10話 チャンス到来! 前編
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次の日。
窓の外に見える空は、朝からどんよりと曇っていた。
「ちゅー」
「きゃっきゃ!」
かなとゆりにとって、外の景色なんて気にもならないみたいだ。かなが大好きな姉のふわふわもちもちのほっぺにキスをして、ゆりもコロコロと笑っている。
うん、今日も平和だ。
「どういうことよ!なんで私が今日でお役御免なの!なんでこんなにも何も上手く行かないの!」
そんな平和な時間を打ち消すような、雷のような声が聞こえてきた。
どうやら扉の外で、専属ナニーの彼女が荒れているようだ。扉越しにカリカリと爪を噛む僅かな音まで、かなの耳はしっかりと捉えている。
最近分かったのだけど、かなは聴力がかなり優れている。姉のゆりに聞こえない小さな音まで、クリアに聞き取れるからね。
この様子だと、どうやら、母が彼女に「今日で仕事は終わり」と伝えたらしい。母の積もり積もった不信感が、ようやく動き出すまでに至ったのだろう。
……ふう。これで、とりあえず安心できる。
でも、最後まで気を抜いてはダメだ。最後の日こそ、やけくそになって何をするのかわからないからな。今日はなんだか妙に嫌な予感がする。気を引き締めていこう。
コンコン。
「失礼します」
部屋のノックとともに、専属ナニーが入ってきた。
いつものように、僕はかなと代わり、表に出てくる。
鏡越しに見えたかなの金色の瞳は、スモークがかかったように落ち着いた色を放っていた。これは最近になって初めて気がついたのだが、どうやら僕が表に出ている時、ほんの少しだけ瞳の色が変わってしまうようだ。
「ゆり、かな。今日はあなた達にお別れを言いに来ました」
その言葉は不気味なほどいつも通りだった。
優秀な彼女は、悪意や幼稚さを隠すのが得意だ。いつものように、心の奥に感情を隠したのだろう。
「バイバイ?」「……」
「ええ、そうです。お別れです」
でも、ずっと注意深く彼女を観察していた僕には分かる。
今日の彼女には、言いようのない迫力があった。
それに、彼女のあの瞳。いつもより目が座っている。表面的にはいつも通りでも、瞳の奥が仄暗い。
(何か強硬手段に出るかもしれない。絶対にかなとゆりは僕が守らないと)
でも……
――怖い。
今日の危うい彼女と目が合うと、よりそう思う。
彼女の一挙手一投足。それが、僕の心をひゅっと縮こませる。
子供にとって、大人というのはとんでもなく大きな存在だ。自分より大きな存在に敵意を向けられると、それだけで強い圧迫感があった。
それに、2歳半の女の子では、できることが限りなく少ないことを、僕はよーく知っている。今日までにもどかしい思いを本当に何度もしてきたからね。
(落ち着け。できることをやっていくしかない。いつものように、考えるんだ。僕にできることは、機転を利かせることだけなんだから)
ピンポーン。
その時、珍しくこの家にインターホンの音が響いた。
「……失礼します」
専属ナニーは、部屋を出て玄関口に向かって歩いていった。
……ふぅ。
思わず深いため息が漏れる。
ひとまず、あんし……
「旦那様!?」
玄関口から、今まで聞いたことがないような専属ナニーの大きな声が、この部屋にまで届いてきた。ゆりにまで聞こえるくらい、相当大きな声だ。
「ああ、妻には内緒でこっそり来てしまったよ。どうしても天使たちに直接会いたくなってね」
え?パパさん、来ちゃったの?
「パパ。きた?」「うん」
「ゆり。うれし!」
父の声は大きい。そのおかげで、どうやら、ゆりにも状況が伝わったようだ。
かなは圧倒的に母が一番好きなのに対し、ゆりは父のことも、母と同じくらい大好きだ。ゆりは小さな両手をバタバタさせながら、扉の奥をじっと見ている。今から会えるのが楽しみで仕方ないのだろう。
そんな扉の奥から、いつもの我が家では決して聞こえてこないような、大きな足跡が聞こえてくる。音がなんとなくぎこちないのは、足音を立てずに歩こうとして、上手くできていないからだろう。
がちゃり。
「ゆり!かな!パパだぞ!会いたかった!」
「パパ!」
ゆりが父親の元へ駆けて行き、足元へ抱きつく。
そんなゆりを、父は宝物を拾い上げるかのように、優しく抱き上げた。
一方、僕はまだ感情が追いつかず、父を見上げるばかり。
実際に対面すると、とても大きな人だ。太っているわけではないのに、体格も声も存在感も足音も、何もかもが大きく見える。
「んん?かな?今日は瞳の色が少しスモークがかかったような……ま、気のせいか。ほら、パパだぞ?こっちへおいで」
ごめん、こっちはそれどころじゃないのだ。だって、今日は専属ナニーが危険な日で……
いや、違う。
もしかしたら、父のおかげで助かるんじゃないか?
もし彼女が強硬手段に出ようとすれば、父に助けを求めればいい。父が居る前では、彼女も不審な行動は流石に取れないだろう。
そして……
(母の部屋にある、あの未練たらたらな日記を見せれば――父と母の関係改善までできるかもしれない……!)
ふと、そんなひらめきがあった。そう、夫婦の関係改善には、今が絶好のチャンスなのだ。
父と母は専属ナニーによってすれ違いを起こされている。専属ナニーとしての仕事がなくなろうが、彼女が工作している限り、すれ違いは続くだろう。
だけど、母が「今でも父のことが好き」だと知ったら、父なら何かに気づくかもしれない。
……ごめんな、かな。せっかくパパが来たけれど、もうちょっとだけ僕が表にでているね。
うん、そう。やっぱりかなは優しい子だね。いつもありがとう、かな。
さて、小細工を始めようか。
「ママ!」
とりあえず、僕は父の元へ駆けていった。
ママと言ったのは、かなの覚えた単語にパパという言葉がないからだ。似たような言葉として、「おじ」という言葉も知っているけれど、いつも呼んでいる呼び方の方が違和感がないだろう。
少しもどかしいけれど、こればかりは仕方ない。
「ママ!こっち!」
父の手を引いて、母の私室へ行こうとする。
だが、いざ父に扉を開かせようとすると……
「旦那様。レディの部屋に勝手に入るのは……」
「そうだね。ごめんね、かな。俺がこの部屋に勝手に入るのは、ダメなことなんだ。ああ、僕の天使。そんなにしょんぼりしないでくれ」
ミッション失敗。僕の計画は専属ナニーによって止められてしまった。
さて、次の手を考えるか……
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