三秒の暗闇⑤
倉庫の入口で、ルーファスは静かに観察を続けていた。
微かに指先を動かすだけで、呼吸を整え、ハワードの様子を窺う。
その視線の先で、サラは魔法陣の中心に立つ。
夜風が外套の裾を揺らし、手元のチョークが微かに振動する。
精霊はまだ現れず、しかしその存在感は空気に残っている。
「……行くわ」
小さく呟き、サラは両手を円の中心に置いた。
光はゆっくりと立ち上がり、空気が歪む。
風スプライトが乱入し、粉塵を巻き上げるが、サラは微笑みながら補正する。
倉庫の中、ハワードは動きを止めた。
目の前の光が、突然現れたかのように揺らぎ、視界を捉える。
「何……?」
短く、しかし確実に動揺の声。
三秒の暗闇より長くはない、しかし心理的には強烈だ。
ハワードの手は微かに震え、紙を握る力が弱まる。
ルーファスは眉をひそめ、微妙に体を揺らす。
彼の計算では、対象はここで完全に制御されるはずだった。
しかし、サラの魔法はそれ以上に予測不能な揺さぶりを与えていた。
「ふふ……面白いわ」
サラは小さく笑い、視線を微かに横に動かす。
倉庫の奥にある梁に、風スプライトがくるくると舞い、粉塵を巻き上げる。
魔法陣の光がその粉塵に反射し、揺らめく様子が幻想的だ。
ハワードは紙片を掴み直すが、指先はまだ微かに震えている。
ルーファスはその変化を見逃さず、眉をさらに寄せる。
計算外の影響に、彼の計画もわずかに狂い始めていた。
「……なるほど」
サラは静かに息を吐き、魔法の持続を確認する。
精霊妨害は計算内だが、風の微妙な変化が、光の揺れに影響を与える。
この不安定さが、対象の心理をさらに揺さぶる。
「……うっ……」
ハワードの声が小さく震える。
紙片を握る手は、もう力が入らない。
ルーファスの目には、微かな焦りが浮かんでいた。
サラは次の一手を冷静に考える。
魔法はまだ完全ではない。
しかし、対象と依頼人の心理的バランスは、徐々に傾き始めていた。
「……次は、あなたの番ね」
小さく微笑み、サラは魔法陣の光を少し強める。
倉庫内の空気が震え、光の輪が微かに拡大する。
ハワードは一瞬、視界を完全に失い、動揺がピークに達する。
ルーファスは眉をひそめ、計算機を打つかのように目を動かす。
しかし、この予想外の揺さぶりに、まだ完全な対応はできない。
サラは冷静に観察する。
光と影、風と精霊の動き、ハワードの視線と手の動き――すべてが次の展開を決める指標だ。
「……よし、ここまで」
魔法の光が頂点に達し、三秒の暗闇より長い、しかし短すぎない揺らぎを作り出す。
ハワードの心拍が速まり、呼吸が浅くなる。
ルーファスはその変化に気づき、わずかに体を動かす。
サラは静かに息を吐き、魔法の持続を調整する。
次の瞬間、精霊の妨害が最大となるが、サラはそれを読み、光を微かに補正した。
ハワードの動作はさらに不安定になり、紙片は床に落ちる。
ルーファスの目に、焦りが明確に浮かぶ。
サラの計算通りだ。心理的揺さぶりは、依頼人をも逆に揺さぶっていた。
三秒の暗闇は、単なる魔法の瞬間ではなく、心理戦の舞台そのものだった。
倉庫の空気は静かに震え、光はまだ微かに残っている。
そしてサラの心には、次の計算が静かに浮かび上がった。
魔法陣の光がゆっくりと薄れ、空気の歪みが収束し始める。
倉庫の中、ハワードは床に落ちた紙片を見下ろして固まったままだった。
呼吸はまだ浅く、額の汗が光を反射している。
ルーファス・クレインは、微妙に体を揺らしながらも、表情を硬く保とうとする。
だが、目元には焦りがにじみ、指先が小さく震えているのをサラは見逃さなかった。
「……成功したかしら」
小さく呟き、サラは魔法陣の残光を手でなぞった。
風スプライトは舞い上がり、粉塵を巻き込みながら静かに消えていく。
光と影の揺らめきが、心理的余韻を倉庫に残していた。
ハワードはまだ紙を拾えず、視線を床から上げられない。
三秒の暗闇よりも長く感じられた揺さぶりは、彼の思考を鈍らせていた。
ルーファスは短く息を吐き、視線をサラに向ける。
その瞳には、単なる不安だけでなく、計算外の感情が混じっていた。
予想していたはずの結果が、自分の思惑通りにならなかったことへの苛立ちだ。
「……なるほど、こういうことか」
サラは静かに呟き、倉庫の奥で微かに揺れる紙片を指差した。
ハワードの動揺と光の残像から、依頼人が何を狙っていたのか、サラはすでに読み切っていた。
(狙いは心理操作……ハワードの次の行動を誘導するためだけの時間)
ルーファスはそのことに気づいていない。
あるいは、気づいていても計算を崩すほどの余裕はない。
サラは微笑み、次の仕掛けを心の中で準備する。
「……さて、次はあなたの番ね」
低く、しかし確実な声で呟き、サラは足元のチョーク粉を軽くはらう。
魔法陣は消えたが、心理的影響はまだ残っている。
倉庫の中の二人の男性は、その影響下にあることをサラは理解していた。
ハワードは紙を拾い上げ、まだ震える手で机に戻す。
ルーファスは微かに眉をひそめ、次の動きを計算する。
しかし、サラの冷静な観察眼は、それ以上の情報を把握していた。
(あなたの計算は、ここで止まるわ)
サラは静かに息を吐き、倉庫の出口に向けて歩き出す。
夜の海風が顔を打ち、冷たさを運ぶが、彼女の心は冷静そのものだ。
依頼人の真意は完全に把握済み。
そして、次の一手をどう仕掛けるかも、すでに頭の中で組み立てられている。
ルーファスは倉庫内で短く唇を動かし、ハワードを制止するように指示する。
だが、その声は冷たさを欠き、計算外の揺らぎが混じっていた。
「……ふふ、完璧ね」
サラは小さく笑い、手元のメモ帳をポケットに戻した。
三秒の暗闇で得た情報は、依頼人を逆に揺さぶるための武器となった。
倉庫の空気はまだ震えているが、サラには微かな余裕がある。
海風が強く吹き、倉庫の影を揺らす。
夜の闇に溶け込むサラの後ろ姿は、次の瞬間に向けて完全に静止しているかのようだった。
依頼人の真意は明らかになった。
そして、サラはそれを逆手に取る準備が整った。
夜は深いが、物語はまだ終わらない。
倉庫の空気はまだ震えていた。
光の残像は消え、風スプライトも姿を消したが、心理的影響は確実に残っている。
ハワードは床に落ちた紙片を握り直し、まだ微かに震えていた。
ルーファスはゆっくりとサラを見つめる。
眉をひそめ、短く吐息を漏らした。
「……計算通りにはいかないようだな」
サラは肩の外套を整え、静かに笑みを浮かべる。
夜風が彼女の髪を揺らすが、目は冷静そのものだ。
「ええ、あなたの計算は読めたわ」
低く、しかし確信に満ちた声。
ルーファスはその声に微かにたじろぎ、体をわずかに後ろに引く。
サラの推理力、冷静な観察眼――それが、依頼人の計算を逆に揺さぶったのだ。
「……なんだと?」
ルーファスの言葉には、驚きと苛立ちが混じる。
しかし、サラは動じない。
三秒の暗闇で得た情報を基に、彼の次の行動を予測していた。
「あなた、ハワードを操作したつもりでしょ。でも、私の魔法は“揺さぶり”だけじゃない。
計算外の微調整を入れておいたの」
サラは指先で微かに床に触れ、見えない線を描く。
その瞬間、ハワードの手元で紙片がわずかに滑り、ルーファスの目に入る。
「――!?」
ルーファスは慌てて手を伸ばすが、紙片は微妙にずれ、拾えない。
サラの魔法陣は消えた後も、その心理的効果を保持している。
ハワードの動揺、依頼人の計算の狂い、すべてが計算通りだ。
「ふふ……これであなたは、私の掌の中」
サラは静かに歩き出す。倉庫の出口に向かうその背中には、緊張感と余裕が同居していた。
夜風が外套を揺らすが、彼女の心は冷静そのものだ。
依頼人ルーファスは初めて、自分が操作されていたことを理解した。
ハワードはまだ紙を拾おうとするが、動きは鈍く、計算通りに揺さぶられている。
ルーファスは短く息を吐き、悔しさを抑えるように唇を噛む。
「……面白い女だ」
静かに呟くと、彼は倉庫の奥に向かって視線を落とす。
だが、もはや計算を取り戻すことはできない。
サラが仕掛けた“微調整の揺さぶり”は、依頼人の心理を逆に動かしてしまったのだ。
「夜風のせいかしら、それとも、あなたの油断かしら」
サラは微笑み、海風に髪を揺らされながら倉庫を後にする。
月明かりが差す港の岸辺で、一度だけ振り返る。
依頼人と対象、どちらもまだ心理的余波の中にいる。
三秒の暗闇――それは単なる魔法の瞬間ではなく、心理戦の舞台そのものだった。
そして、しょぼい魔法、単純な揺さぶりの計算的な使用こそ、最も強力な武器になったのだ。
「さて……次の依頼は、どんな計算を見せてくれるかしら」
サラは港の風を感じ、静かに笑った。
倉庫にはまだ夜の影が残るが、彼女の魔法の影響は確実に残っていた。
依頼人を逆手に取る、微妙な心理戦――これが、サラの得意技だ。
夜は深い。
しかし、サラの物語はまだ続く。
港の波音に混じり、三秒の暗闇は静かに、しかし確実に、夜に余韻を残していた。




