三秒の暗闇③
三秒の暗闇が過ぎ去った。
倉庫には、わずかに残った静けさが漂う。
ハワードは机の前で立ちすくみ、手に握った紙を落とした。
それは暗証番号の走り書きだったが、彼自身、何の意味も理解できていない様子だった。
眼球が小刻みに震え、呼吸は荒く、額には汗が光る。
「な、何が……?」
声は震え、言葉にならない。
電話機も紙も、手にしたまま落としてしまったことを、まだ彼は認識できていないらしい。
サラは倉庫の影に身を潜め、じっと彼の様子を観察していた。
視界を奪われた三秒間、彼が何をしていたかは完全に把握できている。
その間のわずかな手の動き、息の変化、肩の落ち方――すべて記録されたデータのように、頭の中で再生される。
(なるほど……)
サラは小さく唸った。
依頼人が三秒の暗闇を欲した理由が、少しずつ輪郭を帯びてきた。
しかしまだ、全貌ではない。
風スプライトは倉庫の端でくるくる回りながら、舞い上がった紙片を追いかけている。
粉塵を蹴散らす音、くすくす笑うかのような声――スプライトの存在は、サラにとって“成功の確認装置”でもあった。
「……やはり、あの男はただの観察者じゃない」
サラは地面に跪き、魔法陣の残りのラインを指でなぞった。
光は消え、円の縁は白いチョークだけが残る。
しかし計算通りに、魔法は完璧だった。
(精霊の妨害も、ほとんど補正できたわ)
微かな風が、魔法陣の端でくるくると舞い上がる。
サラはその動きに微笑む。
小さな勝利感は、依頼人の真意に気づく直前の期待感でかすかに揺れた。
ハワードはまだ震えていた。
一度机に手をつき、ようやくバランスを取り戻す。
だが彼の視線は定まらない。
その様子は、サラが以前推理した通り――計画通りの動揺を引き出していた。
(狙いはここだったのね……)
サラは静かに立ち上がり、倉庫の壁に手を当てて、周囲を確認した。
海風はまだ強く、鉄骨の梁は低いうなり声をあげる。
ルーファスは倉庫の反対側で腕組みをしているが、彼の表情は冷静というより、緊張と焦燥が入り混じっていた。
(観察しすぎ……でも、これは予想内)
サラは倉庫の隅で、魔法の残像を感じ取る。
小さな振動、粉塵の舞い、空気のわずかな重み――これらを読み解くと、ハワードの動揺の度合い、依頼人の心理状態まで推測できる。
「……あの人、どうして三秒を選んだのかしら」
ひとりごとに近い声が、風に消えていく。
三秒という時間は短すぎず、長すぎず。
対象を揺さぶるには十分だが、致命的ではない。
つまり依頼人は、金銭目的や単純な恐怖ではなく、ハワードの心理的な“微妙な動き”を観察したかったのだ。
(計画的……いや、賢いわ)
サラは少し笑った。
三秒でここまで人を翻弄できるのは、確かに悪知恵が働く人間ならではだ。
だが、三秒の暗闇は、単なる心理操作だけではない。
魔法の特性上、対象の視界を奪うことは容易でも、微妙な揺らぎを作るには高度な計算が必要だった。
その計算と、精霊の妨害、風の条件――すべてをクリアするのは容易ではない。
(よくぞここまで耐えたわ……私も)
その瞬間、サラは気づく。
この魔法の成功は、依頼人だけではなく、自分自身への挑戦でもあったのだ。
「……なるほどね」
小さく呟き、サラは倉庫の出口へ向かう。
ハワードはまだ机に手をついている。
だが視線はどこか遠くを見ている。
その隙を、サラは見逃さなかった。
(これで、依頼人の真意は……)
まだ完全には理解していない。
しかし、次の行動の糸口は掴めた。
倉庫を出ると、冷たい海風が頬を打った。
風スプライトは興味を失ったかのように、すぐに散っていく。
夜は依然として静かだった。
だがサラの頭の中では、次の策が渦巻いていた。
(次は……あの男に少し、驚いてもらわなくちゃ)
微かな笑みが、サラの唇に浮かぶ。
三秒の暗闇――
それはただの魔法ではなく、心理戦の幕開けだった。
倉庫の中、ハワードは机に手をついたまま、数秒間立ちすくんでいた。
呼吸は荒く、額の汗が光を反射する。
紙切れは床に落ち、しかし彼はまだそれを拾おうとしない。
「……何が起きたんだ?」
自分自身に問いかけるように呟く声は、明らかに震えていた。
暗闇は三秒しか続かなかったが、その短さは、彼の心に深い影を落としていた。
サラは倉庫の隅からその様子を見つめる。
静かに息を吸い、頭の中で計算を始めた。
対象が動揺している瞬間、依頼人は何を見たかったのか――それを読み解くためだ。
(彼の動揺は自然……いや、計算されたものかもしれない)
ハワードの手の震え、視線の揺れ、呼吸のリズム、肩の緊張。
三秒間で得られる情報は微細だが、心理戦においては十分すぎるほどのデータだった。
サラはポケットから小さなメモ帳を取り出し、素早く数字を記録する。
風スプライトが床に舞う粉塵を追いかけるたび、目の端で微妙な揺れを確認する。
魔法の“残響”はまだ消えていない。
そのとき、ルーファス・クレインが倉庫の入口に現れた。
懐中灯は消え、彼の表情は冷静だが、目には計算外の不安がわずかに残っている。
「どうだ、見届けたか」
低く、しかし明瞭な声。
ルーファスはハワードの方に視線を送り、次にサラを見た。
「ええ……見ました」
サラは淡々と答え、魔法陣の残像を指でなぞった。
光は消えても、空気のわずかな沈みが、まだ計算の余韻として残っている。
ルーファスは微かに唇を曲げた。
その動きに、サラは依頼人の真意の一端を感じ取った。
(……心理的に追い込むためだけじゃない。
何か、別の意図がある)
サラは倉庫の壁際に身を寄せ、ルーファスの動きと表情を解析した。
彼は視線を外さず、しかし手は微妙に緊張している。
そして、一定の間隔で時計を見ている。
(時間を気にしている……つまり、狙いはタイミングね)
ハワードはその間に机に手をつき直し、紙を拾おうとした。
しかし指先はまだ微かに震え、紙片は思うように掴めない。
「ふふ……」
サラは小さく笑った。
微弱な魔法で、ここまで対象を揺さぶれるとは思っていなかったのだろう。
しかし、笑みはすぐに引き締まる。
三秒の暗闇は成功したが、次の問題が待っている。
(次の行動……どう動くか)
サラは倉庫の奥にある空きスペースを確認した。
床の凹凸、天井の梁、風の流れ――魔法の精度を保つために必要なすべての条件は、次のステップにも関わる。
「さて……」
低く呟き、サラは手のひらで風の流れを確認した。
精霊は散ってしまったが、その残像はまだ空気中に残っている。
小さな巻き上がる渦が、今後の魔法実行にどう影響するか、頭の中で再計算する。
ハワードはまだ机に向かい、紙片を握りしめている。
彼の目は、暗闇の直後も、まだ視覚を完全に取り戻せていないようだった。
(依頼人の観察だけでは済まないわね……)
サラは思った。
三秒の暗闇はただの心理実験ではなく、依頼人の意図を探るための前段階だ。
これをどう利用するか、次の行動をどう設計するかが勝負になる。
「……準備はできてる」
小さく呟き、サラは倉庫を出る。
海風が顔を打ち、冷たさをもたらす。
だがその冷たさは、集中力を高める刺激に過ぎなかった。
ルーファスはまだ倉庫内に立っている。
その視線はサラの後ろ姿を追っているが、微かな動揺も隠せない。
(ふふ……次はあなたの番ね)
サラの心の中で、次の作戦が静かに形を取り始めた。
三秒の暗闇は、単なるプロローグにすぎなかった。
夜の海風が、倉庫周辺を吹き抜ける。
そして倉庫の中で、ハワードの心も、次第に波立ちはじめていた。




