寮の夜
共同風呂という名の戦場
夕食の余韻がまだ口の中に残っていた。
アールグレイの香りと、低温で仕上げられたローストサンドの滋味が、胃のあたりでやさしく灯っている。
なのに、脳はもう限界を主張していた。
(濃い。人も、出来事も、全部が濃い。胃は幸せ、神経はオーバーヒート……)
「葵君、行こう!」
ぱん、と軽快な音。彩音がタオルを抱えて笑っている。
「……どこに?」
「お風呂だよ。寮は共同浴場だから、みんなで行くの」
共同浴場――。
その言葉を反芻した瞬間、心拍が一段上がった。
(男女混在の寮で共同浴場……? いや、ここなら“ありえる”のかもしれない。いやでも、倫理……)
脱衣所は温かな木の香り。籐の椅子、白い籠、よく磨かれた鏡面。
「タオル、ちゃんと持った?」
「持った。二枚」
「えらい!」
人差し指でグッと示す彩音。小声で続ける。
「……一応、気をつけようね」
(救いはここにあった。彩音は“常識”を持っている)
扉が開く。湯気が押し寄せた。
白い大理石、湯面を渡る星の反射――天井のプラネタリウムが、まるで夜空を丸ごと貼りつけたように広がっている。
湯の縁に並ぶのは木桶と椿の柄の手ぬぐい。ラベンダーが柔らかく香り、壁の間接照明が湯面に波紋を描く。
「……リゾートスパじゃん」
思わず漏れた感想に、彩音が誇らしげに頷く。
「ここあ学園長の趣味なんだって」
「宇宙服の趣味、やっぱスケール狂ってる……」
彩音はタオルをしっかり胸元に留め、僕に振り返る。
「ほら、葵君。視線、気をつけて」
「お、おう……!」
(そうだ。俺は“普通の男子高校生”だ。距離感と礼節、守ろう。守りたい。守らせてください)
湯けむりの向こう――視乗先輩が現れた。
「ふぅー……温度最適!」
タオルをひらり、ざぶん。躊躇いゼロ、動作に一切の迷いがない。
「せ、先輩!? ちょ、ちょっと!」
「なに? 学びに遠慮は要らないのよ。芸術にね」
(学びと遠慮の関係性を一旦見直そう、マジで)
続いて咲良。
ふわり、と湯の縁に指を添え、静かに沈む。髪をまとめ直し、肩を丸めて香りを吸い込む仕草が、やたら品がある。
「湯気の温度と湿度、香りの立ち方がいいわ。呼吸が整う」
「だから紅茶理論を風呂に持ち込むのやめよう! 説得力はあるけど!」
「だって同じだもの。蒸らしは芸術よ」
(“蒸らし”を人生に適用するの、初めて見た)
遅れて、暁が黙って入ってくる。
足音は静か、湯の縁で一呼吸してから、音もなく沈む。背筋はまっすぐ、視線は泳がず、呼吸は深い。
「……背中、流すか?」
「い、いや、大丈夫です! お気持ちだけで!」
「そうか」
(内心ヒヤヒヤしたけど、今の“気遣い”は確かに気遣いだった。怖いけど優しい、という矛盾の塊)
「……っていうか!」
ふいに視乗先輩が、湯面から半身を起こしながら小さく首を傾げる。
「今さら気づいたけど、ここに男の子いるの、初めてじゃない?」
「今さらぁぁ!?」
咲良も頬に指を当てて、ふっと微笑む。
「言われてみれば、今までは女の子ばかりだったから……」
「もっと早く気づこ!? 順序って大事だよ!?」
彩音がくるりと僕の前に立ち、両手を広げて軽く遮る。
「だから、ちゃんとタオルで――って言ったのに」
「う、うん……!」
湯気がゆらぐ。星が揺れる。
視線を落とす。壁の水滴、滴る音、石のひんやりした質感。
(落ち着け。風景を見ろ。理性を守れ。紳士たれ、俺――)
――ガシャァァァン!
爆音。自動ドアが軽く跳ね、その隙間から鉄の巨体。
「ロボ風呂モード、試運転!」
「待った待った待った!! 今じゃない!!」
金属のアームが滑らかに伸び、カプセルがぽとりと湯に落ちる。
“ボフッ”という鈍い破裂音。
次の瞬間、白い泡が勢いよく立ち上り、ぷくぷく、もこもこと湯面を覆っていく。
青い香りがラベンダーを塗り替え、天井の星々が泡の山に細く砕けて沈む。
「きゃっ」
「わっ……」
彩音も咲良も、反射的に身をすくめる。
だが――泡は容赦なく広がり、腰まで、胸まで、ついには肩のあたりまで積もった。
白、白、白。
湯面の全てがふわふわの壁に変わり、そこに人の輪郭が、漫画の検閲みたいに丸ごと吸い込まれていく。
「……これ、逆に助かってない?」
言葉に出た瞬間、肩から力が抜けた。
(そうだ。何も見えない。安全。理性、大勝利)
「結果オーライだね!」
彩音が安堵の笑みをこぼす。
「たしかに。見えないなら、意識しなくて済むわ」
咲良は泡をすくって、手のひらでころころ転がす。
視乗先輩は泡を積み上げて、なにやら“塔”を形成し始めた。
「見よ、新しい泡造形の誕生!」
「やめて、いまは“目の保護壁”だから! 芸術に転用しないで!」
「……この香り、海藻エキス?」
咲良がふと鼻先を寄せる。
「ミネラル分は体を冷やさないし、呼吸の通りも良くなる。お風呂上がりにセイロンを合わせたら完璧ね」
「風呂に“合う紅茶”の話、世界初で聞いてる」
暁は泡の稜線の向こうで、静かに目を閉じている。
「……視界、遮断。落ち着く」
「(それはよかった)」
泡が視線を奪ったおかげで、空気が少しずつ柔らかくなっていく。
湯がぱち、と小さく鳴る。天井の星が、泡のつらなりに点描を付ける。
耳に届くのは、誰かが小さく笑う息、石に落ちるしずくの音、そして――肩の力が抜けていく自分の呼吸。
「桐ヶ谷君、ギター弾けるんでしょ?」
泡の向こうから、咲良の声。
「え、まぁ……ほんと少しだけ」
「今度、紅茶の香りに合う曲をお願いできる? 夜に聴きたいの」
「“香りに合う曲”の概念が初耳なんだけど! どういう選曲基準!?」
「深呼吸できるテンポ。吸って、吐いて、肩が落ち着く拍。たぶん、それが今の私たちに合う」
言ってることは抽象的なのに、なぜか分かる気がする。
(たしかに、さっきから呼吸の深さをずっと意識してる。泡の壁が、余計な力を“隠して”くれたから)
「ロボとセッションする?」
泡からぴょこっと視乗先輩の頭が出る。
「低音はロボのモーター音、高音はドリルで刻んで――」
「それ“音楽”って言い張れるの? 多分、自治体から苦情来るよ」
「芸術に苦情は付きものよ。つまり成功」
「超ポジティブ……!」
「……私も、聴きたい」
ぽつり。暁の声。
(短い。でも、その“乗ります”みたいな一言の破壊力、ずるいな)
泡が山脈みたいに寄せては返す。
湯の温度が少し高いのか、額に汗がにじむ。
(落ち着いてきた。やっと“会話”ができる。普通の、日常の、他愛のない会話――)
「ところで、桐ヶ谷」
視乗先輩が泡の塔の陰から手を振る。
「この泡、予想より膨張率が高いわ。安全性は問題ないけど、長時間はのぼせるかも」
「先輩こそ大丈夫です? 顔、赤いですよ」
「私は小さめ規格だから、熱容量が――」
「その理屈の使い方どうなんだ」
視乗の声が、わずかにとろける。
泡の稜線が呼吸に合わせて上下し、ふいに、その頭がふら、と傾いた。
「わっ――先輩!」
僕は反射的に身を乗り出す。が、泡の抵抗で足が取られ、危うく滑りかける。
「危ない!」
彩音の手が僕の前にすっと入った。二枚のタオルがしっかり結界を作り、僕の視界をやわらかく遮る。
「だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫。ありがとう」
(心臓、落ち着け。今意識すべきは“安全確保”。それだけ)
湯の縁――白い石の上に、視乗の小柄な影。
泡がはらはらと崩れ、頬の赤みが強い。
「ぅえ……熱、勝てない……」
「先輩、出よう。はい、ゆっくり」
咲良が湯面からすっと立ち上がり、泡の丘を崩さないよう両腕で支える。
暁は無言で背後に回り、転ばない位置へ足場を作る。
彩音は僕の前に立ったまま、湯気の向こうの動きを小声で伝える。
「大丈夫、いま縁に座った。お水、渡すね」
「助かる」
視乗の呼吸が、少しずつ落ち着く。
タオルを頭にのせて、氷嚢を額に。
「……ありがと。芸術は苦行……って言いたいけど、これはただの不摂生ね」
「認めた! よかった!」
「でも、泡造形は良かったでしょ?」
「安全面でね! 芸術面は審議中!」
ふと、ここでようやく笑いが揃う。
湯気に混ざった息が、白くほどけていく。
星空の光は泡の山に点描を落とし、ラベンダーと青い香りが、ほどよく中和されて鼻を抜ける。
(こんなに“落ち着かない風呂”なのに、今だけ、ちょっと“落ち着く”。変な話だけど)
「……桐ヶ谷」
暁が短く呼ぶ。振り返らず、声だけで。
「次は、背中、任せろ」
「いや、今はいい! でも――その“気持ち”は、ありがとう」
「うむ」
(会話成立の“うむ”、はじめて聞いた気がする)
「じゃ、今日は上がりましょうか」
咲良が柔らかく声をまとめる。
「のぼせる前に切り上げて、温かいハーブティーを少し。眠りの準備は、お風呂から続けてやるのがいいの」
「風呂上がりに紅茶、なんか贅沢……」
「眠りを整えるための贅沢は、日常の節約よ」
「名言だな、それ」
湯から上がる瞬間も、泡は厚い結界みたいに壁を作ってくれた。
タオルを受け取り、視線を落とし、距離感を測り合う。
当たり前のことを、当たり前に整えるだけで――なんだか、この寮で生きていける気が、ほんの少しだけした。
通路へ足を移す時、彩音が小声で囁いた。
「えらかったよ、葵君」
「……なにが」
「視線とか、距離とか。気をつけてるの、ちゃんと伝わってた」
「……そっか」
(救われる)
振り返ると、湯気の向こうで視乗が氷嚢を押さえながら、親指をぴょこんと立てた。
「次はのぼせない。データは取れた」
「次、あるのか……」
咲良はタオルで髪を押さえ、微笑む。
「今夜はカモミールブレンドにしましょう。深く眠れるように」
「お願いします」
暁は短く「うむ」と頷き、湯の残響を背に扉へ向かう。
扉が閉まりかける。
泡の山がゆっくり沈み、星の光がふたたび、素の湯面に戻っていく。
僕は一礼して、その夜空に別れを告げた。
(混沌の中にも、秩序ってあるんだな。ルールを作れば、呼吸が帰ってくる)
廊下に出た瞬間、遠くで「シュー……シュー……」という規則正しい呼吸音。
――宇宙服のパトロールか。
苦笑しながら、タオルで髪を拭いた。
(さよなら、僕の安らぎ。……いや、ちょっとずつ取り戻す。泡と、ルールと、紅茶の力を借りて)
今夜は、眠れる。きっと。




