に戦っていこう。
❀❀❀❀❀❀
幼稚園に通った後、お稽古でしごかれる。そんな毎日に慣れてきたある日のこと。
「お手伝いさああああん!」
幼稚園に迎えに来てくれた、母親より一回り年齢が若い和風美女――お手伝いさんの胸へ、かなは飛びつくように抱きついた。
お手伝いさんのことを簡単に説明するなら、「母の相棒」という言葉が一番適切だろう。
彼女はいつも我が家の料理を作ってくれる人でいて、その他にも母の仕事の雑務をしたり、家事全般をしたりと、忙しい母に代わって今日のようにお出迎えしてくれている。
かなは、家にやってきた当初から、この人が大好きだった。纏う柔らかな雰囲気と、心臓のリズムが心地良く、すぐにかなは「もう一人のお母さん」みたいに考えるようになったほどだ。
お手伝いさんの女性らしい胸の柔らかさを感じながら、僕は思う。
(……やっぱり、ちょっと恥ずかしいな。僕みたいなおじさんは、こういうエプロン姿がよく似合う、上品な美女に弱いんだ)
最近の僕は、かなのやることや、感じたことを、他人事だとは思えなくなっている。
それでいて、しっかり別人格っぽい感覚もちゃんとあるので、たまに冷静な部分の僕が出てきてしまうのは、まあ仕方ないよね。
「お手伝いさん。お迎えありがとう」
少し遅れてやってきてゆりも、手伝いさんの足元に控えめに抱きついた。
抱きつかれたお手伝いさんの表情は、一見ノーリアクションに見える。
このように、お手伝いさんはいつも無表情な人だ。彼女の表情筋は、基本的に一割くらいしか働かない。
それは自身でも気にしているコンプレックスのようで、鏡の前で笑顔の練習をしているのを、かなは見たことがある。
ただ、かなもゆりも、ほんの少しだけ眼鏡の奥に見える目元が柔らかくなっていることに、気づいているんだよね。
それに、勤務外で手を口に当てて上品に笑うところも、かながいじけている時、「お母様には内緒ですよ」と、お茶目に笑ってキャラメルをくれるところも、僕もかなも大好きだ。
だからこれだけ安心して甘えられるし、いっぱい笑わせたくなる。
以前かながトイレいく前、「さあふんばろうぜ♪」と替え歌したら、口元をもごもごさせてたので……彼女の笑いのツボは、意外と浅いのかもしれない。
「さあ、お稽古に行きましょうか」
「えー。今日はサボろうよ。ダメ?」
かなが上目遣いでお願いすると、お手伝いさんの形の良い黒目が揺れる。
「……駄目です。今日は水泳のお稽古ですよ。乗って下さい」
「はぁい。爺や、運転よろしくね!」「よろしくおねがいします。爺や」
運転席に座る不真面目そうな中年に、いつものように声をかける。
彼は運転手の爺や。かなが彼を初めて見た時「爺や」と呼んでしまったせいで、まだ中年にもなっていないのに、そんなあだ名になってしまった。
かなの感性では、運転してくれる男性は、爺やとなるらしい。
「へいへーい。 ……ったく、まだ爺やって歳じゃないっての」
爺やがおしりをぽりぽり掻きながら、小さい声でぼやく。
聴力の良いかなはしっかり耳に捉えていたが、お手伝いさんに「基本的に彼のぼやきは無視して下さい」と言われているので、そのとおりにする。
「何か言いましたか?」
お手伝いさんが、爺やを視線で射抜く。
「……なんでもありません。さあ、お二人共どうぞ。安全運転で行きますからね」
それを受け、爺やも猫背気味だった背筋を伸ばした。
「「はあーい」」
僕たちが返事をして、車――黒のセンチュリーに乗る。これがいつものやり取りだ。
なぜこんな一見だらしない男が運転手をしているのかというと、どうやらお手伝いさんが頼み込んで連れてきた人物らしい。
お手伝いさんの幼馴染らしく、「粗野でだらしない男ですが、仕事だけはできますので」とのことだ。
ただ、かなとゆりにそう説明した時のお手伝いさんの表情は、酸いも甘いも噛み分けるような、色んな表情を孕んでいて……
二人の関係の詳細は不明だが、なんとなく、「大人だなあ……」なんて、かなは思ったのだった。
「お手伝いさんはこっち!」
「いつものですね。承知しました」
助手席に座ろうとするお手伝いさんに声をかけ、かなとゆりの間に座ってもらう。
そして、彼女の柔らかい太ももに頭を預けた。
「少しの間ですが、ゆっくりお眠り下さい」
優しい雰囲気に包まれながら、かなはまどろみに身を任せていった――
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