表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

三秒の暗闇②

魔法の発動まで、残り五分。


サラは第三倉庫の裏手に立ち、外套の袖を整えた。

海風はさらに強くなり、鉄骨の梁が低い唸り声をあげている。

精霊たちの気配も、さきほどより濃くなっていた。


「……仕事の前に騒ぎ始めるのはやめてほしいわね」


そう呟くと、足元の陰から、二匹の風スプライトがぴょこぴょこと現れた。

相変わらず渦を巻いて揺れ、サラの周囲を回り始める。

その動きはあきらかに落ち着きがなく、何か“期待している”ようにも見える。


(嫌な予感しかしないわ)


サラはポケットから細いチョークを取り出し、指先で回転させた。

魔法陣はまだ描かない。

風が強すぎるため、描けば即座にスプライトに悪戯される可能性があった。


(発動の二十秒前に描いて、十秒前に位置を合わせる……計算どおりなら間に合う)


時間管理は魔法の成功率に直結する。

今日のように風の強い夜は、むしろタイミングがすべてだ。


サラは倉庫の窓へ視線を向けた。


ハワードはまだ机に向かい、紙束を荒っぽく扱っている。

帳簿、封筒、電話、メモ書き――どれも部屋中に散乱しており、行動が不規則だ。

一度立ち上がって歩き出したかと思えば、また机に戻って電話を掴む。

そのたびに、額を押さえ、苛立ちを隠しきれていない。


(落ち着きがない。……視線の安定が悪いわね)


焦燥は魔法を通しやすくするが、同時に狙いを外れやすくもする。

微小魔法の厄介な点だ。


(せめて椅子に座ったままでいてほしいんだけれど)


サラがそう思っていると、ハワードが机の端に置かれた紙切れを拾い上げた。

それは昼に見た“暗証番号の走り書き”と形が似ている。

取り落とさないよう握り締めているが、手の汗で紙が湿っているのが窓越しにも分かるほどだった。


(暗証番号……金庫かしら。どちらにせよ、ロクなものじゃないわね)


ルーファスは何も説明しなかった。

ただ“三秒の暗闇”が必要だと言った。

その目的を語らなかったのは、語る必要がないと考えているからだろう。


そこに明確な悪意があるかどうか、サラはまだ判断を保留していた。


(依頼人は嘘をついているとは限らない。

 けれど、“語らない”という選択が一番危ないのよね)


サラは視線を窓から外し、時計を確認した。


二十二時二分五十秒。

本番まであと三十秒。


海風が一段階強くなった。

鉄骨がきしみ、倉庫の壁がわずかに震えた。

その振動と連動するように、風スプライトががぜん元気を取り戻し、サラの外套の裾をくるくると巻き込む。


「今はやめなさい。ほんとに」


言っても無駄なのは分かっている。

スプライトは刺激に反応するだけだ。

そして海風は、彼らにとって最高の刺激だった。


サラは地面の状態を確認し、足元の石ころをひとつ拾って端に移した。

小石が円描画の邪魔をするのはよくあることだ。


チョークを握る指先に、僅かに汗がにじむ。


(落ち着きなさい……数字どおりに動けばいい)


サラは深呼吸をひとつし、周囲の空気を読む。


海風。

スプライトの渦。

倉庫の窓から漏れる光。

地面の凹凸。

靴底の摩耗具合。

外套の重さ。


微小魔法は、こうした要素の“積”で成り立つ。

ひとつが変われば、成功率は落ちる。

だからこそ計算し、補正をかけ、無駄を削ぎ落とす。


(計算は完了。……実行するだけ)


チョークを地面に落とし、円を描く準備に入る。


そのとき、倉庫の反対側――海に面したほうから、ゆっくりと靴音が近づいてきた。


細い金属音。

そして、小さな灯り。


サラはすぐに物陰へ半歩退いた。


姿を見せたのは、ルーファス・クレインだった。

サラが予想していなかった顔だ。


彼は懐中灯の光を地面に向け、何かを探すように歩いていた。

その顔には、昼間の余裕とは違う種類の緊張がある。


(……何をしているの?)


本来なら、依頼人は離れた場所で結果を待つだけのはずだ。

ルーファスはわざわざ現場に来る必要がない。


しかし彼は、まるで“タイミングを計っている”かのようだった。

時計を見ては歩みを止め、また歩く。


サラはそっと息を潜めた。


風スプライトが、彼の足元を面白がって追いかける。

渦が靴に絡み、服の裾を揺らし、紙片をひらひら浮かせる。


ルーファスはその存在に気づかないふりをしているが、視線が落ち着いていない。

彼は何かに怯えている。


(依頼人が動くと、魔法の計算がずれるじゃない……)


だが今は問い質している時間はない。


二十二時三分十分。

魔法発動まであと十秒。


サラは迷いなく地面にチョークを滑らせた。


――円を描く。


白い線が最初の四分の一を描き終わる。


風スプライトが反応する。

彼らは円が大好きだ。

今もその渦が、サラの背後で揺れ、狙いを定めている。


(今は来ないで。お願いだから来ないで)


しかし、スプライトにはお願いは通じない。


ひとつの渦が、勢いよく突っ込んできた。


風がチョークの線を歪ませようと吹き込む。


サラは咄嗟に体を低くし、腕で風を遮りながら線を修正した。


残り七秒。


もう一匹が、地面の粉塵を巻き上げ、円の中央へ送り込んだ。

粉塵は魔法式の大敵だ。

式の精度を狂わせる。


サラは靴先で粉塵を払うと、残りの線を描き切った。


円は歪んでいるが、補正計算の範囲内だ。


(成功率 −3%、まだ許容)


残り四秒。


ルーファスが窓を見上げた。

その目は異様なほど鋭い。

自分が何か“起こる瞬間”に立ち会おうとしている顔だ。


サラは深呼吸をひとつして、所定の位置へ足を置く。


時間が来る。


風も精霊も、依頼人すらも、もう止められない。


夜の倉庫に、ただ時計の秒針だけが冷たく進む。

二十二時三分二十秒。


――時刻は、すべての条件が揃った一点に達した。


サラは魔法陣の真上に立ち、呼吸を整えた。

風スプライトが背後で渦を巻き、倉庫の壁がかすかに震えている。

空気は軽く、冷たく、海の匂いを帯びていた。


「……行くわよ」


囁いた瞬間、サラの周囲の空気がわずかに沈む。

風の流れが変わり、地面の白いチョークの線がかすかに光った。


ハワードは窓の向こうで机に向かっている。

暗証番号を書いた紙を睨みつけ、手で額を押さえ、何度も深く息をついている。

その姿は、誰が見ても“追い詰められている男”だった。


(よし……位置は合ってる)


サラは指先を円の中心へと向けた。

魔力は微弱だ。しかし微弱ゆえに正確さが求められる。


「――三秒の暗闇」


発動。


空気がきゅっと縮み、周囲の風が一瞬だけ静止した。


サラは魔法陣の縁へ軽く触れ、視線の角度をわずかに変えた。

ここからの数秒は、ひとつひとつの動きが成功率に影響する。


だがその瞬間――


スプライトが突っ込んだ。


サラの外套がぱっと巻き上げられ、髪が散る。

魔法陣の端に風が吹き込み、白い線が揺れた。

チョークの粉が舞い、魔法式の境界がわずかに乱れる。


「ちょっと……!」


だが怒っている場合ではない。


(補正――できる!)


サラは素早く足の位置をずらし、魔法陣の歪みを計算に組み込んだ。

数値が頭の中で弾け、線の誤差が脳内で再構築される。


(誤差+1.2%、成功率は74%……まだ行ける)


魔法は軌道を描き始めた。

光は円の外へ、倉庫の窓へ、ハワードの背後へ伸びていく。


暗闇がゆっくりと、夜の闇よりも黒い影を作りながら移動する。


あと二秒。


その時、ルーファス・クレインが急に動いた。


彼は倉庫の窓に近寄り、懐中灯を消した。

そして、腕時計を見る。


(何をしてるのよ……!)


サラがちらと彼を見る。

その一瞬の視線の逸れが、スプライトを刺激した。


風の渦が、魔法の光線にかぶさるように乱入する。


「やめ――っ」


風が光を散らし、魔法が揺れた。

失敗すれば、暗闇は指定の場所から外れ、ただの影が漂うだけになる。


(保持して……抑え込んで……ッ!)


サラは歯を食いしばり、両腕を広げた。

微弱な魔力を最大限まで引き伸ばし、風の流れをねじ伏せる。


空気が震え、地面がほんの僅かに沈む。


風スプライトが驚いたように散った。


魔法の影は、再び軌道に乗る。


残り一秒。


ハワードが電話を取り上げた。

その瞬間、暗闇が彼の視界を完全に覆った。


三秒の暗闇が、倉庫を支配した。


ハワードの体がびくりと震える。

電話を落とし、イスが軋む音が窓の外まで聞こえた。


暗闇は静かに、完璧に、ただ彼の視界だけを奪っている。


その間の三秒、サラは息を止めていた。


一秒。

二秒。

三秒。


光が戻る。


ハワードは大きく息を吸い、目を見開いた。

何が起きたのか理解できていないらしい。


サラは魔法陣の中心で膝に手をつき、肩で息をした。

魔力量は少ないはずなのに、計算の消耗が激しかった。


「……成功。いちおうね」


風スプライトが、役目を終えたかのように足元を漂い、すぐに飽きてどこかへ消えた。


サラはチョークをポケットにしまい、静かに立ち上がる。


ルーファスは窓を見つめたまま、動かなかった。

だがその目には、明らかな安堵と――その奥に隠れた焦燥が見えた。


(依頼人は……あの三秒を“見届けた”かったのね)


だが理由まではまだ分からない。


サラは風に髪を揺らされながら、倉庫の裏手から離れた。


魔法は成功した。

だが、依頼の目的はますます不透明になった。


この夜は、まだ終わらない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ