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見えない楽譜

作者: Tom Eny

見えない楽譜


路地裏に、一人の男がいた。名は、健太。三十代半ばの彼は、かつて経験した壮絶な出来事が原因で、長い引きこもり生活を送った過去を背負っていた。心の拠り所は、アコースティックギターの音色だけ。人通りの少ない駅前や公園の片隅で、日々路上ライブを続けていた。冷たい風が吹き抜ける夜、弦を爪弾く健太の指は、まるでその風に合わせるように震えた。客など滅多にいない。ただ、自分自身の内に燻る何かを、歌い続けることでしか表現できなかった。


そんなある夜、いつものようにライブを終え、投げ銭用のギターケースを片付けようとした時だった。見慣れない、真新しい一万円札がそっと置かれていることに気づいた。一瞬、誰かの間違いか、あるいはいたずらかと訝しんだが、その日から、毎回のライブ後に必ずその一万円札が入るようになった。誰が? 何のために? 疑問は募るものの、その薄い紙幣一枚が、凍てついた健太の心の奥底に、微かな熱を灯すのを感じていた。


そして、その謎の投げ銭が始まった頃から、健太のライブにはもう一つの奇妙な習慣が加わった。いつも遠巻きに、一人の男性が立っているのだ。深いキャップを目深に被り、マスクで顔のほとんどを隠しているため、表情は一切読み取れない。彼はまるで路上の石像のように微動だにせず、ライブの始まりから終わりまで、じっと健太の歌に耳を傾けているようだった。その視線が、健太の孤独な歌声に、唯一の観客という奇妙な緊張感を与え、同時に、微かな安堵をもたらしていた。もしかしたら、この人が、あの投げ銭の主なのではないか――健太の胸に、漠然とした予感が芽生え始めていた。


謎の投げ銭とマスクの男性の存在は、健太の日々の生活に小さな変化と、漠然とした好奇心をもたらした。彼が何者なのか、なぜ自分に投げ銭をするのか。その問いは、健太の心の中で静かに、しかし確実に膨らんでいった。以前はただ時間をつぶすように歌っていた健太だが、今は、見えない観客と、見えない支援者の存在が、彼の歌に新たな意味を与え始めていた。一音一音に、かつてないほどの感情が込められるようになった。


そんなある日、健太の路上ライブの動画が、SNSで突如として大衆の目に触れることになる。最初は身近な数件の「いいね」から始まり、瞬く間に再生回数は数万、数十万と跳ね上がった。コメント欄には「この人の歌声、すごい」「心に響く」「ずっと応援してた」といった絶賛の嵐が押し寄せた。その中に、健太の目に留まるコメントがあった。「これって、もしかして**〇〇(有名インフルエンサーAの名前)**が言ってた人?」――健太は、インフルエンサーAが自分の動画を推奨していることに驚きと喜びを感じた。同時に、この社会現象とも言える自身の変化と、謎のマスクの男性がインフルエンサーAの投稿とほぼ同時期に、より熱心にライブを見に来るようになったことの間に、かすかな、しかし無視できない関連性を感じずにはいられなかった。彼の音楽が、誰かの見えない力によって、大きな波を生み出し始めたのだ。


有名インフルエンサーAの存在によって、健太の音楽が多くの人に届き始めたことへの感謝。しかし同時に、誰が投げ銭を置いてくれているのか、そしてそのマスクの男性は一体誰なのかという謎は、健太の心を掴んで離さなかった。彼の存在が、自分の過去の傷とどう繋がっているのか、健太にはまだ分からなかった。ただ、確実に言えるのは、彼の歌が、一人ぼっちの自分だけのものから、多くの人の心に届くものへと変わり始めたということだった。


動画がバズり、健太のライブには以前では考えられないほど多くの人が集まるようになった。小さな路上は、熱気に満ちたステージへと変貌を遂げた。しかし、その熱狂する観衆の中に、あのマスクの男性の姿はもうなかった。投げ銭も、あの不思議な一万円札が入ることはなくなった。彼は、まるで自分の役割を終えたかのように、静かに健太の前から姿を消したのだ。健太は彼の姿を探したが、どれだけ目を凝らしても、彼を見つけることはできなかった。


彼の不在は、かえって健太の胸に深く残った。彼は一体誰だったのか。なぜ、健太の音楽を支え、そして突然姿を消したのか。健太は、漠然と抱いていた「インフルエンサーAの関与」と「マスクの男性」への思い、そしてかつて経験した、あの苦しい引きこもりという時期を重ね合わせる。だが、**健太は最後まで、そのインフルエンサーAが、自身の過去の出来事に関わる人物であることに気づくことはなかった。**それでも、健太を支え、才能を開花させてくれた、名も知らぬ誰かの存在への深い感謝が、健太の心に強く刻まれた。彼は確かに、健太の人生という「楽譜」の、どこか見えない場所に、大切な音符を書き加えてくれたのだ。


健太は、顔も名前も知らない恩人への感謝を胸に、さらに音楽活動に打ち込んだ。路上ライブだけでなく、小さなライブハウスからのオファーも増え、やがてメジャーデビューの話も舞い込むようになった。彼の歌は、今やかつて想像もできなかったほど多くの人々に届く。ライブの度に、健太はふと観客の中に、あのマスクの男性の姿を探してしまう。彼がもう戻ってくることはないだろうと分かっていても。


しかし、健太は知っていた。自分の歌声が今、これほど多くの人の心に届いているのは、あの謎めいた恩人の存在があったからだと。彼の歌は、かつての自分と同じように孤独を感じている誰かの心に、そして、遠くでこの歌を聴いているかもしれない、健太にとっては最後まで正体不明のままの恩人の心に届くことを願い、これからも歌い続けられるのだ。

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