第45章 女医の確信
夏の終わり。
夕方の風が少しだけ涼しくなり、
研究棟の窓から入る光にも秋の色が混じり始めたころ。
今日、藤宮葵くんが――正式に、私の研究室の一員になった。
今は、解析室のテーブルで、彼に研究室のルールや設備の説明をしている。
その横では、キララが葵くんの隣にちょこんと座り、
さも “研究室の先輩ですよ” と言いたげに胸を張っていた。
本来、医学部一年生が研究室に所属するのは珍しい。
解剖・生理・生化学と、基礎医学がこれから一気に押し寄せてくる時期だ。
それでも「研究がしたい」「手伝いたい」と言ってくれたのだから、
大した覚悟だと思う。
葵くんが語った志望理由は、脳科学・神経工学・AIへの興味。
そして――キララの兄の回復に、友人として少しでも関わりたいという想い。
……愛の力、だな。
ふと心の中でつぶやいたが、もちろん口には出さない。
キララに言えば、あの子は絶対こう言う。
「またそれ? 麻衣子さん」
――はいはい、と呆れられるのがオチだ。
私たちの研究室は、脳波やMRIといった脳活動の解析を主軸にしている。
だがその性質上、どうしても電気工学や情報工学の知識が必要になってくる。
医学生だけではどうにもならない場面が多いのだ。
だから、工学部系の研究機関と連携し、
共同でプロジェクトを進めることが日常になっている。
葵くんには、その “あいだ” をつなぐ役目――
私たち医学サイドと、工学サイドの橋渡しをしてもらえれば、
と考えていた。
その旨を伝えると、彼は途端に目を輝かせた。
「はい! それ、ぜひやりたいです!」
遠慮のない、その真っ直ぐな返事が心地よい。
隣で聞いていたキララも、ぱっと笑顔を咲かせた。
「……いいじゃん、葵くん。向いてると思うよ」
その声に、研究室の空気がふわりと明るくなる。
――ああ、この二人は本当に、よい刺激を与え合う関係なんだな。
私はそう思いながら、机に並んだ資料を整えた。
「じゃあ、まずは基礎から説明するわね。
覚悟して聞きなさいよ。医工連携って、なかなか骨が折れるのよ?」
二人は姿勢を正した。
夏の終わりの研究室に、かすかな緊張と希望が満ちていく。
***
その日の午後、私は葵くんを連れて、
共同研究先とのオンラインミーティングに向かった。
工学系の研究室と定例で行っている打ち合わせだ。
「今日は聞いてるだけでいいからね」
「……はい」
葵くんは、資料を丁寧にそろえながら少し緊張していた。
でしゃばるタイプではない。
むしろ、周囲の空気を乱さないように慎重に動く子だ。
モニターが点灯し、工学側の研究者たちが映し出される。
背景には、計算式で埋まったホワイトボードや、
配線むき出しの基板が積まれていた。
医学とは、まるで “空気” が違う。
「長期EEGログの“覚醒前後”の定義ですが……
医学側の見方と合わなくてですね」
私は医学的な立場から、覚醒前後の生理学的変化を説明した。
工学側はアルゴリズムの視点で疑問を返してくる。
葵くんは黙って聞き、丁寧にメモを取り、
資料を確かめるように静かにページをめくっていた。
――とても一年生らしい。
だが、
会話が少し噛み合わなくなってきたところで、彼がそっと手を上げた。
「あの……一つ、確認していいですか?」
控えめで、邪魔をしないタイミング。
工学側が視線を向ける。
「医学でいう“覚醒前後の変化”と、
工学側の“状態遷移”って……
同じ現象を指しているわけでは、ないんですよね?」
主任が短く息をのんだ。
「……確かに。兆候を見る医学と、遷移確率を見る工学。
前提がズレていたんですね。そこ整理しないと」
彼は急いでメモを取り始める。
「藤宮くん、いい質問です。
初心者の視点って、意外と大事なんですよ」
葵くんは軽く会釈し、それ以上余計な言葉は足さなかった。
必要なところにだけ、そっと手を伸ばした。
その一言が、会議の流れを確かに整えていた。
***
会議を終え、廊下へ戻る。
「……同じ“脳波”を見てても、
医学と工学って、考えてることが全然違うんですね」
「そうね。
だからこそ、つなぐ人が必要になるのよ」
葵くんは少し考え込むように視線を落とし、静かに言った。
「前提の違いに気づくだけでも、意味があるんだなって……
今日、ちょっと思いました」
私は歩みを止めた。
「葵くん。さっきの質問、よかったわ。
“どこがずれているか”に気づける人は、多くないの」
それ以上の褒め言葉も期待もいらない。
必要な評価だけを、最低限。
「分からないまま進むより、ずっといいわ。
これからも、気になったことはそのままにしないで」
「……はい」
葵くんは軽くうなずき、資料を抱え直した。
その横顔は静かで慎重で、でも確かに前へ進もうとしていた。
――この子は、派手ではない。
だが、必要な場面で確実に力を出す。
そういう “芯の強さ” がある。
今日の経験は、いずれ必ず役に立つだろう。
そう思いながら私は研究棟の出口へ向かった。
***
数日後。
私は研究室のメールボックスを開き、眉を上げた。
共同研究先の工学研究室から、こんな一文が届いていた。
「先日のミーティング、藤宮くんの視点がとても助かりました。
次回も可能であれば、ぜひ同席していただけると嬉しいです。」
思わず、ふっと笑みがこぼれる。
――やっぱり、気づかれたか。
控えめで、でしゃばらない。
それでも “必要なところだけを正しく見られる” 学生は貴重だ。
「……いい流れになってきたわね、葵くん」
私は画面を閉じ、次の資料を開いた。
静かだが確かな光が、
少しずつ形になり始めていた。




