三秒の暗闇②
魔法の発動まで、残り五分。
サラは第三倉庫の裏手に立ち、外套の袖を整えた。
海風はさらに強くなり、鉄骨の梁が低い唸り声をあげている。
精霊たちの気配も、さきほどより濃くなっていた。
「……仕事の前に騒ぎ始めるのはやめてほしいわね」
そう呟くと、足元の陰から、二匹の風スプライトがぴょこぴょこと現れた。
相変わらず渦を巻いて揺れ、サラの周囲を回り始める。
その動きはあきらかに落ち着きがなく、何か“期待している”ようにも見える。
(嫌な予感しかしないわ)
サラはポケットから細いチョークを取り出し、指先で回転させた。
魔法陣はまだ描かない。
風が強すぎるため、描けば即座にスプライトに悪戯される可能性があった。
(発動の二十秒前に描いて、十秒前に位置を合わせる……計算どおりなら間に合う)
時間管理は魔法の成功率に直結する。
今日のように風の強い夜は、むしろタイミングがすべてだ。
サラは倉庫の窓へ視線を向けた。
ハワードはまだ机に向かい、紙束を荒っぽく扱っている。
帳簿、封筒、電話、メモ書き――どれも部屋中に散乱しており、行動が不規則だ。
一度立ち上がって歩き出したかと思えば、また机に戻って電話を掴む。
そのたびに、額を押さえ、苛立ちを隠しきれていない。
(落ち着きがない。……視線の安定が悪いわね)
焦燥は魔法を通しやすくするが、同時に狙いを外れやすくもする。
微小魔法の厄介な点だ。
(せめて椅子に座ったままでいてほしいんだけれど)
サラがそう思っていると、ハワードが机の端に置かれた紙切れを拾い上げた。
それは昼に見た“暗証番号の走り書き”と形が似ている。
取り落とさないよう握り締めているが、手の汗で紙が湿っているのが窓越しにも分かるほどだった。
(暗証番号……金庫かしら。どちらにせよ、ロクなものじゃないわね)
ルーファスは何も説明しなかった。
ただ“三秒の暗闇”が必要だと言った。
その目的を語らなかったのは、語る必要がないと考えているからだろう。
そこに明確な悪意があるかどうか、サラはまだ判断を保留していた。
(依頼人は嘘をついているとは限らない。
けれど、“語らない”という選択が一番危ないのよね)
サラは視線を窓から外し、時計を確認した。
二十二時二分五十秒。
本番まであと三十秒。
海風が一段階強くなった。
鉄骨がきしみ、倉庫の壁がわずかに震えた。
その振動と連動するように、風スプライトががぜん元気を取り戻し、サラの外套の裾をくるくると巻き込む。
「今はやめなさい。ほんとに」
言っても無駄なのは分かっている。
スプライトは刺激に反応するだけだ。
そして海風は、彼らにとって最高の刺激だった。
サラは地面の状態を確認し、足元の石ころをひとつ拾って端に移した。
小石が円描画の邪魔をするのはよくあることだ。
チョークを握る指先に、僅かに汗がにじむ。
(落ち着きなさい……数字どおりに動けばいい)
サラは深呼吸をひとつし、周囲の空気を読む。
海風。
スプライトの渦。
倉庫の窓から漏れる光。
地面の凹凸。
靴底の摩耗具合。
外套の重さ。
微小魔法は、こうした要素の“積”で成り立つ。
ひとつが変われば、成功率は落ちる。
だからこそ計算し、補正をかけ、無駄を削ぎ落とす。
(計算は完了。……実行するだけ)
チョークを地面に落とし、円を描く準備に入る。
そのとき、倉庫の反対側――海に面したほうから、ゆっくりと靴音が近づいてきた。
細い金属音。
そして、小さな灯り。
サラはすぐに物陰へ半歩退いた。
姿を見せたのは、ルーファス・クレインだった。
サラが予想していなかった顔だ。
彼は懐中灯の光を地面に向け、何かを探すように歩いていた。
その顔には、昼間の余裕とは違う種類の緊張がある。
(……何をしているの?)
本来なら、依頼人は離れた場所で結果を待つだけのはずだ。
ルーファスはわざわざ現場に来る必要がない。
しかし彼は、まるで“タイミングを計っている”かのようだった。
時計を見ては歩みを止め、また歩く。
サラはそっと息を潜めた。
風スプライトが、彼の足元を面白がって追いかける。
渦が靴に絡み、服の裾を揺らし、紙片をひらひら浮かせる。
ルーファスはその存在に気づかないふりをしているが、視線が落ち着いていない。
彼は何かに怯えている。
(依頼人が動くと、魔法の計算がずれるじゃない……)
だが今は問い質している時間はない。
二十二時三分十分。
魔法発動まであと十秒。
サラは迷いなく地面にチョークを滑らせた。
――円を描く。
白い線が最初の四分の一を描き終わる。
風スプライトが反応する。
彼らは円が大好きだ。
今もその渦が、サラの背後で揺れ、狙いを定めている。
(今は来ないで。お願いだから来ないで)
しかし、スプライトにはお願いは通じない。
ひとつの渦が、勢いよく突っ込んできた。
風がチョークの線を歪ませようと吹き込む。
サラは咄嗟に体を低くし、腕で風を遮りながら線を修正した。
残り七秒。
もう一匹が、地面の粉塵を巻き上げ、円の中央へ送り込んだ。
粉塵は魔法式の大敵だ。
式の精度を狂わせる。
サラは靴先で粉塵を払うと、残りの線を描き切った。
円は歪んでいるが、補正計算の範囲内だ。
(成功率 −3%、まだ許容)
残り四秒。
ルーファスが窓を見上げた。
その目は異様なほど鋭い。
自分が何か“起こる瞬間”に立ち会おうとしている顔だ。
サラは深呼吸をひとつして、所定の位置へ足を置く。
時間が来る。
風も精霊も、依頼人すらも、もう止められない。
夜の倉庫に、ただ時計の秒針だけが冷たく進む。
二十二時三分二十秒。
――時刻は、すべての条件が揃った一点に達した。
サラは魔法陣の真上に立ち、呼吸を整えた。
風スプライトが背後で渦を巻き、倉庫の壁がかすかに震えている。
空気は軽く、冷たく、海の匂いを帯びていた。
「……行くわよ」
囁いた瞬間、サラの周囲の空気がわずかに沈む。
風の流れが変わり、地面の白いチョークの線がかすかに光った。
ハワードは窓の向こうで机に向かっている。
暗証番号を書いた紙を睨みつけ、手で額を押さえ、何度も深く息をついている。
その姿は、誰が見ても“追い詰められている男”だった。
(よし……位置は合ってる)
サラは指先を円の中心へと向けた。
魔力は微弱だ。しかし微弱ゆえに正確さが求められる。
「――三秒の暗闇」
発動。
空気がきゅっと縮み、周囲の風が一瞬だけ静止した。
サラは魔法陣の縁へ軽く触れ、視線の角度をわずかに変えた。
ここからの数秒は、ひとつひとつの動きが成功率に影響する。
だがその瞬間――
スプライトが突っ込んだ。
サラの外套がぱっと巻き上げられ、髪が散る。
魔法陣の端に風が吹き込み、白い線が揺れた。
チョークの粉が舞い、魔法式の境界がわずかに乱れる。
「ちょっと……!」
だが怒っている場合ではない。
(補正――できる!)
サラは素早く足の位置をずらし、魔法陣の歪みを計算に組み込んだ。
数値が頭の中で弾け、線の誤差が脳内で再構築される。
(誤差+1.2%、成功率は74%……まだ行ける)
魔法は軌道を描き始めた。
光は円の外へ、倉庫の窓へ、ハワードの背後へ伸びていく。
暗闇がゆっくりと、夜の闇よりも黒い影を作りながら移動する。
あと二秒。
その時、ルーファス・クレインが急に動いた。
彼は倉庫の窓に近寄り、懐中灯を消した。
そして、腕時計を見る。
(何をしてるのよ……!)
サラがちらと彼を見る。
その一瞬の視線の逸れが、スプライトを刺激した。
風の渦が、魔法の光線にかぶさるように乱入する。
「やめ――っ」
風が光を散らし、魔法が揺れた。
失敗すれば、暗闇は指定の場所から外れ、ただの影が漂うだけになる。
(保持して……抑え込んで……ッ!)
サラは歯を食いしばり、両腕を広げた。
微弱な魔力を最大限まで引き伸ばし、風の流れをねじ伏せる。
空気が震え、地面がほんの僅かに沈む。
風スプライトが驚いたように散った。
魔法の影は、再び軌道に乗る。
残り一秒。
ハワードが電話を取り上げた。
その瞬間、暗闇が彼の視界を完全に覆った。
三秒の暗闇が、倉庫を支配した。
ハワードの体がびくりと震える。
電話を落とし、イスが軋む音が窓の外まで聞こえた。
暗闇は静かに、完璧に、ただ彼の視界だけを奪っている。
その間の三秒、サラは息を止めていた。
一秒。
二秒。
三秒。
光が戻る。
ハワードは大きく息を吸い、目を見開いた。
何が起きたのか理解できていないらしい。
サラは魔法陣の中心で膝に手をつき、肩で息をした。
魔力量は少ないはずなのに、計算の消耗が激しかった。
「……成功。いちおうね」
風スプライトが、役目を終えたかのように足元を漂い、すぐに飽きてどこかへ消えた。
サラはチョークをポケットにしまい、静かに立ち上がる。
ルーファスは窓を見つめたまま、動かなかった。
だがその目には、明らかな安堵と――その奥に隠れた焦燥が見えた。
(依頼人は……あの三秒を“見届けた”かったのね)
だが理由まではまだ分からない。
サラは風に髪を揺らされながら、倉庫の裏手から離れた。
魔法は成功した。
だが、依頼の目的はますます不透明になった。
この夜は、まだ終わらない。




