第10話 「揺らぐ数値と揺らぐ視線」
放課後の教室は、傾いた光が床のタイルをゆっくり伸ばしながら、静寂だけを残していた。
アカデミア・ルミアでは、授業が終わると生徒たちは素早く散っていく。
放課後の時間すら、序列に関わる“生活ログ”の一部だからだ。
蒼は誰もいなくなった教室の片隅で、自分のタブレットを開いていた。
Rank Node【742】。
(……今日も普通だな)
ここ最近は「上がり続けている」と思い込んでいたが、実際には
742 → 739 → 744 → 741
と上下しているだけだ。生活の結果として極めて自然。
そう思った瞬間──
画面がふっと暗転し、ざらついたノイズが走った。
「……また、これか」
ほんの一瞬。
けれど、確かに“何かに触れられたような感覚”があった。
蒼が指を止めた時、教室のドアが静かに開いた。
「まだいたのね」
澄んだ声が、夕焼けの中で淡く響く。
振り向くと、淡い金髪を光に揺らしながら、
天音アリスが廊下からこちらを見ていた。
彼女は蒼とは違うクラス──Aクラスの序列一位。
交流などこの前の序列評価試験以外にほとんどない。
今日はたまたま、資料の提出でこのフロアに来ただけだろう。
(なんで……こっちに?)
アリスは蒼に近づかない。
距離を保ったまま、廊下側から教室の中を覗き込むように立つ。
だが彼女の視線は、蒼ではなく──
タブレットの画面の位置を正確になぞっていた。
「……ログの更新?」
「え? あ、いや……ただの確認」
「そう。あなた、よく“見る”のね」
言い方は無機質なのに、
なぜかその言葉には妙な圧があった。
蒼は思わず画面を伏せる。
「Rank Node の変動が気になるの?」
「……別に。ただ最近ノイズが……たまに」
その瞬間、アリスの瞳がわずかに揺れた。
数ミリだけ。
普通なら気づかない程度。
だが蒼は、その“揺れ”に胸がざわつく。
「ノイズ、ね……」
アリスはゆっくり視線を上げ、窓の外へ向けた。
まるで誰かに聞かれていないか確認するように。
そして、淡々とした声で言う。
「生活ログが原因じゃないわ。それだけは確か」
「え……?」
「Rank Node は生活の反映。
ノイズは“反映”とは無関係。
だから──本来は、起こらないもの」
(“本来は”……?)
なぜそんな言い方をする?
アリスは歩み寄らない。
距離はそのまま。
だが声には、明らかに何かを“隠している”気配があった。
「天城 蒼。
あなた、どこまで見たの?」
「どこまで……って?」
「……いえ。いいわ」
即座に切り捨てられる。
まるで“これ以上は喋れない”という線を引くように。
アリスは廊下に身を戻し、蒼の方を一度も見ずに言う。
「アカデミア・ルミアの管理は完璧。
本来、揺らぐはずがない」
「でも……揺らいだんだよ。数字も、一瞬だけ……」
言いかけた蒼を、アリスの言葉が遮る。
「──それ以上気にすると、消えるわよ」
空気が止まった。
蒼は思わず息を呑む。
「……消えるって、何が?」
「あなたが、よ」
その言葉は、冗談のトーンではなかった。
声は静かで、淡々としている。
しかしその奥に、凍ったような緊張が潜んでいた。
アリスは一歩だけ前に出る。
蒼との距離はまだ遠いが、声はわずかに低くなる。
「“揺らぎ”に触れないこと。
それだけ守れば、あなたは普通にここで生きていける」
「天音アリス……それ、どういう──」
「理解しなくていい」
ぴしゃりと切られた。
刺すような強さだったが、どこかに“心配”の気配があった。
アリスは踵を返す。
その瞬間だけ、微かに金髪が揺れた。
最後に残した声は、まるでため息のように小さかった。
「……あなた、本当に見ていないのね。
それなら──まだ大丈夫」
廊下の光の中へ消えていく、その背中。
蒼はタブレットを開く。
だが数字を確認する前に、画面が一瞬だけざわついた。
ノイズ。
まただ。
742。
正常に戻った画面なのに──
蒼の胸だけが、妙に冷たく震えていた。
(天音アリス……何を知ってるんだ?)
彼女が答えない理由だけが、
夕暮れより深い影を落としていた。




